「軍師殿と劉備殿は本当に水と魚でいらっしゃる」
あまりお傍にお召しなさいますな、と劉備殿をとがめたすぐ後に軽口が飛び、皆が笑いました。酒席でその者ばかり親しく呼び寄せるのを止めたことを悋気だと茶化され、皆冗談に顔を緩ませてすました顔の私が一人拗ねているようなかっこうになりました。
遠ざけられた当の人間だけは反応に困ってもよいはずでしたが、徐庶は変わらずぼんやりと、しかしささやかに幸せそうに笑っていました。
徐庶――私と旧知の徐元直は、先日の赤壁での戦の勝利をもって曹操殿の軍よりこの劉備殿の軍へ帰順しました。劉備殿のもとに集う者はずいぶんと増えたので、彼が「戻った」のだと知る人は多くはありません。親しげにときには涙ぐみながら主と新参の裏切り者が語らっているのを見れば、人の好い我らが君が間諜にほだされているのではないか――と、心配の種もあるでしょう。
「軍師殿は疑り深い」
そう軽口に言われるくらいがちょうどよいのです。かつてはこの軍にまっすぐに前を見る英傑しかなかったため私も快く思われなかったものでした。結果を出したのだからよかったではないかというものではありません。私は、あなたがここを在処と決めたのならば、自然に、本当に腰を据えていけるようにと、均衡を執っているのです。
「孔明に俺は叱られてばかりだな」
小言を言っているのではないというのに元直は大きな体を丸めました。しかしその口元はゆるんでいました。
「何か、おかしなことがありましたか?」
「え、いや、すまない……。そういうわけじゃない。ただまだ夢を見ているみたいで」
曹操軍の軍規について聞くために元直を執務室に呼んだのですが、そのうちに軍下の将兵らの均衡に話が及んでいました。元直は眠いのではないかと思うほど心地よさそうな顔で話を聞いていました。
「劉備殿の軍にいられる。君と士元のいるところで、役に立てる……かもしれない。虫のいいことだとは自分でもわかっているよ」
そうではありません。そうではなくて……。
私は軍規の聴き写しと注釈を終えて筆を置きました。
「他にはいかがです」
「……早いな。俺と話しながらさっきの内容をもう? さすが孔明だ」
「後で確認もお願いします。他には?」
「ええと、軍規はそんなところだ。合理的だけれど劉備殿の軍にそのまま活かせるものではないよな……」
「言い方を変えましょう。曹操殿の軍下で何か得たものがあれば、教えてください」
元直は犬のように見上げながら、わずかに嫌そうに眉を寄せました。今ここでそれを? と、正論に興を削がれたといった非難が一瞬漂いました。何の興を削いだというのです。私はあなたの話をしているのに。
「何も……ないよ。曹操殿は噂通りの人だ。残虐無比、とかの扇情的なものを除いてね。君はわかっているだろうけど」
「実際的に天下の平定と民の豊かさを叶えようとしているのでしょう。それはもうよろしい。あなたが得て変わったことを私も学びたいのです」
それこそ間諜ではないのですから、情報だけを仕入れてきたのではないでしょう。彼は彼の考えあって1年の月日をあちらで過ごしてきたはずです。私はその目からの所感を聞きたかっただけです。
元直はみるみる当惑しました。理性的でないことながら、私は思い出して苛立ちを感じました。
元直が皆に追いつかない知識を取り入れようと焦り、私がまだ水鏡先生のもとに入門したばかりのころ、私たちはお互いに分担した書物を精読し、要旨を伝え合ったものでした。水面のような灰色の目が私の言葉を吸い込んで波立つのを見、書物の山が片付いていくにつれて揺れる声が当を得ていくのを聴くのは、このうえなく楽しい――と、私は思っていました。
いつの頃からでしょうか、それとも最初から徐々にだったのでしょうか。「君はもうわかっているだろうけど」と恥じるように彼が言うのです。私が概要を一聞くごとに十をふまえた質問をするからだとは知っていました。しかしそれを控えることは彼への侮辱ですから私はしませんでした。
門下生は私を知ると皆私との問答を避け――あるいは、私に正解を聞きにくるようになりました。元直だけでした、私と語らってがむしゃらに自らを高めようとするのは。私はそれを、敬愛するのです。水のように柔軟な彼を見て学んだのです。人は、世は、変わるのだと。
「あなたと一時敵対したのは少々悩まされる巡り合わせでした。あなたが何を得、今何者なのか、問う人は私しかいないでしょう。私にはそれを糾す義務があるのです」
じっと灰色の目を見つめて追及しました。劉備殿の宴席で皆が温かく緩むような明るい笑顔ではありませんが、日々の中で書物の山を間に挟んで目を合わせたようなささいな幸せを思い出させたかったのです。
ぴり、と薄氷が破れるような破綻を感じました。
「そんな……。君に……」
私は一瞬で落胆させられました。劉備殿と私たちとの未来があるのかもしれないと言っていたときとはまるで別人のような、流れの止まった淵が彼の目に宿っているのがわかりました。私にはわかりました。また失敗してしまったのです。
私はいつも失敗してしまうのです。あの赤壁でも、劉備殿があなたを、という私の力ではない切り札を使わなければあなたを連れ戻せていたかわかりません。どうしたらいいのでしょうか? どうしたら、私は人と共に歩めるのでしょうか?
卑屈めいたその上目が、ぎこちなくもおどけたような開けた光をいれて、冗談はやめてくれ……と、私を遠ざけていました。近づくなとは思われていないのです。しかし、近づかない高嶺に咲く花であることを、その視線が期待している。
私はあなたに愛されている。だからこのように冷たく反応を見下ろしている。だというのに、この腹立たしい明るさはなんでしょう。まさかあなたにはなんの含みもないというのですか。あなたの一年は一体何だったのです。私とほとんど永の別れをした月日に、まさか何も変わりがなかったというのですか。そして私を押しやった陣幕に戻ってきて、その瞬間に変われたとでも言うのですか。
「君にわからないことなんて、俺にはないよ」
斜にうつむいて被害者のように元直は言いました。まだ私が彼を見上げるように若く幼かったときから寸分と変わらない頸の傾斜でした。そうやって私は永遠に馬鹿にされているのです。反対に『君にはわからないよ』と顔が言っているのにあなたは気付いていないのでしょう。
彼は変われたのでしょう。稀なる輝きが彼の生を救ってくれたのでしょう。智を積み重ねるように、人も日々を積み重ねる中で救われていくと私は信じていました。しかし私と重ねた日々、私と別離した日々は彼に大したものを与えられなかった。私は敗北したのでしょうか。彼の天命に?
「あなたの言うことを、すべて真実だと思うわけにはいきません」
「好きなだけ疑ってくれてかまわない。それが君の仕事だし、俺も心からそれに協力したい……」
そうです。それが私の仕事。機を聴き時を見て風さえもねじ曲げる。
「君が大切なんだ、孔明。劉備殿のためにも無理をしてはだめだ」
許せなくて聞こえていないようにゆっくりと窓の外を見上げてみせました。この世に天命などないと笑うのは簡単でした。しかし軍師はそれを現実に覆してみせなければならない。私は蓄積したものによって今までそうしてきました。人がこれこそと息巻くものなどまぼろし。あなたが庵から私を出した、あのときから一年それを証明してきました。だというのに。
「今日はお帰りなさい」
気遣わしげに見ながら元直は退出していきました。他人の気配がなくなった部屋に、いまだささやかに続く酒席の語らいの声が薄い色になって流れてきていました。また彼はあそこに戻るかもしれません。皆、浮かれて。劉備殿のためとあの場を守ろうとする私も、彼と同じで劉備殿という陽の光に幼く浮かれているのでしょうか。しかし、私は。
燭台ごしに書棚に溢れ出した未読の書物を見やりました。火のかげに一心にそれを読む二人の少年の姿を見たような気がしました。ささやかな、人の火の光。私たちはなんのために学んできたのでしょう。そう、もし……、
「もし、すべてが……」
私はゆっくりと立ち上がり火をひとつ吹き消しました。揺れた長い影は、中庭に龍のようなかたちを一瞬落としていきました。
ほかの徐庶
運命なんてくそくらえ
赤壁から徐庶復帰直後。諸葛亮視点。徐庶と運命に立ち向かいたい諸葛亮がトゲトゲする。(3500字程度)
【R-18】徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~春の山菜のごまみそあえ
徐庶と天下を治める話したいなあと思ってるとボロ庵に連れ込まれてごはんを食べさせられる諸葛亮(10000字程度)
徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~漢水の鯉の洗い
龐統と連れ立って水鏡先生に会いに行って釣りとかする話(15000字程度)

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