【R-18】徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~春の山菜のごまみそあえ - 2/3

諸葛亮は夜風にゆれる草の中で、小川からあがってきた幽鬼と目が合った。鬼は大人の男の胸と肩をあらわにしていて、そのたくましさは初めて会ったころと少しも変わりがなかった。

「孔明? ……ええと、こんばんは……」

言葉を操るそれは幽鬼妖怪でなければ、仙道か。月に照らされた灰色の目は首を傾げるときらりと光った。

「なんですか、その鍋は?」
徐庶が裸の背に水妖の甲羅のごとく背負っていたのは丸い鍋であった。

 

赤壁の戦と長い流浪を終え、荊州の城砦に腰を落ち着けた劉備の一行は、穏やかな春先の夜に休んでいた。

明るい月に窓を開け、劉備の軍師諸葛亮は荊州の近年の食糧事情について集めた書を読んでいた。天下の例にもれず、この地も民や土地の管理が年々とずさんになっていっている。目の前の戦乱をやり過ごすためには、民生の管理をしている場合ではないし、しても仕方あるまいというほのかな絶望が記録から伝わってくる。諸葛亮は大まかに目を通して紐をとじなおした。

兵站のためにはもちろん、そもそもの目的として民の暮らしの安定は描かねばならぬものだ。民への仁を行うことだけをよりどころとする劉備という王者にはなおさらに。投げ出された土地に田畑の管理ができるまでは、またそれが実るまでは民は無産である。その点、「兵は無産」という常識を覆し、士気と兵站の両方の問題に一答を示した曹操の青州屯田兵という枠組みは悪くなかった。しかしかの兵はもとは略奪を旨としていた荒くれ者たちの集まりである。弱き民草も多い劉備のもとでは、また違った、かれらを養っていくための算段が必要であろう……。

諸葛亮は月の明るさを見やり、砦の外に出た。そろそろ、田畑を耕す時期である。諸葛亮も劉備が訪ねてくるまでは自分の庵の周囲で農民たちと畑を営んでいた。

戦乱を避けたあの場所には区画を決めた秩序があり、妻の作った水車と手押し車があり、働き者の隣人たちとの和さえもあった。自分を三度にわたって待つ間、劉備が憧れるようにその畑を見つめていたのを知っている。あの畑を、自分は劉備のつくる天下に実現させなければいけないのだと諸葛亮は思った。

膝を折って土の状態を見る。河に恵まれた地だ、少し湿り気があり、稲に近い植物もよく茂っている。諸葛亮はこれからの仕事を思って微笑んだ。そのようには思われづらいが、諸葛亮は土いじりや、食料と民生の安定を考えて計をめぐらすことのほうが、軍略よりも好きだった。地形図と照らし合わせて辺りを散歩していると、小さな川が記されているあたりからかすかな水音が聞こえてきた。それも確かめようと、近付いた。

突然、川水しかないはずの側面から音もない気合いの一閃と、直後激しい水音がした。

 

「悪かった……驚かせて本当にすまない、悪気はないんだ」

粗末な布を敷いた上に座らされ、諸葛亮は鍋をはさんで向かい合った男にぐじぐじと言い訳を聞かされていた。いつも、声ははっきりしているわりに言わなくてもいいようなことばかりをぐるぐると繰り返す男である。

夜の小川でいきなり音を発してきたのは昔馴染みの徐元直であった。水浴びついでに、魚をとっていたのだという。大きな水音は徐庶が魚を捕まえた音であり、そのために気配を殺していたので気付けなかったのだろう。

徐庶は諸葛亮を自分の草庵――という言葉しか諸葛亮にはないので名状しがたいが、ほぼ野宿をしているような山手の崩れかけた小屋に案内した。背負っていた鍋に汲んできた水をかまどにかけ、今は湯を沸かしているところだ。

「なぜ鍋を背に?」

と尋ねると、

「動物や野党に襲われたときに、防げるだろう」

と当たり前のように答えられた。つまり一人で流浪しているあいだは服の上から鍋をしょっているのだろう。

「このようなところに寝泊まりするから、襲われるのでしょう。砦も館もあります」

「いや、俺なんかが……。まだみんなも、しっかりした家に住めているわけじゃないんだ。俺はこういうのには慣れてるよ」

徐庶は川ではらわたを出してきた魚を手早く干しつるして手を洗った。みんな、というのは劉備を頼ってきた兵ならぬ民草のことであろう。彼らは仮設した住まいに寝泊まりしている。

「あなたは、まだ正式には劉備殿の軍には位置づけられていないとはいえ、劉備殿の軍師です。民の暮らしを安んじるためにあなたの働きが必要なこと、よく理解なさい」

「えっ? ……あ、ああ……。すまない。努力するよ」

うつむいて視線を迷わせて、そういえば同じ邸に書生として学んでいたころもこんなふうにもじもじと居心地悪そうにしてはふらりとどこかへ消えているようなことがあった。そのときもおそらくこんなふうな野で一人になっていたのだろう。

「あなたを頼みにしています」

わかっていなさそうなので、今度はふらりといなくなるのはやめろ、という意味も込めてくぎを刺した。徐庶は鉢でごまをすって何やらこしらえながら、返事ともつかない降伏の息をつく。

 

『俺に君みたいな才はない。でも、努力するよ』

 

そう徐庶が犬のように殊勝に言うと、門下生たちは溜飲を下げて徐庶のそばから散っていく。立派な体躯の年上の武人を言い負かした快感に酔って、彼らは得意げに徐庶にものを教えに来るようになる。そのたび、そうか、君はすごいな、と素直に感心しているように見えた犬は、そのうち調子に乗って誤った相手を、ふっと一瞬だけ呆れたような目で見る。

 

『すまない。その話は俺には、難しすぎるみたいだ。他をあたってくれ』

『君の話はすばらしいよ。でも俺は……。いや、忘れてくれ』

 

こんな調子で目をそらされた相手は、多く徐庶に執心してしまう。しかし諸葛亮は最初から徐庶の、本人も意識しないのだろう腹の底を感じ取っている。最初から、徐庶はこう思っている。『おまえにはわかるまい』――と。燕雀が鴻(おおとり)の志を知らぬとでも言うように。

 

湯が沸いたので徐庶は、これまた野山で採ってきた山菜を茹でた。

やわらかな若緑の木の芽、草の芽、羊歯(しだ)のたぐい。どれもみな食べごろの柔らかさのものだけを選ってあるようなのに、徐庶の持つ袋の中にはかなりの量がある。そこから無造作にひとつかみ、湯の中に放り込む。採集や狩猟といった原始的な食糧調達には期待をしていなかった諸葛亮は、その量に驚いていた。とうのたったものまで無理に集めないでも、こんなに採れるものだろうか?

「ええと、どうかしたかい、孔明? 君の嫌いなものがあったっけな……」

「これはあなたがすべて?」

「ああ。荊州は天下の要地なだけじゃなく、かなり土地が豊かだ。田畑になる土地を皆に割り当てるのは大仕事で、君にまかせるしかないけれど、それまでをなるべくもたせられるよう俺なりにがんばるよ」

徐庶が箸で鍋を混ぜると、春らしい、青い香りが広がった。ああ、あとこれを、と言って、渡されたのは小さな桜桃だった。

「早咲きの桜があったんだ。蜜は頭を働かせるのにいいって、先生が言ってただろう? 嫌いじゃなかったよな」

「ええ、ありがとう」

礼を言って受け取ると徐庶は自分がものをもらったように嬉しそうにした。先ほど頼みにしていると言われたときのうわの空とはたいした違いだ。諸葛亮はなぜ徐庶が自分をここに連れてきたのか意味がわかった。

自分に何かしてやりたいのだな。特にものを食べさせたいのだ。

散歩に出て主人に見せたい宝物がある犬のように浮き立ったようすで、徐庶は鉢にすったごまに穀醤をあわせて練っている。

「しばらくは貧しい暮らしかもしれないけれど、家がある、っていうのは、それだけで違うもんだ。劉備殿と皆が落ち着けたここを守りたいと思うよ。……あ、いや……、君には当たり前のことだな、家があるなんて」

徐庶は恥ずかしそうに頬をかいた。いま一歩家というものではないでしょうこれは、とも思ったが言わずにおいた。徐庶に帰れる過去がないのは知っていたし、建物のことを言っているのではないとわかったからだ。

鍋からあげられた山菜は緑濃く、翠玉のようにつやつやと照っていた。徐庶は箸で器用にがっとすくいとり、そのまま鉢にとった。湯をしたたらせた山菜にごまみそは雨後の土のようにゆるむ。それを背中を丸めて和える徐庶は、ほのかに微笑んでいる。自分がまつりごとの話をもちかけるときよりは明らかに幸せそうだなと諸葛亮は思う。だがそれには苛立ちはしなかった。宴席の音曲など、つかのまの逃避を求める愉しみは苦手だが、こういう素朴な幸せの笑みを、知らず知らずに徐庶が浮かべるのはよいことだと。

「ええと、……粗末な味付けだけど」

「いただきましょう」

鍋の湯気の上に高く手をもちあげて、あたたかな蒸気の上で鉢を受け取った。万が一にも鍋の真上で落とさぬように二人して両手でしかと受け渡した。珍しく徐庶をつかまえられたようで諸葛亮は少しだけ微笑む。それを料理に顔をほころばせたのだと思ったか、徐庶も目を輝かせるようにする。

ごまみそとあえた山菜は甘かった。

線維がしゃくしゃくとみずみずしく、少しとろりとした歯ざわりの種類もごちゃまぜだったが、一口ごとに苦みと香りが違いさわやかであった。炒ったものを持ち歩いているのであろう、すりたてのごまのこうばしい味を諸葛亮はよく噛みしめた。季節の野草と、塩と、穀類、油脂。簡素な、料理ともいえぬ料理だが健やかに生きていくために必要なものがそろっている。

それが徐庶のひとり獣のごとく放浪した月日によって磨かれた生存術なのだとしても、しかしまた獣のごとく、この世の理を自然に感得したように、人間の浅知恵より高く跳躍して、洗練されていると感じた。

この人が必要だ、と、もそもそと山菜を噛みながら何のためにともつかず諸葛亮は思った。

 

ふと目線を上げると徐庶が不躾に思いきり食べる様子を見つめてきていて、諸葛亮は反射的にぶすりと顔をしかめた。普段は嫌な顔をあらわにしてもよいことはないので静かにしているのだが、犬のしつけにははっきりとした態度を示してやるのがよい。

「あっ」

「なんです」

「いやっ、すまない。俺はやっぱり、ものを食べてる君を見るのが好きだなあと……。なんというか、生きてるんだなあというか……」

「……この山菜は、どのあたりから採ってきているのですか。私も足をのばしたいものです」

要領を得ないことを言ってわたわたしているのを流してやるついでの、ごくふつうの質問になぜか徐庶は表情をこわばらせた。

「……いや、……ええと、へんなことを言ったな……。君がそんな……。
俺の粗野を君に押しつけたかったんじゃないんだ。君は……君らしくいてくれ。どこまでもついていくよ」

その力を自分の隣で、補い合って揮ってほしい、どうかもっとあなたを教えてほしい、またこうして何か作って食べさせてほしい。

これから言葉を選んで伝えるはずだったことを一気に封じられ諸葛亮は落胆した。また、舞台から降りられてしまった。『その台から下に向かって話すがいい』『おまえにはわかるまい』――。

「……生きていないと思うのですか?」

まだ少し残っている鉢を置いて諸葛亮は冷たく言った。冷たいからと、心あらぬ書物の化身とおののくほど、あなたは臆病者でも、愚か者でもないはずだと言うために。しかし徐庶は驚きあわてた。機嫌を損ねた、と顔を青くしている。それにいよいよ諸葛亮は腹を立てる。

なにを恐れることがある、畏れてほしいなどとあなたに思ったことはない。あなたは私などからはたやすく逃げ、獣にもうち勝ち、火をおこし魚を干し野草を料理して、今や家さえもあるというのに。

「曹操殿のもとで、あなたの友はもういないものと思っていたのですか?
私も、あなたを死んだのと同じと思っていると、思っていましたか……?」

 

→次ページへ続く

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