徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~漢水の鯉の洗い - 2/4

夜風の蕭々たる林。簡素な庵の戸から食事を煮炊きした香りが漂っている。男が痛みをこらえるような声も。つい先程までは、政局を読む議論であったはずのものだが。

もはや湯気も紛れ消えた庵の中で動いているものはひとつであった。庵の主である。しなやかに鍛え上がっている腿の筋肉が一定の律動でたわんでは張る。その繰り返しのたび下に敷いているものと汗ばむ肌とのあいだで、ぱちんぱちんとひかえめな音が響く。

「あッ……、う、……孔明……、孔明……」

上等な剥製のように身動きせずに上に乗られているのは諸葛亮であった。隣には彼の持ち込んだ、地図の描かれた大判の布がある。着衣はほとんど乱れずたまに地図に目をやりさえする。徐庶もわきまえたように清麗なようすに手を出さず、目も見ずに無心に腰を上下させている。諸葛亮も刺激には反応をみせるのだが、白妙に薄墨をひいたような眉間の皺と閉じたまつげが、迷惑に溜息をつくようにも見える。

 

晩に徐庶を訪ねた諸葛亮は今後の他勢力の動向について意見を求め、そうこうしているうちに襲われていた。途中までは徐庶もまじめに話していた、というかかなり気負ったようすで、緊張に耐えられなくなった一度目は夜食に鍋料理を出してきた。乾燥させた保存用の野菜くずと米を煮たものに、あぶった干し魚をほぐし混ぜた雑炊は徐庶らしい滋味があり、頭が働きます、と諸葛亮は素直に喜んでみせた。そこでいったんは緊張が抜けたようで話ははずんだのだが、またそわそわとし出して結局これだ。

ことが済んで諸葛亮は自分の服よりも徐庶の乱れた着衣を先に正した。母親のようにではなく、仕立て屋のようにぴしぴしと自分よりも体格の良い男の服の皺をのばし、肩を撫でつける。なじるでもあからさまに呆れるでもない平静そのものの様子に徐庶はどうしていいかわからない。予定外の房事にも諸葛亮は慌てず照れもせず、猥雑なのはやっぱり俺ばかりだ、と思う徐庶の目を、少女のように涼やかにのぞきこんでくるのだ。

「いつもいつも……悪い」

「いいえ。かまいません。それであなたの気が済むのなら」

着付けの仕上げのようにそっと目の下の頬に寄せる、諸葛亮の唇に甘さやべたつきはない。まして軍師殿に欠けていると言われるところの、共感的な慈しみなどあるはずもない。

 

十分に意を交わして満足したのか、そのうち諸葛亮は帰っていった。せめてまともな建物に住めと諸葛亮が探した荊州の空き家と、劉備の居城との間には浅い川がある。毎回そこまで送っては、最初に訪ねられたときと同じように抱え上げて渡してやる。簡素だがよく手入れされた白黒の衣は汚れひとつなく、代わりに濡れる徐庶は下男のようだ。おそらく来るときは少し下流にかかる橋を渡ってきているのだろう。しかし抱えてやりたいので徐庶は送るとき最短の道をゆく。諸葛亮も何も言わない。

青空の鳥の影のように遠ざかっていく、ひるがえる友の白衣を眺めて徐庶は今日も反省した。徐庶だってなにも、人が自分の庵にのこのこやって来たら最後、とって食わずにおられないというのではないのだ。それは男を引き込んで寝るなりゆきになることだってあるが、求められてそうなるわけで、諸葛亮はぜんぜん望んできてなどいない。

百歩ゆずってこちらのことをそういう意味で好ましく思ってくれているとしても、あくまで友人として軍師としての語らいを求める態度を示されていることは確かなのだ。そのくらいは徐庶にもわかる、わからねばならない。あの友人に下世話な憶測をしてはならない。策と先見の世界が肌と肌の世界にずれこんでしまうのは完全に徐庶の混迷のせいで、それを諸葛亮は辛抱づよく、というように受け入れてくれていた。彼ほどの人が懲りずに何度もこんなねじの飛んでいる自分を訪ねて意見を求めてくる意味がわからない、と徐庶は途方に暮れる。少しは気持ちよく感じてくれてはいるようだが。

 

諸葛亮と徐庶は山菜のごまあえの一件(と徐庶は内心で呼びならわしている)から、しばしば徐庶のねぐらで夜食をともにするようになった。はじめは諸葛亮が私も何かあなたに作ります、と言って、試みたようだが、しばらく待ってくださいと言われて流れた。ものづくりについては比類ない妻をもつ理論担当の彼は料理には不向きだったのだろうと推測して、徐庶はかわいらしく思った。自分が友のできないことを与えられるというのは徐庶にとって嬉しいことだった。たとえ本当に役に立ちたいところと関係ないにしても。

それにしてもいい加減、昼は兵士や農民と話して少々仕事をこなし夜は友に夜食を食べさせるというだけでは、さすがに小役人以下ではないかと思い始めているのだった。

 

「士元、出かけられるか?」

「おおっと。ちょいと待っとくれ」

灰汁色の外套を肩にかけて龐統はのそりと部屋から出てきた。外に出て馬に乗ると見える中の衣は、暗い色を好んでまとう彼には珍しく白っぽく陽をよく照り返していた。小柄で姿勢の低いすがたも陽気に機嫌よいように見えて、気持ちのいい晴れだ、と徐庶も思う。

「悪いな。俺と違って忙しいだろうに連れ出して」

「毎日練兵と情報収集に駆けまわってる働き者が何を言ってるやら。暇なもんさ。魯粛どのの使いはもう済んだし、元直がいるなら気づまりな護衛やなんやが断れて、こっちにはありがたいばっかりだよ」

龐統は孫呉の魯粛の使いとして諸葛亮を訪ねてきていた。再会した徐庶に誘われて、陽気の中出かけることになった。二人の、そして諸葛亮の師・司馬徽――水鏡先生のもとへ。

「いい晴れだな。先生を訪ねるのはずいぶんと久し振りになってしまった……。俺は、新野を離れたとき以来だよ」

「そう何年もたってないじゃないか。あっしのほうが会うのは久し振りだよ。手紙なんかは書いていたんだけどねえ……」

「士元は先生と縁戚だものな。門下にいたときも、士元は半分先生みたいで特別だった。孫呉は今勢いがある。魯粛殿も発言力のある人だし、さすが士元だな」

「よしとくれ。魯粛殿は人には見向きされないものを拾うのがお好きなのさ。あっしも別に、孫呉に骨を埋めようってんじゃないしね。……しかし、元直が曹操の船の上にいたのを見たときは驚きもしたが、まあ諸葛亮とあっしとおまえさんがいまの天下で見事にばらけたもんだと思ったよ。今じゃそこは劉備殿が有利のようだがね」

臥龍、鳳雛と名付けられた二人と自分が同じ重さの駒として語られているのを聞いて徐庶はあわあわとした。

「俺は曹操殿の蒐集癖の網にひっかかっていただけだよ。士元も、劉備殿のもとへ来ればいい。臥龍鳳雛を手に入れたら、天下を手にできるんだろう?」

「はは、考えとくよ」

龐統は軽口に笑った。それから横の徐庶を見上げてまた笑うような目元の動きをする。

「ええと……なんだい? 士元」

「いんや。なんだか曹操の陣から劉備殿のとこに来たときのおまえさんはずいぶんと悲愴感って様子だったからね、ずっとその調子だったら気詰まりだと思ってたとこさ。元気が一番だよ」

子供か俺は、と徐庶は力が抜けたが、確かに、龐統にかかれば子供だ。違いない。だからこそ諸葛亮といるときと違って気楽なのだ。諸葛亮は、いやたいていの若者は徐庶より若く、なんとかして守り導けるよう、見限られないようにと力ばかり入ってしまう。

年齢の話ではない。徐庶はずいぶん年長で水鏡先生のもとに入門したため、学友の中では悪く目立ってとうが立っていた。そういう妙な立ち位置であることを、龐統がそこにいると自然に忘れることができた。龐統は門下では書生とはいえ教える側のようで、誰からも敬われたが、それに頓着しているようでもないところに徐庶はひそかに憧れた。

徐庶の育った侠の世界の兄分たちは目下を守り、弱者を庇護下においてやるための見栄を大事にしていた。歳ばかり上で学問を知らぬ徐庶や、若く新参でありながら先生にまで一目置かせる諸葛亮は、学問の世界で宙に浮いていた。龐統は浮いた自分たちの世話をさりげなく焼きながら、自分を頼るがいい、というそぶりは見せなかった。それが不思議だったし、自分にはできないことだと徐庶は思った。今まさにできていない。頼ってほしいも寄りかかりたいも、どちらも制御できずにいる。

平原の川沿いは風が心地よい。駆け足の馬の上で笠をおさえながら、龐統は少し大きな声でのびのびと聞いてきた。

「元直。おまえさん、劉備殿はこれからどうするのがいいと思う」

「劉備殿は早く国の王になるべきだ。そしてすぐにはかなわないけれど、いずれは仁の道の描く通り新しい漢の皇帝に。だけど……」

天候のよさのせいか、徐庶の弁舌も軽やかに動いた。

徐庶は劉備の治め守る国を思い描く。

曹操の国の未来のようには、その姿ははっきりしない。しかしそこはもはや乱世ではない。それだけが確かだ。人の、人らしい心を信じる劉備は甘すぎるのかもしれない。けれども劉備は、たやすく揺らぐ人の情理の守護者であろうとする曹操とかつて同じ世を見て、比肩する英雄として惹かれ合った。道が分かたれたのは、きっとその「信じる」という弱さについてなのだ。

確かに劉備は甘く弱い。

けれども、劉備に根拠もなく信じてもらえることが、自分を人間にするような気がした。

流民たちはきっと、自分と同じだ。喰らい喰らわれ、明日のことなどわからない獣である心を、劉備に当たり前に信じ見つめられた瞬間に人間になった。それが昨日と同じ日々より、耕す畑よりすばらしいことだと思ったから、どこまでも劉備についていくのだ。

「劉備殿がこのままでは乗り越えることができない壁がたくさんあることは、わかってる。俺に何ができるだろう」

徐庶には劉備の無力ばかりがわかった。劉備がなぜ人を信じられるのかはわからないのに、嘆きと混迷ばかりがわかった。それは自分に似ていたから。劉備の道を守り、信頼に応えることは、自分の心に応えることに等しかった。

そして弱く甘い自分の心に応えることほど、徐庶にとって難しいことはなかったのだ。

「そう大層なことはできやしないさ」

「わかってるんだ。俺にきっと何も為せないことは。だけど……」

「そういうことじゃないよ。おまえさんにも、誰にも、諸葛亮にも、たぶんおまえさんが望んでるようなことはできないよ。おまえさん、新野で八門金鎖の陣をめためたに破ったんだってねえ。だってのに、いつの間にやら劉備殿のもとから消えたとか」

徐庶はまさにそのときの気持ちを思い出していたところだった。あの、自分の手にした勝利が、大事の前の小事、英雄のための道しるべをつけることにすぎないのだという気持ち。

けれど、諸葛亮になら何か、自分には考えも及ばぬような何かができるはずだ。他人は皆そのように見える。曹操や劉備のもとの将や一兵卒、民のひとりひとりに至るまで、前に向かっているものはみな、誰かを幸せにし、何かを作り出し、人に生き様を見せ命の証を残すだろうことがわかる。そのすべてを眩しく思う自分は、このままでは星のように輝けはしないのではないだろうか?

黙りこむ徐庶に龐統は続けた。

「何も為せないだのなんだのなんて、そいつのつまらない意地さ。そのときの劉備殿たちにしたらおまえさんの策は神霊のしわざのようだったろうが、何が気に入らないんだか本人は落ち込んでいたたまれなくなっちまったってわけだ。まあ諸葛亮と同じとこには仕えたくないような気持ちはわかるけどねえ……」

「そ、そういうつもりだったんじゃない……」

龐統はたまに諸葛亮に軽くあてつけるような皮肉を言う。諸葛亮が嫌いなわけではない、とあわてて弁解したつもりだったが、しかし「諸葛亮と同じとこには仕えたくないような気持ち」でなかったと、言えるだろうか? あの龍に比べて自分はあまりに小さく、諸葛亮がいるならばそこに自分がいる必要はない、いても邪魔であろうとまぎれもなく思っていた。それも、居場所を手放す自分を憐れむような気持ちで。

諸葛亮を人は遠巻きにする。隣にいられるのは、彼の妻のように健やかな才気煥発の人か、劉備のような大河の器のある人だけだ。ただの人間は龍と正気で会話できず、龍を浮かべる水をもたない。
自分がそうでないことに、徐庶は傷ついたのだ。それは傲慢な繊細さだった。

「できない無理はするもんじゃないよ」

人の慢心を突いても龐統はあざ笑うことがない。学問の場でもそうだった。ただあたりまえのことを、飾りなくかんたんに言う。

「向いてないことは、いくらはりぼてを立派にしても長く続きやしないさ。諸葛亮を見な。やっこさんときたらまるで人にわかるように話そうとしないだろ。まったくたいした頑固者だよ。おまえさんたちはよく似てるんだ」

「俺と孔明がかい? どこがだ……」

「まあ、元直にはわからないだろうねえ。あっちはそういうつもりのようだが」

徐庶はぎくりとした。そういうつもり、という言葉尻に今の自分たちの関係を勘付かれたような気がしたのだ。特にやましいことではない、男同士の共寝などは。しかし甘えを隠しているそういう言い訳は、龐統には見抜かれるだろうと思った。

 

→次ページへ続く

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