徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~漢水の鯉の洗い - 3/4

「さあて、ここまで来れば知った道だね。荒れちまってはいるようだが、まあよくあることさ……」

山沿いにいくつかの家が固まっている辺りに着いて龐統は馬を降りた。徐庶も馬を降り徒歩で水鏡先生の私塾となっていた家へ向かう。そのうち、知った道だ、と言うのに、先をゆく龐統が一本道を違えた。何度もともに歩いたことのある道筋だ、あれっと思って声をかけようとしたところで、逆に背後から声をかけられた。

「元直? 士元ですか?」

声に振り返ると、道の叉に見覚えのあるような、やせた人が立っていた。一瞬焦点の合わないような気がして目を細めると、その人は袖を振ってみせた。

「先生!」

よくよく見るとその人こそは目的の水鏡先生であった。少しやせて老け込んでしまったようだから、ぱっとわからなかったのだろう。徐庶は駆け寄ってひざをついた。

「ご無沙汰をしました。よかった。まだここに住んでいて。危ないことはなかったですか」

「はは。よいよい、大事ないです。それは私のほうが旅立って活躍しているあなたたちに言うことですね。息災ですか?」

水鏡先生はからからと笑った。

「ええと、はい。俺も、孔明も元気にしています。すみませんでした、先生が大変なときに俺も孔明もここを離れて……」

「私が大変だったわけではありません。荊州の政争も、私たちには関わろうとするのでなければ関わりないことですからね。ねえ士元」

水鏡先生が声をかけたので徐庶も黙っていた龐統を振り返った。目が合うと一瞬間があって、龐統は軽いため息をついた。

「士元? どうしたんだ。体調が悪いのか?」

「いや。先生は元気なもんだと思って、ふいと疲れたような気がしただけさ。やっぱりあっしら書生がもっとしっかりしないことには、先生を楽隠居させてはやれないのかねえ……」

「士元ほどしっかりした人にそんな心配をさせるとは。皆よし、です。もう私が教えられることなどありませんよ。それより二人が私に教えてください」

水鏡先生は変えて二人を家に案内した。すみかを変えたのです、と言われて連れられてきた家は小さいが小ぎれいで、少し高い丘の上にあった。近くの家々や川、通ってきた平原が見下ろせる場所もあった。天気がいいので、劉備や諸葛亮のいる城砦の影も見えてきそうだった。

家に着くとちょうど昼時だったので、徐庶はかまどを借りて食事を用意した。ほかの書生たちはいないようだった。天気が良いので出かけているのだろう。それにしてもこんな小さな家に住み替えたということは、やはり荊州を支配する劉家の政争でこのあたりも混乱し、水鏡先生は私塾をほとんどたたんでしまったのだろうとわかった。

マスの干物を見て水鏡先生は手を叩き、口癖のよし、よし、を言って喜んだ。私塾の書生をしていたころから、たまに魚を釣ってはよいものを先生の食事にと出していた。道々に摘んできた野草と米と干物とで粥を炊く。先日諸葛亮に食べさせたものとほぼ似たような料理である。徐庶は、手に入る食材をやりくりして生かした料理に仕立て、栄養に偏りのないようにする感覚には異様に優れていたが、味に変化をつけるという発想はなかった。季節で変わる食材に合わせて、すると数日同じようなものを食べ続けることにもなり、あまり気にしていなかった。

しかし最近は諸葛亮に食べさせていることもあって、もしかしてこれは飽きるのではないか、ということを気にするようになった。そういえば、母は貧しい中でも調理に毎日工夫をして、同じ豆でも別の熱の加え方をしたり、米も煮たり蒸したりしてくれていた。

徐庶にはそういう繊細な機微はいまいちわからなかったが、とりあえず、うち捨てられた畑から摘んであった青ねぎを輪切りに刻み、鍋の上に散らしてみた。するとさわやかな香りが湯気にのって立ち、食欲をかきたてられた。

食卓に鍋と器を運ぶ。徐庶はまず水鏡先生に山盛りに盛ろうとしたが、遮られた。

「元直、私は少しでよいです」

「え? ……ねぎはお嫌いでしたか……?」

「いいえ。ねぎと魚がいい香りで、それだけで満足ですよ。最近は小食なのです。足るを知る、というのはよいですね」

「……いま話してたのさ。先生はもうたくさん食べる人じゃなくなったんだと。あっしも食べ物の好みが変わってきたし若くないのかねえ」

「士元はすぐ年寄りぶるんですから」

徐庶はなにやらせつなくなった。水鏡先生はなんでもおいしそうによく食べる人で、徐庶は智を磨くためにも食べた方がいいのだなと思ったものだった。事実、食べねば頭は働かないし、諸葛亮もそう言う。人は老いると五臓六腑のはたらきが弱くなり、たくさんの食べ物をたくさんの力に変えるのが難しくなる。私塾をたたんで急に老け込んでしまった先生は、おそらくもう書生たちに分け与える熱量が不要になったのだろう。

仙人は霞を吸い少しの桃でも食べていればそれでいいのだという。徐庶は年をとることは若い英才たちに加速度をつけて置いていかれることだと思っていた。もしかしたら老いることとは機能の低下や何かの期限へ差し迫っていくことではなく、仙境に近付くことなのかもしれないと、今の水鏡先生のにこにこした様子を見ていると思った。おいしい、おいしい、とにこにこと匙を上げ下ろししながらも、水鏡先生の椀の中身はあまり減らなかった。

 

「さあ、よい天気です。まだ時間があるのならば、釣りにでも出かけませんか」

そう言って、水鏡先生はほとんど食べていないとも思われない軽やかさで釣り道具を出し、はずむように丘を下っていった。

諸葛亮と民の生活の安定に尽くしていてますます実感した、荊州は田畑を作る場所に困らぬ土地だ。なぜなら長江が横切り、たくさんの水が流れているから。この近くにも大きな支流である漢水が流れている。少し川から高さのある釣り場があり、ちょうど周の太公望姜子牙が龍を釣り上げた――仕えるべき太公に軍師になることを乞われた釣り場のようだ、と書生たちはよくそこで釣りをしたものだった。乱世に頭角を現そうとする若者たちにとって、それは縁起の良い連想であった。

三人して並んで釣り糸を垂らし、のんびりと景色を眺めた。川に削られた土は白っぽく、その上の樹木は濃く、水はみどり。対岸にたまに鹿のような姿が見える。

「元直はしばらく曹公のもとにいたそうですね。どんな方でしたか?」

魚を待ちながら水鏡先生はそう聞いてきたが、徐庶は躊躇した。水鏡先生も才能ある子弟を教える大人物として、荊州を支配していた劉一族や曹操にも士官の誘いを受けていたが、すべて断っていた。

「ええと……先生は、曹操殿のことはお嫌いじゃ」

「あんまり好きではありません。ですが、いまだから本当のことを言うのですが、私はあんまりマスが好きではなかったのです。元直がはじめて私にくれた干物がおいしかったので好物になったのですよ」

「えっ?」

「いろんな見方や色付けは大事ということです。それで思いがけず食べやすくなる料理もあるでしょう」

「はは。それを言ったらあっしだって、元直がいなかったら諸葛亮がもっと嫌いだったかもねえ」

さりげなくすごいことを言って龐統は笑った。徐庶にはまったくそんなつもりはないが、ろ過装置のように思われているのだろうか。いろいろな粒の大きさで漉して泥水を飲めるようにするように、猥雑にごちゃごちゃしているからそんなふうなはたらきもするのだろうか。喜んでいいことなのだろうか?

「……曹操殿のもとには、先生もご存知と思いますが、荀氏の荀彧殿、荀攸殿がいます。それにどういうわけなのか曹操殿の家は武門の夏侯氏から養子をとったので、信頼できる股肱の武将の粒がそろっています。
それだけでなく、荀彧殿は同じく潁川の名士出身の郭嘉殿や、さまざまな傑物をどこからともなく登用してきますし、敵やならずもののような者からも、これはという才を見出せばためらわず用います。
曹操殿自身も多才で代わる人のいない覇王ですが、決して完璧な君主ではありません。だけど……」

徐庶はそこからどう言ったらいいものか悩んだ。曹操には、士官を断る者たちが言うように、さまざまな問題もある。軽率だし、けちだし、自分の設定した目的達成しか見ていないようなときもよくある。しかし、それでうまくいっている。

それを余人は生まれながらに持っていた地運に恵まれたからなのだと思っているが、仕えてみて、曹操は特に強運なのではないのだとわかった。子供が転んで泣いて立ち上がるように、曹操はしょっちゅう失敗をする。それでも強大なのは。

「だけど、曹操殿のそばには、いつも……たくさんの星が輝いています。それも、同じ星が常にあるのではなくて。
皆が自分の夢、自分の無二の力、自分がそこで果たせる役割を知っていました。曹操殿がどういう王かというよりは、曹操殿の手元にはひとかどの何者かである、小さな王たちがぎっしりと詰まっている、ような感じです。その王たちが、曹操殿が好きなように転んでも曹操殿という大きな旗が進んでいくよう、おのずから均衡をとっている。俺がいるところではありませんでした……」

言い終わり、一拍置いて徐庶はあわてて弁解した。

「あ、ええと、劉備殿が曹操殿たちより与しやすいとか、そういうことを言いたいわけでは……」

「そう言ってることには一応気付いたんだね」

「よしよし、大丈夫です。元直の言いたいことはなんとなくわかりましたよ」

話している間に龐統に一匹大きめのますが釣れていた。水鏡先生は諸葛亮と同じく、徐庶が細部にとらわれて見失う書物や話の大意を理解するが、要するにと説明することなく辛抱強く待ってくれる。そこは諸葛亮と違った。

「俺は、……俺は、何者かに……、劉備殿を照らす星のひとつに、なれるでしょうか……。なりたいと、思うのです。こんな非才の身ですが」

「なれるでしょう、元直がそう選んだならば」

「今まで何者かになろうとして、なれたことはありません。曹操殿のもとにはあんなに自分だけの役割を持っている人がいる。それも、迷うことなく、です。俺は……
俺は、何物にもなれないという、そういう天命の者なのではと、たまに思うのです」

龐統はまたはじまったよ、とつぶやく。水鏡先生はしかと聞いたぞという返事にも、よし、と言う。そしてしばらく考えて、あぐらの足を組み替えた。

「元直は、今日の粥の上に載せたような、香味のものは好きですか? ねぎ、生姜、柑橘の皮だとか、ごまだとか……」

「え? ……ごま……は、たぶん好きです。携帯にいいですし、小さいのに滋養があります」

「そうですね。薬にもなる。今言ったものはどれも、それを主にした料理にはなりませんね。でも、どうでしょう? 香りがよかったり、さまざまに変化をつけられることは、元直の干物で私がマスを好きになったようなことを招くのでは。いくらマスがすばらしい魚でも元直がいなければ私は……」

「大げさなこと言うよ。マスを食べなくたって鯉だってフナだっているんだがね」

「魚を食べて精がつけばなんでもいいというものではないでしょう、士元。曹操殿の臣は天下の河を泳ぐ魚を集めるがごとし。曹操殿が完璧な君主でないのであれば、いえ、誰であろうとも、すべての魚をそのままで食す可(べ)からず。適宜それに合う香味を添える者あってでしょう」

徐庶は粥からたちのぼったねぎの香りや、ごまの香に目を細める諸葛亮を思い出した。水鏡先生が言いたいことはわかっていた。魚、大人物である何者かになる必要はない。薫る香味となれればよい。普段ならば矜持を傷つけられるような話だった、添え物の身分で満足せよなどと。だが、仕方なく添え物に甘んじるしかないというのではなく、そこにも何かあるべき意味があるのかもしれないと、今は思える気がした。

考え込んでいる徐庶に水鏡先生はまたよし、と言った。

「何者でもなくてよいではありませんか。乱世は河のようなもの。いや天下はみな河で、ただ荒れて流れ速くさまざまなものが破壊されるのを、人が好まぬというだけです。
ここは中流でたくさんの支流がある。ここが荒れていても私たちには大河の流れはわかりませんね。もっと言うと田畑だけを見ている人には、水が氾濫しようが涸れようが何が起こっているのかまるでわからず、小さな水門を開閉することしかできないかも」

「そう思います」

徐庶はすぐさま答えた。世のことが何もわからず、目の前が狭く暗いという言い知れぬ恐怖と怒りこそは、徐庶を学問へ駆り立てたものだった。

「学ぶことをやめた人間はそうなります。俺もそうでした」

「それもよし」

自罰を濃くにじませたかたくなな声に、水鏡先生はおおらかにいつもの返事をし、龐統は笠をかぶった首を振った。

「元直は自分を毛嫌いしすぎさ。周りが見てられないね」

徐庶はすまなさと、意固地な気持ちに黙った。自分のこういう、変則的な反抗期の子供から抜け出せていないようなところを人に見られると扱いづらく思われるだろうことはわかっていた。どうすればいいっていうんだ、と逆に怒って、しかしそれは理不尽なので表に出さない鬱屈もあった。

「よいよい、無理に変わろうとしてもかなわないのです。それでよし。それより今の元直の考えることを聞きたいですね」

「……俺の考えですか?」

「そう。長江を知らず田畑を嘆く多くの人々について」

過去の自分を自分の手で救ってみせろ、という意味の課題だった。

徐庶はそういう状況に弱い。傲慢で至らなかった自分に似たものに、どうしていいかわからない。自分と同じだと思うと、不快さえ感じる。しかし実際問題「長江を知らぬ人々」を救うことは、劉備と諸葛亮と自分が望んでいることでもある。そう思って、徐庶は頭にあった言葉を口にした。

「……俺は、上流、だと思います」

「上流」

水鏡先生はよしとも言わずただにこにことくり返した。

「曹操殿のもとで、実際に漢の国のしくみを知りました。けれど、それでも、見えない……という思いがしたのです。なんというか、おおもとの……ええと……。
見えないから……、もっと上の場所から見たいと思いました。それを俺はひとかどの地位につくことなのかと考えてもいました。でもそういうことではなく」

地位をいらないと言っている自分に徐庶は少なからず驚いた。人に勝る力を手に入れて、何かを為したい、誰かを守ってやりたいという不安な欲望によって徐庶は躓いてきた。それでも容易に捨てられる迷いではなかった。

ただ恥じて、悟られぬよう黙っていた。地位の話をすることすら過敏にはばかっていた。それは怯懦な自尊心だった。

「そうして劉備殿のことを思い出していました。あの人は、上流に近いような気がします。赤壁の戦に参陣したのは劉備殿に会えると思ってかもしれない」

「まったく、それであっしはひやひやしたよ。会いたいんだったらそう正直に言うもんだ」

「あ、その……、あのときは……」

赤壁の戦では曹操の船団に連環の策をしかけに来た龐統に危ない思いをさせた。すまなそうにしている徐庶に龐統はふうと短い息をついた。

「そこを謝るんじゃないよ。ひょこひょこ知った顔が出てきたと思ったら、自分の持ち場の要のとこだけ見極めてひっそり輪を外してこっちをちらっと見て、なんの鬼か妖怪かと思ったね。何がしたいんだかはかりかねたって意味だよ」

「元直は、曹操殿と劉備殿を、試したかったのですね?」

水鏡先生の口から聞いて徐庶はその言葉にくらくらした。また、どうしようもない高慢だ。

「そう、……そうだったのだと、今はわかります」

「それでよし」

「いいのですか?」

「よかないよ」

「私が言うのは、元直が人を試していたことを知ったことです。本当は試される必要などない、すべてよしなのです。試す側にこそ問題があるのだと知ったでしょう。
試すことなどない。人を思い見込むこととは育むことで、傷つけてふるいにかけることではないでしょう。宋人に其の苗の長ぜざるを閔へてこれを堰く者有り……」

『孟子』の故事の一文だった。ある農夫が、育てる作物の苗がなかなか伸びないので、引っ張って伸ばそうとする。当然か細い苗は抜けてしまい、しかし農夫は「苗を伸ばしてきたぞ」と一仕事終えたようにしている。その子供が畑の様子を見に行ってみると、苗はみな枯れていた、という教訓譚だ。なんと愚かな、笑い話かと昔は思ったものだったが、やっと意味を教えられたように感じて徐庶は恥じ入った。

水鏡先生は安心させるように首を傾げて目線を下げた。

「元直だけの話ではありません。天下の苗を助けて長ぜしめざる者寡(すく)なし。孔明も劉備殿が訪れると知って試したそうですね。あの子もそういうところがあるでしょう。周りの苗を枯らしてまた一人にならないといいのですが。皆、できるならば、あの子を助けてやってください」

あの子、と心配そうに水鏡先生は言った。

水鏡先生のもとに諸葛亮が預けられてきたとき、彼はまだ愛らしく幼さを残していて、同じく入門してきたばかりのたくましい徐庶のたたずまいと並べたら大人と子供のようだった。年少でも際立って賢く、人の話をまともに聞いていないような諸葛亮を水鏡先生はわが子のように案じていた。

そうだ、初めて出会ってその夜空のような目にとらえられたとき、ぴんとこの人を守らねばと思った。今も、思っているはずだ。思っている。きっと今こそ、今からでなければ、いつやるのだ。

やがて徐庶の竿が引いた。

「元直、まず立ちなよ。いくらおまえさんが力があるからって、大物がかかるとは思ってないのかい?」

「思っ……てる、さ!」

立ち上がって応戦すると、本当に大物の気配だった。徐庶は無心に踏ん張り釣り糸を上げた。大きな鯉型の魚、青魚(チンユイ)だった。青みがかり、長いすがたで、うろこの網目が照りかがやいている。それが一瞬中空を舞った。

「よし。龍を釣りましたね、元直。さあて、私も」

水鏡先生は引いてもないのにぴょいと釣り竿を上げるまねをした。するとなぜか大きな水音が、流れる川幅のすべてが跳ねたのではないかと思うような滝のような水音がした。しぶきが上がったように霞み、濡れないように顔をかばった腕をどけると、水鏡先生の前には本物の龍の角とたてがみ、その下の銀の蛇身があった。唖然として見ていると、水鏡先生はよいしょと龍の後ろ頭に乗り、川の水平線を指さした。

「上流へ」

「先生!」

まるで馬車の送迎でも頼むような水鏡先生の背に徐庶は叫んだ。水鏡先生は見返り、よし、とうなずいた。

「先に行っていますよ。士元、元直」

そう言って本当に水鏡先生をのせた龍は上流のほうに頭を向け、みるまにその空との境に点のように消えた。龍と見えたものはそのまま寝そべるように、そのあとには川の水だけが残された。

 

→次ページへ続く

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