徐仙菜譜~元直さんちのおうちごはん~漢水の鯉の洗い - 4/4

その夜半、戻ってきた徐庶は一人で執務を続けている諸葛亮の仕事部屋を訪ねた。夜食はどうかな、魚があるんだけど、と、料理の前に聞きに来たようだった。

「料理するのを、見てもかまいませんか?」

「……もちろん。そんなにおもしろいものじゃないけれど」

申し出に徐庶はうなずいた。

涼しい夜だった。徐庶はまずよく冷えた井戸水を汲んだ。それから厨房へ行って、既に俎上で動かなくなっている魚に刃を入れる。あらかじめ気絶させて、鱗をそぐまではやってあったようだ。

「小さい方はマス。士元からのおすそわけだ。こっちは青魚」

マスを手早くさばいて薄く切って皿に盛り、大きな鯉とも戸惑わず相対する徐庶の背に、諸葛亮は軽く触れる程度に頭を預けた。

徐庶は気付いたが、大きく反応することなく、魚の身をそぎ切りにし、冷水に入れていった。

「水鏡先生が、亡くなっていた」

水鏡先生の墓は小高い丘の上にあった。

荊州の野がよく見渡せた。野の花や酒器などが、そなえられていた。龐統と徐庶は釣り竿をそこに返して、桶だけはそのまま借りてきた。墓は、新しかった。

「知っています。龐統が、伝えてくれました」

「やっぱりか。俺は仲間はずれかな」

「違います。てっきり……」

「悪い。いいんだ……」

徐庶は少し諸葛亮の方に体重を預けてみた。かわされることはなかったし、肌を合わせるときにいつも見せるわずかに引くようなこわばりもなかった。

「……先生は、私にそれでよいと言ってくださいました……」

泣いてはいないが、諸葛亮が先生を悼んでいるのがわかった。このように感情とわかる感情を見せる彼は本当に珍しいことだった。この人も「心細い」などと感じるのだなと、徐庶は知った。当たり前のことを。

「ええと、孔明、」

さくどりした魚を切り終えて包丁を置くと徐庶は諸葛亮と正対した。見上げる諸葛亮はいつもの澄んだ鏡の目に戻っているようにも見える。徐庶も、いつも通りそれに勝手に気圧されて委縮する。けれども風に耐えるように、徐庶は視線をそらさず見つめた。

「孔明、俺は、……俺は、君の……」

ふさわしい言葉を、徐庶の世界にいまだない言葉を探す要領を得ない徐庶の発声を見守って、諸葛亮は少し目を細めた。安らいだような仕草に見えた。それを、きつく抱きしめた。年上ぶって何かしてやりたいと思うことに躍起になっていたが、本当は年下だが人ではないかのように格上の相手だと思っている方が強かった。格上の相手を、格上だと思ったままで、憧れや妬みでなく愛おしいと感じたのは初めてだった。

孤独なのだ。北辰の星のように凄絶に輝いても、天の河にきらめく魚たちを一人で見つめて、一人で采配している、この人は。どうしてそれを今まで知らないでいられたのだろう。どうして、自分が大した星ではないかもしれないなどとばかり考えていたのだろう。

「俺は、君を守る」

徐庶は自らの天の中心に輝く星にくちづけをした。

唇を離して、睦み合いの空気がふたつの胸と胸の間にこごっていた。無言でなだれ込まないよう徐庶は言葉をはたらかせた。

「あの、抱いてくれるかい」

「……いいのですか。そんな啖呵を切っておいて。私は別にどちらでも」

「いい。君に負担をかけられない。君のかわりはいないし、君に何かあっても俺はまだそれを補えない」

諸葛亮はわずかに表情を動かし、それが悲しげな色であるように徐庶は読んだ。あわててたたみかけた。

「いつか君を安心させて眠らせてあげられるような、そういう俺になる」

しどろもどろにも言い切った、徐庶の言葉を聞いて、少しおいてから諸葛亮はふふと笑った。光が飛ぶような、美しい笑顔だったので、徐庶は笑われても慌てなかった。

「ええと、変、かな……」

「いいえ。誠実です」

微笑みが慕わしく徐庶は甘く腕を伸ばした。しかし諸葛亮はするりと逃げ去り、徐庶の後ろにまわってしまった。

「孔明……?」

「うん、……美味ですね。生臭いものは喉を通らないかと思いましたが……」

追って振り向くと友はもぐもぐと鯉の鱠(なます)をつまんでいた。なんでもないように言っているが、もしや訃報を受けて食事をとれていなかったのではないか、とも思われた。

「生姜が、よいですね。鯉の身はこんなにおいしいものでしたか」

諸葛亮は静かに感想を述べた。鯉の白い身に、添えた生姜を少し載せて、まず食べましょう、と箸で徐庶の口元に差し出した。徐庶はどきどきとしながら口を開けて受け、その香味を噛みしめる。

さわやかな刺激。粘膜から温まっていくような薬味。まだそれを不可欠なものだと感じるには、徐庶の味覚は貧しかった。けれどいつか、友が憂えて食を細らせるとき、折り合えぬ味と出会うとき、病い弱るときに育み守る力になりたいとと思った。

寄り添って急ぐように食べながら、今度釣りに行こう、と徐庶は誘った。仕事を手伝うのならと諸葛亮は答えた。肌を重ねる忘我の中、西を、上流をどこまでも求めに、ふたりで、皆で劉備を連れていく眩しい夢想が浮かんでは過ぎていった。

 

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