【R-18】羊の領分 - 6/6

「……ジョーカー。
ジョーカー、大丈夫? 嫌だったのか? 何が怖いの? 殺してなんて、言わないで……」

ジョーカーは主の声にはたと目を見開いて口を離した。

いつもは主の前では苦しげなほどまばゆく細められている目が、眉を下げて、未知のものを見る無防備な子供のように光をいっぱいに入れてカムイを見た。呆然とした瞳は潤んでいて、人の姿に戻ったカムイは寝台に膝を踏み出して至近距離に覆い被さりそれを見つめた。

ぼうとしたまま、腕と脚を静かに絡め、自分より小柄な主の体を全身で引き寄せて抱きしめる。落ち着いて慈しみにあふれた体温にカムイは安堵した。

背を支えて抱き起こすカムイの腕にジョーカーはおとなしく従った。

脚を互い違いに跨ぎ合い、対面して抱かれるような近さで肌を触れ合わされる。そしてうつむいた顔を覗き込まれ髪を撫でられた。

どうしてこんなに、愛してもらえるのだろう。ジョーカーはまた苦しくなった。

「……ごめんなさい、カムイ様……」

「どうしたの? つらいの? ジョーカー」

「私、は、自分の心が怖くて。……偽っていました。
あなたを裏切っていました。そんなにお優しくしていただく資格……、私にはないのです」

ゆるく背を撫でても、体は石膏のように動かずにいた。ただ呼吸のたび胸郭が震えていた。

カムイは口を閉じて、顔を歪めるジョーカーを見つめた。

「カムイ様は私の望みを言えとおっしゃいました。考えても、わかりませんでした。私の誇りも望みもあなたの執事であることだけ……。それが、それしか持っていないことが私には、自慢でした。変わらない忠誠を。あなたご自身にもこの領分を侵させることはないのだと」

カムイはジョーカーの光だった。

光とは、憧れの美なるものでありながら、健やかに生きていくのに絶対に必要なものだった。常夜の、誰もが恵みを奪い合う荒んだ国で、仰ぐことを許された太陽を持っている自分は、他の何を持たなくても誰より幸せだと、身を捧げる神をもたぬ他人を憐れみさえした。

『完璧な執事』。誇りで幸せで、強く、迷い苦しみのない職分。この唯一無二の主のよき持ち物であるためそうなる必要があるのなら、それ以外の自分など何もいらない。興味がない。

 

そう思っていた。

かつて……。

 

うつむいた目からぽとりと涙が落ちた。

 

「そう思っていた、私の頭は嘘つきです。何より大切なあなたに嘘を」

涙を落とすジョーカーを、カムイはぴたりと体をつけて抱き寄せた。背の肌にいまだ鋭い爪の感触が触れた。もっと爪痕を賜りたいと狂おしく思った。

「カムイ様、きつく抱いてください」

ジョーカーは泣き声をあげるように言って、自分から絡めた腕と指をカムイの背中に強く押しつけた。指先で、肌がひきつれるほどに。ためらいながらカムイも同じようにしてくれた。爪が食い込み、あるいは掻き傷を作っていく。

嗚咽と痛みと嬉しさに、息が乱れる。

涙にはりつく銀髪ごしに首元に頬ずりをした。

「私をめちゃくちゃにしてください。死ぬほどあなたを受け止めさせてください」

「うん」

「私は、前の満月のときの私は……、カムイ様が私を気遣って外に出してくださって、それが残念で……。体が壊れても全部中に出していただきたかったのですと、思うのが嫌で、恥ずかしくて、どうにも自分の心が自由にならなくて……。
こんな、ことは、まだあなたにお仕えすることがなにもわかっていなかった子供のころのようで。初めてで、こんな……。私は、あなたをお守りして導くものなのに」

「うん……」

ジョーカーは少し呼吸を落ち着けて、時折噛み合っては離れるふたつの鼓動を聴いた。

「ずっと……、きっといつも、そう、言いたいのです。そんなことを望んでいるのです。でもそんなことはいけません。私はあなたの使用人で、これからもそうでありたいからです」

「これからのことなんて、いくらでも変わる」

相槌を打っていたカムイはそこで口を開いた。

ジョーカーは主の言葉に同意せず、すがる腕をからめ直して子供のように首を横に振った。

「いやです。ずっとカムイ様の、持ち物です、俺は……」

 

震える『持ち物』を抱いて、カムイは部屋にさす月の光を見た。

人は愛によってしか支配されないと、あの北の城塞で、おとぎ話の本に読んだことがあった。愛で、呪いは解けるものだ。

では呪いこそが愛だったならば?

茨の囲みこそが、強い愛を編んだものだったならば?

カムイはただ傷だらけの背を抱いた。

 

「ジョーカーは、ずっと僕といてくれるの?」

「お許しいただける限りはずっと」

「いつ、もっとひどいめにあわせるか知れないよ」

「お望みならなんだってします。何も惜しくはありません。私の心臓はカムイ様のものなのですから」

「僕が今より心も体も獣に近くなって、どこか遠くに行くと言っても?」

「地獄までも」

抱き合ったままカムイは静かに聞いた。

そして、ゆっくりと腕をほどくと、優しくなだめるように顔を覗き込んだ。

「なら、そう思っててもいい。
持ち物が主を求めてどうして悪いの、ジョーカー」

ジョーカーは眉を下げて主を見つめた。囲いの中に閉じ込められて、世俗の汚濁からは自由なのに、なぜか何もかも承知のようなほの暗く哀しいあたたかさをたたえた、ジョーカーの大好きな表情だった。

カムイは銀鱗の光る手を差し出した。

「僕の大事なジョーカー。おまえは僕のものだよ。
手をかして」

ジョーカーが言われた通りに利き手をさし上げると、カムイは手のひらを上に向けさせ、まだ残っている竜の爪の鋭い先で親指の腹に傷をつけた。そのまま自分の手の親指も傷つけ、手のひらを開いて、ぴたりと合わせた。

「あ……」

にじみ出てくる血が二本の親指の指紋を細かな水路にして広がる。傷の開口部から圧し合わされたそれはどちらの血ともなく、最初から区別なく混じり合っていた。甘く四指が折られ、指の股をきつく組み合わせて握りこまれる。人差し指が親指を固定し、くじるように小さな傷口どうしを血で擦り合わせているのは、めまいがするような情景だった。はしたなく息が上がり目をそらしそうになると、指をうごめかせながらカムイはぐいと近付いてきた。

「ん、んぁ……、カムイ様っ……、はぁっ……は……」

「僕のジョーカー。僕を見て。僕に何も隠さないで。ずっと僕のものだと言って」

求めていると自分では知らなかった鮮烈な言葉を、たて続けにいくつも言われてジョーカーは蕩けた。絡めている指に力が入らず、必死に握り返し、言われたことを繰り返した。

「はっ、はい……! ジョーカーはカムイ様に何も隠しません……、ずっとずっと、私のすべて、生涯あなたのものです……」

「ジョーカーが僕といるのは執事だからじゃないよ。僕のものだから僕といる。いいね?」

「はいっ……、ああっ……、ありがとう、ございますっ……」

涙の膜と血に濡れた指のむこうでカムイは微笑んだ。

混じった血が乾きはじめる前に組み合わさった手は離され、合わさっていたカムイの親指がジョーカーの口元に寄せられる。しびれるように甘い鉄のにおいがした。戸惑ったのは一瞬で、すぐに口に含んで舐める。

「ん……、んっ、は、……ム、イ、様。あ……」

奴隷の歯を品定めするように口内に指を割り入られ、舌で懸命に愛撫しているのに、広がる血の味と指の舌ざわりに逆に愛撫されているような気分になる。手をとられたかと思うとカムイもジョーカーの親指の傷に同じ愛撫をした。自分の指や血が主の口に入る不敬と、入り組んだ快感にジョーカーは慌てた。

「あ、だめっ、らめれす、……ン、んんぅ……」

「ん……、僕も……おまえの……。
ジョーカー、僕たちは……同じだよ……」

夢で繰り返し思い出すのと同じ響きに目をみはった。

傷の開口部をきつく吸われる。血と、痛みとを与えられる。そして同じものを捧げさせてもらえる宗教的な悦びに抵抗が失せる。恍惚にひらく唇を指の根元がふにふにといたずらに弄った。

ためらいながら同じように傷を吸う、必死な顔を食い入るように見つめるカムイの瞳が紅く紅く光りはじめる。ジョーカーは主の中に高まる衝動を悟り、それが自分との間に結ばれた契りによって高められていることも、悟った。

 

ジョーカーはついに我を忘れて指でなく唇に熱くかぶりついた。

「カムイ様、どうか、どうか、お好きに」

言葉は先程と同じそれしか知らなかった。伝えきれずにもどかしくて、薄い血の味の激しい口づけを離しては絡める、カムイは組み敷くというよりぴったりと押しつぶした体を擦るようにのびあがって吠えた。ふたたび銀色の竜の姿になった主に、ジョーカーは今度は欲望と喜悦を隠さずに腕を絡めた。

「カムイ様のおつらいところ、苦しいところ、全部ください。あなただけの……」

左肩の傷跡に剣のような竜の牙が触れた。心臓の上に軽く立てられる刃の光。

ください、ともう一度言うとカムイは丸めた体を前へ進め、胸のかわりに血を流す傷をもう一度貫いた。ジョーカーは自分を覆う、カムイが張った大きな腕を横目に見て、柵のようだ、と思った。囲まれて、愚かな自分も愛しく思える気がした。愛しい主のもの。

「おれの、カムイ様」

銀色の柵にくちづけるとカムイはひときわ甘い声で鳴いた。

 

銀とほの赤い白の囲いどうしは絡み合って、どちらともが守られている歓喜に泣いた。

経糸緯糸を織るようにそれは長久に、強く固く結びあわされていった。

 

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