「タクミ様。参上しました」
「サイゾウ。ちょっとおまえに頼みたいんだが」
王族らしく慣れたもので、タクミは忽然と後ろに跪いてきた忍の声に腕を組み背を向けたまま答えた。サイゾウは白夜王国に仕える忍の一族の当代の長である。同じ軍にある白夜王族として彼を当面指揮すべき責任から、少しでも自分を大きく見せようと言う意図もあったが、どんな顔をしていいかわからなかったからでもあった。
「は。……あの不審な男のことでしたら、カムイ……王子の監視とともに行っております」
「さすがだな」
タクミはまさにそれをサイゾウに頼もうと思っていた。自分がいくら警戒していたところで、カムイとジョーカーは個人的な領域まで密に近くにいる。
「よいご判断です。失礼ながらカムイ王子そのものが何を考えているかよくわかりませんが、あの男はもう、暗夜の命で間諜に来ていると疑うのが自然でしょう。
……へたをすると、カムイ王子が悪しきものでなくとも、取り込まれるおそれも」
「……僕は兄を信用している。ただあの人は何か抜けているというか、……少しおかしいから。それにあの、ジョーカーも、たまに……何と言ったらいいのかわからないが……。おまえの危惧はもっともでありがたいと思う。頼りにしているよ」
「はっ」
サイゾウは、いずれこの仮の連合軍を抜け白夜に戻るつもりではあるが、リョウマの安否を確かめられぬ中、タクミが冷静であるのは助かる、と思っていた。もしこの戦乱の中リョウマの身に何かあったならば自分は白夜の忍を率いてタクミを立てねばならない。考えたくない事態ではあったが、もしものもしもを考えるのが忍の仕事であった。
***
ジョーカーは暗い道を駆けていた。闇に潜む小さな獣の足音に気を巡らせながら、時折人間の気配がないか後ろを振り返って。
暗夜王侯の城には地下水路を使った抜け道がめぐらされている。ジョーカーの生家にもそれはあったから、通常の使用人が知るもの以上に出入り口はわかっていた。いつか使うと思い、暇をみつけて調べてもあった。もっとも、想像していた場面は、今のようなものではなかったけれども。
ふと横の壁からわずかな風が吹き込む動きを感じてジョーカーは手にしていた暗器をその隙間に突き出した。ねずみが驚いて小さな抜け穴の奥に逃れていく声がした。ぎぃん、と石壁が鉄をはじき返す震動が、地下のよどんだ空気と手のひらを震わせる。
「く……そ」
壁をじっとりと見たが、小さく空気と水を漏らしている壁のほころびは天然のもので、罠や出入り口が隠されているのではなかった。ジョーカーはゆっくりと壁にもたれた。壁を攻撃するのは得策ではなかった。音はもしかすると城塞まで響いてしまうかもしれない。
疲れでもたれた壁はかび臭く冷たく、体温を奪った。壁を刺した暗器を持っている手も冷えて感覚が薄い。眠気さえあった。しかし休んでいることはできない。水路はいつ増水するか知れず、今の足場の高さまで水が来てしまえば、それだけで生死に関わるほど体を冷やすだろう。
震える手でジョーカーは懐を探り畳まれたハンカチーフを取り出した。それはしかし畳まれているというよりはぺっとりと硬いような少し古い布で、そのはず、大きな血の染みが固まっていた。とうの昔に乾いて、ぽろぽろと黒い粉が落ちるような。
「……カムイ様」
汚れたハンカチーフに口元を寄せた。気分を落ち着かせる芳香はおろか、血の匂いさえせぬ塊に。
「カムイ様、……カムイ様、カムイ様……」
目を閉じ繰り返す呪文のごと、乱れていた呼吸は深く、刻まれた眉間のしわは和らいでいった。寒々しいかびの臭いが頭を痛くする中に、甘いような鮮血を嗅いだ気がしていた。
***
少年は逃げていた。痛みから。みじめさから。
その日の夜も言いつけられた仕事がまるでこなせず、折檻をしてくる相部屋の厨房係に見つからないよう隠れていた。主人の生活の場と階下の間には、地下に続く隠し通路の入り口が多い。それがだいたいどのようなところにあるかを、少年は自分の家の教育係に教わったので知っていた。恐ろしい地下には降りたことはないけれど。
厨房の後片付けの者たちの就寝時間の鐘が鳴るのが聞こえる。これからしばらくして皆が寝静まってから、そろそろと部屋に戻るのだ。本当は、使用人部屋で寝てしまえばまたすぐ朝が来て叩き起こされるだけなのだから、帰りたくはなかったが、そうしなければ地べたで眠ってしまうことになる。それは耐えがたいことだった。
どちらからか足音が響いてきた。――上だ。少年は息を殺した。上級使用人やこの城をまかされている「ギュンター様」の見回りかもしれない。しかし、この片隅の暗い穴に隠れて息を殺しているところを見つかったことはない。明るい上階にいる人間が、こんなねずみのような自分に気付くことはないだろう。父母が言い争いに気を取られて、すぐ横のカーテンの影で震えている息子に気付かなかったように。
足音は近付いてきた。少年はただ、石のように息を浅く小さく、静かに目を閉じていた。その足音が速く軽く、何かおかしな様子なのにも、何も感じることなくただ無感情に息をしていた。どうせ、見つかったら見つかったで、引き出されて殴られるだけだ。だからランプの灯りがまぶたの裏に映ったときも、ああもうこの隠れ場所は使えないか、と思ったぐらいだった。
「……だれ?」
子供の声がしてやっと少年は目を開けた。さし入れられたランプの光が眩しすぎてもう一度目を閉じて暗い方を向いた。なんだ、子供か。自分より小さい子供など久し振りだったが、ともかく子供なら自分を使用人部屋まで引っ立てていくことはないだろう。少年は子供の声を無視した。
「…………」
「なにしてるの?」
「…………」
「……あっ」
子供は何を思ったか声を小さくしてまた話しかけてきた。
「おまえは、一人なの? かくれてるの? みつかったらいけない?」
急に深刻そうになったささやき声の調子に少年は笑ってしまった。笑うのも久しぶりだったのでばかにしたような笑いしかできなかった。ついでなので声に出して自分を笑ってしまうことにした。
「おれはどこでもじゃまにされてるんだよ」
「かくれてる? そこ、なに?」
「かくれてない。これはもしものときににげる抜け道だ。おれはにげようとしてるんじゃないけどな。こんなもの使うのはみじめなことだ。べつに見つかったって、こわくなんかない」
「そんなのがあるの。すごいね。見たい! かくれてないで出てきて」
「だからかくれてないって……」
「ぼくの話しあいてになってよ」
小さな手が一生懸命のばされてぺたぺたと触ってくるので、なんだか情がわいてきて、少年はくぼみから出てやることにした。いつの間にかランプも除けてくれたようで、灯りは目が痛いほどではなくなっていた。なぜそんなものがこんなところにいるのかはわからないが、優しい子供のようだった。
少年は子供の案外としっかりした手をとって外へ出た。後ろにのけてくれたランプの光も明るくあたたかで、子供の背中から、長い影を作っていた。それがなぜだか眩しいような感じがして、泣きたい気持ちになった。
→次ページへ続く

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