「おい、いるんだろう。いい加減うぜえ、顔を見せるか消えるかしやがれ」
鍋をかき混ぜながらジョーカーは目の前の虚空に向かって言った。彼一人の厨房には誰も答える者はいない。それでもジョーカーは言葉を続けた。
「は、だんまりか。おまえの主の器も知れる」
再び沈黙。ジョーカーは呆れたように笑う。
「臆病のうえ、主を馬鹿にされても思い切りのつかない怯懦ときた。サイゾウの名跡ってのは保身で継がれてるらしいな」
「なんだと」
次の瞬間ジョーカーのぴったり後ろには苦無を突きつけるサイゾウの姿が現れていた。そこに刃が当てられるのをわかっていたように、ジョーカーは首筋に近付いた苦無を黒鉄の指先でつまみ止めていた。
「貴様……。そこまで警戒しているなら、やはり間諜か。だが召使い一人消すなど造作もないことだとこの状況でなぜわからん。いつから気付いていた?」
「間諜や召使いなんぞという仕事はしていない。俺はカムイ様の執事だ。お前たち白夜の忍が隠れた気配はさっぱりわからんが、おまえの目は隠れてないときからうざったくてしょうがねえ。おまえ、カムイ様を監視しているんだろう。カムイ様はあまりお気になさってないようだが、そうなら即刻やめろ」
サイゾウは露わな目元を憎々しげに歪めた。
「あれが、かまをかけたと? 随分とぺらぺらと話しかけてきたものだな。この軍には弟も俺の部下の忍もいる。外れていたら恥をかいたぞ」
「恥なんぞ知るか。少しでもカムイ様のためになるならどうでもいいことだ」
いつも主人以外を明らかに見下した様子で気位高くすましている男の、なりふりかまわぬような言葉をサイゾウは意外に思った。しかし、カムイ様カムイ様と犬のように崇拝しているのはいかにも大げさだ。
「けっこうな忠義面だな」
「だからなんだ。言いたいことがあるならはっきり言え。質問にも答えてやる。それで金輪際カムイ様を嗅ぎまわるのはやめてもらおう」
「もう言った。貴様は間諜だろう。認めさせて尋問するつもりだ。そうとしか考えられん」
「残念な頭だな。なぜだ」
「それ以外に、貴様がこの軍へ来る理由がないからだ」
何を思っているのかジョーカーは黙った。鍋の灰汁などすくったりしている。沈黙をサイゾウは肯定だととった。
「貴様の経歴は王城兵どもに聞けばすぐにわかった」
顔が見えないので、そのまま続けた。
「もとは卑しからぬ貴族の出だと言うではないか。その籍は失ったが、実力でカムイの住まっていた砦の使用人頭となっていたそうだな。カムイが暗夜に背き戻らぬとなれば、そこは当然、別の貴族の砦として使われることになる。おまえたち使用人はカムイの正式の臣というわけではない、そのままその将の預かりとなって砦を守っていた。
安泰な立場ではないか? それとも新しい主に無理を言われて虐げられていたのだとでも言うか」
「いいや? 気の小さい奴でな、一度踏むまねをしてやったらお呼びはなくなったさ。おまえの言う通り平和なもんだったぜ」
「そうだろうな。だから貴様がここに来る理由がないというのだ」
ジョーカーは見せつけるようにあくびをひとつした。
「話の長い野郎だな。年寄りか? 面倒になってきたぞ」
「ならまとめてやろう。おまえはカムイとの旧知の関係を利用して、裏切り者の目障りな軍に取り入り情報を送るよう、あるいは内側から崩すよう今まで任務訓練でも受けていたというわけだ。成功したあかつきには爵位に復帰させるとでも言われてな。
貴族の一人息子が、冷遇された得体の知れぬ年下の子供の使用人など、カムイといたときこそおまえには屈辱的な雌伏だったのではないか? 恨みを晴らすならこれ以上ない舞台だろう」
「ははは」
ジョーカーは喜劇でも見ているように声を出して笑った。ごまかしや怒りの入った嘲笑とは少し違った様子だったので、サイゾウは不審に思った。
「何がおかしい。図星か」
「いや、ちょっとは面白そうな話だと思ってな。なるほど、俺はそう見えるか。見えるな。はは、今度カムイ様にも聞かせてさしあげよう」
本当に笑っているようなのでサイゾウは苦無を引いてやった。首が自由になると身をよじるように下を向いて笑う、――そこに確かに、タクミが何か感じたのだろう、妙に場違いなにやけを見た。何やら、甘ったるいような。不快だった。
「何を、他人事のような。そういう密命でもなければ探して旅などせんだろう。カムイはおまえの祖国にとってもはや目障りな敵でしかない。しかも居場所はおろか、生きているのか死んでいるのかさえわからんのだ。面倒な仕事をよくここまでやりおおせたものだな」
「つまりおまえは、主が祖国の敵になったり、生きてるか死んでるかわからなくなったりしたら、そういう仕事をするってことだな」
サイゾウは一瞬息を呑んでしまった。
リョウマが?
「……俺の主は、白夜王国の主。リョウマ様のご意思は白夜の意思だ。国の敵になるなどありえんことだ」
「俺の主も俺の主だ。国の敵になろうが世界の敵になろうが、俺の敵になることはありえねえってことだ」
「……わけのわからん理屈を。おまえ、本気でカムイにつくということが、どれだけ利のないことか、ごまかせるとでも思っているのか。
あいつはおまえにこの軍の情報や自由に料理に毒でも盛れる権限を与えるだろう、だがそれだけだ。そのことのほかにあいつはもう何も持っていない。あいつの首をとって帰ることぐらいしか、おまえが祖国と自分の身のためにできることなどない」
「そうか、どれも興味がないな」
サイゾウは警戒を全身から発しながら、後ずさった。後ずさっていくようにジョーカーには感じられた。本当はそこから後ろは棚なのだったが。尾行をやめるつもりはないらしい。
「気味の悪いやつめ」
捨てぜりふとともに警戒を撒いたまま、それがすっかり空気に紛れるほどの彼方へ遠ざかるかのように、サイゾウの気配はふつりとわからなくなった。ジョーカーは片頬だけで笑ってスープの味見をした。
***
「……ほら、こういうところにある。ここを押してみな」
「うん」
少年の言う通りに子供は小さな手でそっとそのレンガを押した。もうちょっと強く、と手を重ねて押してやると、入れ違いに右のレンガが浮き上がった。そのレンガはよく見ると取っ手になっており、引くと周りの壁がごく小さな扉のように開いた。
「わ~! うわあーすごい」
子供は目と口を開けて、腰が抜けたように座り込んで感心した。歳はいくつか、と聞いてみたが、わからない、とぽへっと答えられた。少なくとも自分の歳がわからないような年齢ではないような気がするが、歳よりも幼い中身をしているのかもしれない。目も、おそらく貴族の子供には珍しくやたらにきらきらとしている。
子供は初めて遭遇したあとも、何度か隠れている少年を見つけてきた。どうしたらいいか扱いかねていたが、居所のなかった心にぽっと灯がともったようだった。かくれんぼじゃないんだぞこれは、と言ったがにこにこして「お話しよう」と言うばかりなので、そのうち望み通り相手をしてやることになっていった。
「ねえ、これは、もっと中に入れるんだよね? どうなってるの? 下にはなにがあるの?」
「入れるはずだけど、知らん。たぶん水路がある」
「行ったことないの? ぼく、そとに出ちゃだめなんだって。でもいつかいいよって言われたら、行ってみたいなあ」
「ふつうの門を使えよ。ここは、なんていうかよくないときにしょうがなく使うんだ。戦いにまけたときとか。貴族がふつうに通るような道じゃない」
「ふうん?」
子供はわかっていなさそうだった。城塞は大きく、王都の北を守るものとして「ギュンター様」以外にもいく人かの貴族の騎士家族が駐留している。その家の中の変わった子供なのだろう。もしかしたら家族の中でもおかしな子だとつまはじきにされているのかもしれない。
こっそり部屋に招かれたときも、おかしなものが目についた。扉の鍵はそのときはかかっていなかったがやけに厳重なものがついていたし、窓が高くて子供でなくても手が届かなそうだった。
そうかと思えば大きな獅子のぬいぐるみや大輪の花を乾かして瓶詰にしたものなどがあり、贈った誰かが子供を大事に思っているのがモノからも伝わってくるようだった。この子供にはそういう人がいてくれるんだ、よかった、と少年は思った。
「これは兄さんがくれたんだって。このお花は姉さん」
「きょうだいがいるのか」
「うん!」
子供はにこにこと返事をしたが、妙な言い方がひっかかった。
「くれたんだって……ってなんだ。そのときいなかったのか」
子供は少し黙ってぼけっとした顔をした。悲しそうな顔なのかもしれなかった。
「ぼく、兄さんにあんまり会ったことないの。おかおをわすれちゃった」
「え? ここにいっしょに住んでないのか」
「おしろにいるんだって。おとうともいるって姉さんが言ってた」
少年はあっけらかんと無感情に言う子供がふびんになった。なんと、このよく笑う子供は、自分と同じで家族からここに捨てられているのだ。王城に住んでいるなら宮廷に常侍する大貴族の子ということだ。きょうだいはそこにいるのに、この子だけこんな寂しい砦に置かれている。
「……だいじょうぶか。つらくないか」
ぶっきらぼうにたずねると子供は小首を傾げた。――つらくないかと聞かれても、よくわかっていないのだ。少年はなにやら怒りたいような気持ちで、さらに言った。
「ひとりでこんなとこに捨てられて、さびしくないのか。こわくないのか。家族をうらんだりしないのかって言ってるんだよ」
子供はぽかんとしていた。少年は恥ずかしくなった。なぜこんなにむかむかしているのか。怒った声を出すのも久しぶりだった。
赤い顔をしている少年に、子供はやはりぽやぽやと話し出した。
「兄さんは、うまにのれるようになったんだって。
国のつよいせんしになれるようにすごくがんばってるんだって。姉さんはとってもきれいなおひめさまで、大人の人もみんな姉さんがくるとよろこぶんだって」
脈絡もなく突然きょうだいの自慢が始まった。歳よりも幼いようなこの子供には、恨みつらみの話は難しかったのかもしれない。なにやら熱くなってしまったのを流してもらえるならありがたいと、少年はひそかにほっとした。けれども、子供のそのあとの言葉は意外なものだった。
「つらいって、よくわからないけど。ぼくも、兄さん姉さんみたいに、だれかにいるとうれしいって思ってもらいたいなあ。
ほんとはぼく、いたらいけない子だから、みんなといっしょにくらせないのかもしれないでしょ……」
言い終えるか終わらないかで、紅い目からぼろりと涙が落ちた。それではちきれてしまったように、子供は声をあげて泣き出した。
「うぇっ、えぇえん」
いきなりの大きな声に、少年は頭では人が来るだろ、とわかったが、それよりも何よりも子供をなぐさめようとして、必死でぎゅっと抱きしめた。
「……いたらいけない子なんかじゃねえよ!」
「うっ、うぁっ、うああぁん」
小さな手は不器用にしがみついてきた。部屋の外から足音が聞こえてもかまわなかった。全身で泣いているこの子供を離したら、死んでしまうと思った。何がかはわからなかったけれど。
「カムイ様! 入りますぞ!」
扉が開く音がしてすぐ、少年は床に叩き伏せられた。うつぶせにされ、腰を踏まれて動きを封じられる。手は離れてしまっていたが、自分から離さずにすんだことになぜか、ほっとしていた。
鞭ではなくもっと硬いものが、床に伏せた頬に突きつけられた。その冷たさと殺気に、少年は息もできないほど硬直した。
「おまえ、下働きの。誰に言われた!」
「ギュンター!」
砦の長を呼び捨てにした子供の声の、まだ涙のかすれを残しても堂々とした響きに少年は驚いた。体の中の水が、その声で震えたような気がした。
「その子をぶたないで。ぼくがおへやによんだの」
「カムイ様」
子供はしっかりした、颯爽としてさえ見える足取りで少年とギュンターの間に割って入った。紅い目が、この城砦で一番強い大人を怖じけずに強く見つめているのを見た。少年は動けないままその横顔の輝きに見惚れた。
「カムイ様。あなたを傷つけようとしている者がこの砦にいるかもしれぬので、この者に聞いているのです。本当にカムイ様が呼んだのですか?」
どうやらギュンターはこの子供の守り役のようだった。ギュンターが、守っているとなれば。それは王子だ。体がとても弱いとか何かで、この砦の結界の中にいなければならないとかいう――。
少年は驚いたが、ギュンターは任されている王子といっても甘い爺やになったりはしないようで、厳しいようすでカムイを問い詰めた。
「ほんとうだよ。おはなしがしたかったの」
「……そうですか。よろしいですが、かばっても良いことはありませぬぞ。この者は、どうであれもうすぐここを出ていくことになっていますからな」
「えっ」
少年はついにきたかと思った。また、捨てられるのだ。捨てられるのはこれで三度めになる。役に立たないのだから当然だと、そう言われるのは正しいと思った。次はそろそろ人間並の扱いを受けられなくなるかもしれないが、どうでもいいし、どうすることもできない。
本人がどうでもいい、と考えているところだというのに、さっきまで凛と輝いていた王子様は、かわいそうなくらいにおろおろとうろたえた。何も見ないようにしたい視界の横のほうで手を握ったり開いたりしている。
「な、なんで?」
「仕事をこなせぬからです。王城からこちらに送られてきた者ですが、カムイ様のお住まいにもふさわしくありません」
「おうちにかえるの?」
「……いいえ。幸い読み書きができるようですし、見目もよく健康です。買い手はあるでしょう」
何か仕事をせねば、子供といえど生きてゆけぬのです、と少し苦しげに言って、ギュンターはカムイの無垢な目から視線をそらした。カムイは息を呑んだ。
こんな子供でも、何かを察したのだな、とわかった。それがつらかった。自分を憐れまないでほしいと思った。自分の誇りのためばかりでなく、そのまるい目を世界の汚れに曇らせてほしくなかった。まだ恐怖に凍ったような口を無理矢理動かし、声を絞り出した。
「もういい、……ですから。おれは……」
「じゃあ、この子はぼくの話しあいてにして!」
背後から聞こえてくる、うめくような声を遮るようにカムイは言った。そこからさらにもうやめろと言うことができず、少年は泣きそうに黙った。
ギュンターは渋い顔をした。
「……カムイ様。お話し相手ならば、今後もっと役立つ教師をおつけいたします。この者の将来のためにも、どこかでふさわしい役目を……」
「この子とお話するの、ぼくはうれしいしもっといっしょにいてほしいよ。
しごとって、やくめって、そこにいてくれるとうれしいって思ってくれる人がいるってことでしょ? ちがうの?」
――そこにいてくれると嬉しいと、思ってくれる人がいるということ。
少年の目が熱くなった。
次の朝に身なりを整えて部屋を訪れた少年を、目覚めたカムイは花がほころぶような笑顔で迎えた。ちゃんと、優しい笑顔ができているだろうか?
「おはようございます、カムイ様」
「おはよう」
丁寧になった言葉遣いはさして気にすることなく、しかし自分の名前だけを知られていることに気付いたのだろう、カムイは笑顔から疑問の顔になった。少年は跪いて名を名乗った。
「ジョーカー、といいます」
「ジョーカー」
カムイははずんだ声で繰り返した。胸が高鳴った。生まれてはじめて呼ばわれた気がした。
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