ジョーカーが大儀そうに洗濯物のシーツを広げて干そうとしていると、右の端がふいに軽くなった。見るとサイゾウが持ち上げて洗濯ひもにかけようとしていた。
「こうでいいのか」
「……おう」
ジョーカーは右肩を負傷していた。早めに杖で処置はしてあるから大事ないが、先日の戦闘で敵の魔法からカムイをかばってまともに凍ったのだ。まだ違和感が残っていた。
「このような下働き、誰がやったところで同じだ。他の者に任せればいいものを」
「やりたくてやってる。口出しするんなら失せろよ」
「怪我人に動き回られるのは面倒だ。その腕がやられたときにしてもそうだ、カムイの補助に回れる者は周りに他にもいただろう。だいたいあの程度の吹雪のまじない、カムイならば眼光ひとつで笑って弾くぞ」
「うるせえ。体が動いちまったんだから仕方ねえだろ」
二人は相手の方を見ずに、並んでせっせと洗濯物を干した。篭がひとつ空になったとき、サイゾウは低く短く尋ねた。
「……なぜここに来た」
顔を見合わないまま、ジョーカーはうんざりした顔をした。
「またか……」
「正直もう俺は、おまえのことを間諜だとはあまり思っていない。もちろん監視は続けるが」
「おう、ご苦労なこった」
濡れ衣を着せたことを償えと責めることもなく、ジョーカーは右腕をだるそうに回す。次の篭の洗濯物も重たげだ。
「おまえはなぜ来た? わかっただろう。カムイはもう強い。カムイが追手にもうち勝って生きているなら強くなっているだろうと、おまえは考えられない馬鹿ではない。
おまえが信奉する通り、妙な人たらしの力をもった王子さ、あれは。たとえあの女召使いがてんで使えなくとも、あいつには誰かしらついてきてなんとかするだろう。
祖国も立場も捨ててあてもなく探しさ迷って見つけ出しても、大して役に立てんとは考えなかったのか? 俺なら……」
声が揺れた。サイゾウは恥じるように目を閉じて顔をしかめた。
「……おまえは役立たずだ。主だとておまえの力のほどはわかっているだろう。なのになぜ身の程を超えてまで恥ずかしげもなくカムイをかばおうなどとする。何になる。俺にはわからん」
「は、そんなこと。白夜の忍は護衛の任務のとき身を挺して主を守れと教わらないのか?」
「御身が危ないときはもちろんだ。もっとふさわしいやり方があるならば……」
「俺はそんなことは考えていない」
ならなんだというのだ、と問いかけるサイゾウの目をそこで初めて見て、なぜ来たかだと、とあざ笑う。真正面から射貫くようにジョーカーは言った。
「愛しているからだ」
不敵で強い笑顔だった。サイゾウは幼いころ聞いた、白夜一の侍とうたわれたカザハナの父の言葉を思い出していた。彼がスメラギ王に仕えるようにいつか立派にリョウマに仕えて、リョウマの手足となるのだ、と憧れた。さぶらう者はなによりも、主に惚れて守ること――と。
「サイゾウ。もう、いいよ。ジョーカーの監視は……」
「は」
背後に跪いて返事をするサイゾウにタクミは振り返って、立つように言った。腕組みをほどいて正面から見上げる。
「お言葉ですが、とか言わないんだな?」
「……いえ」
珍しく歯切れが悪いサイゾウをタクミはじっと見つめた。
「……あまり忍の顔をご覧めされますな。俺も、あいつの監視はどうにも……調子が狂うと思っていたところです」
「サイゾウが? おまえにもそんなことがあるのか」
「未熟でございます。この仕事は弟のほうが合っていたやも」
「兄さんのことを考えた?」
兄さん、というのがカムイのことでないのがサイゾウにはすぐにわかった。なぜならタクミの言う通りだったから。
「サイゾウ、おまえ、もし兄さんが、おまえと白夜を捨ててどこか遠くへ行ったらどうする? そうしたら僕に仕えるのか」
「……意地の悪いことを聞かないでください」
どうして人は死ぬのかだとか、そういった難しいことを問いかけてくる幼い子供のように、神がかったまっすぐさでタクミは見つめてきた。そういえば、タクミは昔こういう聡い子供だったのだ。サイゾウは目を伏せた。はっきりと答えを出すことができなかった。
「僕はヒナタのことを考えた」
すい、とタクミが横を向くと、ずっとぼうっと見ていたらしいヒナタが、犬が尻尾を振るように遠くでぶんぶんと手を振った。タクミは眩しいように目を細める。
「ヒナタは、僕についてきてくれる」
「……ええ、あいつはそうでしょう。侍とはそういうものですから。あいつは侍です」
「兄さんたちは臣下がついてきても、ついてこなくても、きっとそれでいいって笑うだろう」
「そうですね。リョウマ様は、この身を知り、信じてくださっています。俺の……何よりの……」
「僕は……」
ヒナタに向かって軽く微笑んでみせるタクミの手には、恐る恐る花に触れるような風情があった。あるいは、炎にかざすような。
「僕はできるだろうか」
タクミはヒナタのほうに歩いて行った。太陽に近付こうと飛ぶ愚か者のように。主従の道を生きる者は皆愚か者なのかもしれないとサイゾウは思った。その愚かさが火の粉や、夜桜の花散る軌跡のように、人の目に狂おしい爪痕を残していく。
***
その日はジョーカーはカムイにねだられて騎士の物語の本を選んでいった。最近城砦の守備に新しく着任した下級騎士貴族の子が、昼間カムイと遊ぶようになったのだ。
カムイをとられるのはむかついたが、確かに昼間は仕事やギュンターの地獄の執事修業があるし、一度そいつに足をひっかけて嫌味を言ってやったら、『なんかおれが手伝えることあったら言ってくれ』などとお気楽な顔で言われたので馬鹿馬鹿しくなってしまった。なによりカムイが『今日サイラスがね』と夜に自分に報告することができたのを喜んでいるようなので、ジョーカーはまあ悪くないと思っていた。
「ジョーカー、今日はサイラスと騎士の話をしたよ」
「あいつはそればかりですね。つまらなくはありませんか?」
「おもしろいよ。兄さんも騎士のくんれんをしてるんでしょ? リリスがねえ、サイラスと行ったら馬にさわらせてくれたんだ。ぼくは馬にのってどこかに走りにいったりできないけど、馬はとってもきれいでかわいかったよ。もっと騎士のこと知りたいなあ」
にこにこと話すカムイに、ジョーカーは小脇に抱えていた大ぶりな本を差し出した。
「そうおっしゃっていたので、探してきましたよ」
「わあっ、きれいな本」
本は紙が分厚く、表紙には浮彫りで騎兵の姿が描かれていた。騎士の姿は王侯貴族ならパレードでよく見ているものだが、カムイは少年騎士である兄王子の甲冑姿をたまに見るくらいだ。話だけではどんなものかつかみづらいのではないかと思い、絵入りの物語を探してきた。やや古びてはいるが何代か前の幼い王子への献上品であろう、ページいっぱいの画家の手書きの絵がいくつも入った豪華本だ。
話は、暗夜王国のひとりの親のない少年がひょんなことから偉大な騎士の血をひいていることを見出され、精霊の力によって遍歴の騎士となることから始まった。そこから少年騎士は精霊に仕える老騎士に導かれ、さまざまな架空の公国を冒険の旅に回ることになるのだ。
「ジョーカー。へんれき、ってなに?」
「主をもたず、代々仕えたり治めたりしている土地もなく、冒険や仕えるべき人を探して修行の旅をする騎士のこと、と書いてありますね」
「それって、自由っていうこと?」
カムイは旅の物語が好きだ。どこにでも行けて、土地ごとに違うさまざまな風物を見ることは、くる日もくる日も同じ砦から出ることのないカムイには憧れなのだった。
目を輝かせて旅に向かう騎士の挿絵を見ているカムイに、ジョーカーはそうですと言ったけれども、なんとなくひっかかるものを感じていた。自由――自由とはどういうことだろう。遍歴は、そんなに心はばたくようなものだろうか?
それから一晩にひとつの国の話ごと、その本を読み聞かせていった。尽きぬ財宝のある国、緑豊かな妖精の国、海に面した商人の国。それぞれの国ですぐれた主とは何かと学んだ少年騎士はやがてりっぱな青年に成長し、そしてついに、暗夜の闇の果て、あかつきの国にたどりつき、彼をずっと待っていたという運命の王に出会う。
王は平等で正しく、優しく、美しいものと豊かな実りを愛し、そしてそれらを守るだけの強い力を持っていた。王は神の末裔だったのだ。しかし王のあまりのまっすぐな美しさに、人々は直接王を見ることも、言葉を交わすこともできなかった。王はそれでも国を愛し、皆の幸せに尽くした。そんな王を助けて国の危機を救った騎士は、彼を生涯の主に戴くことを決める。
次のページを開くと、ひときわ美しい挿絵があった。そこが物語の一番すばらしい場面なのだとはひと目でわかった。
「きれい……」
物語の盛り上がりに入り込んでいたカムイは、まるでそこに居合わせた人のように感嘆のため息をもらした。白い石造りの城の深紅の敷物の上、光り輝く王の足元に、兜を脱いだ騎士が跪いてふかく頭を垂れている。彼の持ち物である魔法のかかった黄金の剣は、今は王の手に持たれて、騎士の肩にその切っ先をのべられている。文章のページには『せいやくのぎしきには、たくさんのせいしょくしゃ、きぞく、まわりのくにのおうたちまでもが、みなたちあいました』と書いてあった。
「せいやく?」
「騎士の誓いです。主を決めたということです」
「騎士のちかい! サイラスが言ってた」
カムイは聞いたことのある言葉が物語に絡んだので興奮して声を高くした。
「サイラスはね、ぼくがおとなになってりっぱな王子さまになったら、ぼくに騎士のちかいをしてくれるんだって」
「そうなのですか」
ジョーカーは内心穏やかでなかった。あのヘラヘラした下級騎士の子ふぜいが、王子の騎士になれるなどとは笑わせる。ギュンターも高くない身分の出だが、若いころは暗夜で指折りの実力を持った騎士だったという。それくらいでなければならない。
それに主と自分が互いに釣り合う立派な大人になれると、それまでずっと友情が変わらないと思っていられるというのも、ずいぶんと悠長でおめでたい話だと思った。ジョーカーの思いはもっと切実だ。もっと、精一杯だ。そばにいてわからないことを何でも答えて、誰より第一に頼られているけれども、こうして守り守られている実感がなければ自分は正気でいられないのではないかとさえ思う。
物語の騎士は誓約の文句を述べ、王はそれを受け取った。王と騎士の麗しい親愛はいつまでも語り継がれ、王国は末永く栄えたというところで、本は終わりになった。
カムイはしばし余韻に浸るようにじっと黙ってから、ぽつりと聞いた。
「たびはおわりなの?」
「そうですね、終わりです」
「ざんねん……」
騎士の自由気ままな旅が終わってしまったことを、哀れに思うような調子だった。ジョーカーは笑って、ページをひとつ戻してやった。跪いた騎士は目を閉じて気高く微笑んでいた。
「そうでもありません。この男は幸せなんですよ」
「そうかな。……そうだね」
示された挿絵をじいっと見て、よくよく見てから、カムイはうんうんとうなずいた。やさしい王子だ、出会ったときから。自分の思いがあっても、他人の気持ちをはねつけずまっすぐに感じることができる人だ。
挿絵を見つめていたカムイがふと顔を上げた。
「ジョーカー、これはなんのためにするの?」
誓約の文句はいかにも格好いい様子で、読み聞かせているときはわくわくと聞いていたが、古い言葉が難しくてカムイにはよくわからなかったらしい。主をもつ、臣下をもつということも、今のカムイにはぴんとこないことだろう。ジョーカーは噛みくだいて伝えた。自分があなたに誓うならば、と、気持ちをこめて。
「永遠にうらぎらずに、どこまでも味方だと約束するためです」
「やくそく」
「そうです。おれはお約束できますよ。お許しをもらえるなら」
→次ページへ続く

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