暗夜王国は当代の王、ガロンの武勇と軍略によって各地の乱れを平定することはなはだしく、近年は周辺の独立領への圧力や侵攻が目立ってきていた。王子カムイの住まっている王都はずれの城砦にはそのものものしさが響いてくることはないが、王城の様子は徐々に様変わりしていた。
「きゃっ!」
「うおっ、と! てめえ、どこ見て走ってんだ」
ジョーカーは使いに訪れていた王城の階下で、きょろきょろ上を見ながら走ってきた子供とぶつかって荷物を落としそうになった。場所が場所なので自分より粗忽な新入りの使用人がいたかと思って怒鳴りつけたのだが、見るとその整った身なりは貴族の令嬢のものだった。
「ごめんなさい、おけがはありませんか。ここはどこですか」
小さな令嬢は意外にも手を借りずに堂々と立ち上がって聞いた。どうやら王城に不慣れで階下に迷い込んでしまったようだった。
「ここは使用人用の廊下だ。上への階段はあっち」
「手紙がとどいてはいませんか?」
「手紙? ああ、王城に届いた手紙は上級使用人が仕分けしてから本人に届けられる。王城住みの貴族は待ってりゃいい。文通でもしてるのか? おまえあての手紙なら親が受け取るだろう」
「……両親からの手紙なのです、シュヴァリエから」
令嬢の言葉にジョーカーは眉をはねた。ちょうど階段に着いて、上から響く足音に令嬢は少しびくりとした。ありがとう、と言って昂然と顔を上げて登っていく、燭台の光まぶしい上からはやがて貴族の声が聞こえてきた。
「おお、小さなレディ! 後見人どのが探しておられましたよ」
「もうしわけありません。目がくらんで迷ってしまいました。あんまりきれいなお城なのですもの」
「そうでしょうとも、この城に遊学できて、侯爵を庇護者にもててレディは幸せ者ですよ」
「はい」
先ほどの凛々しい様子とは違った、いかにもかわいらしい姫君のような令嬢の声をそのあたりまで聞いて、ジョーカーは事情を察した。おそらく、父母からの手紙は彼女に容易に届かないのだろう。
最近王城に『遊学』と称した周辺諸国からの子女が見かけられるようになった。『後見人』と呼ばれる中枢の貴族がその保護者をしているのだが、要は、人質とその監視者である。
属国となったシュヴァリエなどは、公子やそれに近い重要な家柄の子供を王城に渡すことで恭順を示すことになる。子供は城の中に反乱勢力を作らないよう行動も交友関係も厳しく制限され、いつ殺されるともしれない不安な身の上であのように一人で戦っていくのだ。なんだかカムイ様に似ている、とジョーカーは胸を痛めた。
そんな折、暗夜王国の外れの部族から族長の子が行儀見習いに来るという話を、カムイとジョーカーはギュンターから聞かされた。
「フリージア、氷の部族の村から、この城砦に預けられてきます。カムイ様にお仕えすることになりますので、こちらに着いたら挨拶に参ります」
「どんな子?」
カムイはサイラスに続いて似た年頃の子供が増えるのではないかと期待して聞いた。ギュンターはちらりと書簡を見て答える。
「歳はちょうど九つになったばかりの娘ですな。それが二人。双子だそうです」
「女の子」
わくわくとした声を聞いてジョーカーは少し胸が騒いだ。カムイはすぐジョーカーを振り返る。
「ジョーカー、双子の女の子だって! 楽しみだな。このまえカミラ姉さんがくれた回るお人形みたいだねえ」
「そうですね。カムイ様、あれはお気に入りでしたね」
「双子といったら、双子の妖精が出てくる話があったよね。また読んで」
「はい、喜んで」
「ジョーカー」
にこにこと二つ返事で引き受けるとギュンターがぴしゃりと会話を止めた。ジョーカーは舌打ちしそうになったがカムイがばっちり見ているので控えた。
「……カムイ様、ご自分で読み直されてはいかがでしょうか。最近は物語ならほとんどすらすらと読まれる。ジョーカーは従僕の仕事の覚えが悪いゆえ、あまりお相手の時間をとれませぬ」
冷ややかにジョーカーを見下ろしながら嫌味たらしく言うギュンターを、このクソジジイ覚えてろよとにらみ返した。その屈辱も、カムイがそうなのジョーカー僕も勉強がんばるからねと言ってくれると、おおむねすっきりする。
執事の所作をギュンターに鞭打たれながら繰り返し叩き込まれているあいだ頭の片隅で、行儀見習いねえ、とジョーカーは考えていた。先日のシュヴァリエの令嬢は人質でもあり、暗夜の貴婦人としての作法を教育されて場合によっては王子や有力貴族の妻妾として召し上げられるものでもある。もしかしたら『後見人』の侯爵だかが直接喰うために美しく太らせているのかもしれない。
国内の有力な血筋や強力な国許の後ろ盾がなければ、女本人に発言権などない。子を産んでも思うようにそばにいることもできず、祖国との政略に利用されるばかり。せいぜいカミラやレオンの母のように、自分も子を利用して宮廷での陣取り遊びに明け暮れるしかない。それが暗夜のありようだ。
これからここに来ると言う姉妹も、そういうわけでカムイの養育されているここに送られてくるのだろう。自分が邪魔だからと捨てられてきたのとは違う。つまり、カムイの、ものになるかもしれない女の卵のようなものがやってくる。よくある話だ。だからその時点ではジョーカーは何とも思わないようにした。カムイくらいの歳になれば、妾候補がそばにつけられても珍しくはない。
実際フリージアの娘が挨拶に現れたとき、しかしジョーカーは穏やかではなかった。
カムイより少しだけ年上に見える、雪玉のように全体に白っぽくまるいよく似た顔をした姉妹は、本当にカムイの気に入りのねじ巻き人形によく似ていた。特に、氷の色をした髪の姉のほうが顔を上げたとき、完璧な令嬢の笑みにカムイがぽうっと見とれたのが後ろにいてもわかった。
「おはつにお目にかかります、カムイ様。お会いできて光栄です。フローラと申します。こちらは妹の」
「ふぇ、りっ、フェリシアともうします!」
「フェリフェリシア?」
「こちらは妹のフェリシアです。今日からカムイ様のもとにお世話になります」
「フローラ、フェリシア。遠いところから来たんだってね。おまえたちの故郷ってどんなところなの? つかれがとれたら、もっと近くに来てたくさん話を聞かせてほしいな」
「おそれ多いことです。氷の部族を代表して、カムイ様のお役に立てるよう二人つくしてまいります。どうぞご指導くださいませ」
「ごしどうくださいませ~!」
ぴょこっと頭を下げる妹の横で姉は優雅に礼をとった。挨拶の口上をよく準備してきたのだろう。カミラの甘くとろける美しさとも、マークスの堅固な強さともまた違った、澄んだ氷のような緊張感のあるたたずまいにカムイは憧れの視線を注いでいる。いかにも、よくできた娘であった。ジョーカーとは違って。
姉、フローラは、もとからここに住んでいたようにするすると仕事を覚えた。反比例的に妹のフェリシアは仕事ができないどころの騒ぎではなく、その後始末を手伝ってもフローラは平然としていた。ジョーカーも人並程度には使えるようにまではなっていたが、年下の娘にさらりと追い抜かれるようだった。
「フローラに任せておけば安心だ」
「光栄です」
簡単な繕い物の雑用をこなしながらフローラは微笑む。隣では針子が呑みこみの早さを喜んで機嫌よく教えている。カミラのように人を熱狂させる魅力ではないが、控えめで品のよい笑顔の少女に階下はよい雰囲気になる。それをジョーカーはフェリシアのこぼした掃除用の水をいっしょに拭いてやりながら横目に感じている。
優秀な姉が明るい場所で皆にいい子だよくできた子だとほめられているときも、フェリシアはたいてい何か落とすだか壊すだかして這いつくばってわたわたとしている。誰もフェリシアのほうを見てはいない。
「はわ……はわわあ~」
「おいっフェリシア面倒だ泣くな」
「ふええジョーカーさんごめんなさい」
フェリシアがめそめそしだすと直接触れている水が凍りだしてしまう。力加減の下手な凍気と身体能力以外はてんで使えない妹のことは、ジョーカーは自分より明らかに下っぱと侮っていた。ただ、姉妹がひとそろいでいると、フェリシアは姉と張りあおうとして破壊力を弱めたし、フローラもよく支えたので、カムイの前に出るときは基本的に二人一緒だった。
初対面ではカムイから少し距離をとろうとしたフローラたちだったが、カムイが無邪気に興味を示してくるのですぐにそば近く話すようになった。暗夜のおとぎ話に出てくるのとは違った、雪と氷の中の部族の暮らしの話をカムイは喜び、今は部族に伝わる髪の結い上げ方を目を輝かせて見ている。
「カムイ様、こうやって、上のほうから三つに」
「わあー、フローラは上手だね。三つはむずかしいよ」
「まずは二つ編みからやってみましょうか」
「フェリシアの髪はまっすぐでさらさらだね」
「えへへ、お好きなようにやっちゃってください!」
おとなしくへらへらと座っているフェリシアの長い髪を、人形遊びのようにかまったりフローラが魔法のようにまとめるのを見たりするのをカムイは楽しんだ。カムイの部屋からフェリシアとカムイの歓声、フローラの落ち着いた声がするのを聞き届けて、やっとギュンターから解放されたジョーカーは燭台と本を持ったまま歩き去っていく。読み聞かせがないのなら、他に今のうちにやっておかなければならないことがある。

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