フローラは、故郷を離れて暮らすことになった城砦で、とある怪異に遭って困っていた。
はじめは実は城へ来てほんの数日の夜のことだった。夜中の用足しにフェリシアについていったとき、廊下の角の闇のほうから一定の間隔の足音がしたのだ。それが、早足のようなのに近付きも遠ざかりもしない音で、鈍いフェリシアも異常さに気付いた。
泣き出しそうな口をふさいで、妹の体を抱えるように走った。幸いその角のほうへ行かずに部屋へ帰りつくことができた。二人でひとつのベッドに入って、声を出して泣こうとするフェリシアをなだめるのに苦労した。
「フェリシア、みなさんのめいわくになるわ。もうみんなねてるのよ」
「ううっ、でもでも、おばけは起きてます。食べられます」
「大丈夫よ。ふとんをかぶっていい子にしていれば、来ないわ。姉さんがいっしょよ」
「姉さん……姉さん……」
部族の村で、暗夜の王都に出たことのある婦人が言っていた。暗夜の王城や貴族の館には、亡霊がうようよとさまよっているのだと。
権力争いの敗者や戦死者の怨念が暗夜には絶えることがない。氷の部族のように身を寄せ合うのではなく、奪い支配するやり方で暗夜人は生きている。だからお嬢様、大切なものを奪われないように、隙を見せないようにしなければならないのです、と聞いた。
「亡霊が狙うのは暗夜の人よ。わたしたちを食べたりしないわ……」
善良そうに見えるあの王子も暗夜人だ。部族から、穏やかな父から奪うことしかしない暗夜王の息子なのだ。フローラはフェリシアを強く抱きしめた。自分がしっかりして、故郷を守る。フェリシアを守るんだと思うと、恐怖は薄らいだ。そうやってじっと闇をにらんでいると、腕の中でフェリシアがすぴすぴと寝息を立てはじめる。それでようやく眠れるのだった。
夜中の、近付きも遠ざかりもしない足音はまた別の日にも聞こえた。その場所に近付かずにすむ道をみつけて、そちらにフェリシアを誘導すると、夜は寝ぼけているのもあるのか、フェリシアは足音のことなどすっかり忘れてしまったようだった。
そうするとフローラは逆に怖くなった。自分だけがあの足音のことを知っているのだろうか、実は亡霊などではなく風に何かがゆれる音なのではないだろうか。でも、何が? 他の使用人たちに聞いてみようかとも思ったが、せっかくうまくやってフェリシアの失敗をかばえているところなのに、弱みを見せるようで、聞けなかった。
足音の聞こえた方向を昼間に見に行ってもみた。普通の廊下と、階段と、その下に殺風景な広間があるだけだった。ひとりでに音をたてるようなものはないように見えた。フェリシアと夜中に確かめに行けば、とも考えた。しかし、フェリシアは忘れてにこにこしている。わざわざ危険なところに連れ出すわけにはいかない。
すた、すたすた。
すた、すた、すた……。
一人夜にその角の近くを通りかかったときも、やはり闇から当然のように足音が響いてきていた。自分は亡霊に恨まれるいわれはないと頭ではわかっているし、何をしてくる気配もないただの音なのに、ひいて行ける手や代わりに泣いてくれる声がないのが恐ろしくて、また逃げてしまった。
その日もフローラとフェリシアはカムイに乞われて、髪編みをしてともに遊んでいた。カムイはフェリシアの薄紅色の髪を不器用に編みながら氷の部族の村の話をねだる。
「ふたりの故郷はとっても寒いんだね。ぼく、雪はまどからちらちら降るのを見たことがあるだけなんだ……」
「つもった雪は、ごらんになったことがありませんか?」
「つもった? ……ああ、絵で見たことがある。土に雪が残って、とけないでいるところのことだよね」
「部族の村のまわりは、すごいんですよ~! ずーっと、ぜんぶ白いんです! ここは夏じゃなくても地面が見えててびっくりです」
「地面が見えないの? 雪って、すぐにとけるんだろう?」
「たくさん固まって、空気がつめたければとけないんですよ。……カムイ様はもしかして、雪にさわったことが」
見るとカムイの頬はほんのりと赤く染まっていた。話題のものを実際に見たことがないのを恥ずかしがっているのだろうか。
「実は、そうなんだ……。この前の冬、ジョーカーに雪に触ってみたいって言ったら、とってきてくれたんだけど……ぼくのところにくるまでに、とけちゃったって。ジョーカー、すごくつらそうだった……。たのまなきゃよかったなって思ったんだ」
「まあ……」
冬というのに固めて運んだ雪が簡単に溶けてしまうようすがいまいち想像できないのもあって、フローラはおおかたあの従僕の少年は雪を取りにいったと嘘をついたのだろうと思った。カムイにも雪は溶けるものだということくらいわかる、本当に雪をかき集めにいかなくとも機嫌をそこねることはないだろう。
フェリシアは髪をいじられながら鼻息を荒くした。
「元気出してくださいカムイ様。雪ならほら、わたし出せますよ! えいえい」
フェリシアが手を広げて冷気の流れを作ると、氷の粒がきらきらと小さな吹雪を作って床に吹きつけては溶けていった。
「わあっ、すごい!」
「こらっ、やめなさいフェリシア。床がぬれるでしょう!」
「わわっ、そうでしたー! とめてとめて……」
きゅっと手と目を閉じると冷気が拡散した。周りの石の床はびしょ濡れになり少し足元も濡れてしまったが、カムイは興奮して大きく息を吐いた。
「氷の部族の力ってすごいんだね。冷気ってひやっとするだけじゃなくて、こんなこともできるんだ」
「ううう、ちがうんです~こんなつぶつぶの氷じゃなくて、ふだんはもっとこう……わたしも雪っぽい雪がですね……」
「雪っぽい雪?」
「姉さん! おねがいします!」
「ええっ」
振られてフローラはあまりいい気分ではなかった。調子のいい妹だ。普段も何もいつもあんな感じの吹雪か、でなければ派手な氷柱しか作れないくせに。
「雪っぽい雪ってなに……?」
無垢な好奇心の瞳に負けて、フローラはしぶしぶてのひらを広げた。薬指の上に冷気を集中させて練る。
「よく見ててくださいね~」
自分がやってみせているように得意げにフェリシアは顔を輝かせている。ぽうっと見ているカムイの視線の上で、ふいにちらりと何か光ったかと思うと、そこからみるみる六方向に氷がふくらみ始めた。
「わ……」
「……さあ、カムイ様。雪ですよ」
フローラの手の上にわずかに浮くように乗っているのはいくつもの雪の結晶だった。繊細な透明の線を規則的に重ねた、とびきりのレース細工のような光に素直に目を奪われるカムイを見て、フローラはまんざらでもなく機嫌を直した。
「さわってみてください」
カムイは言われるままフローラの手に触れて雪をすくった。羽毛より軽いふわふわとした白は、カムイの体温に触れるとすぐに水に返ってしまった。
「ああっ」
冷気を作っていたフローラの手に比べてカムイの手はずいぶんとあたたかかった。なるほどこんなにも溶けるのか、とフローラも驚いていると、扉をたたく音がした。
「カムイ様、紅茶をお持ちしました」
「はあい」
ジョーカーが片手に盆を持ち入ってきて一瞬眉をはね上げた。フローラはカムイと手を触れ合っていることに気がついて焦ったが、あわてるのもなぜかしゃくな気がして、フェリシアを椅子(いす)から立ち上がらせてからゆっくりと手を前で組んだ。
「何をして遊んでいたんですか?」
部屋に入ってきたときとは違い、フローラたちを一切見ずに、これ見よがしにカムイだけに優しく微笑んでジョーカーは机と茶器を整えた。
感じの悪い人だ、フローラはこの従僕をあまり好きではなかった。フェリシアの失敗の後始末をするときもいつも意地悪な言葉ばかり投げつけているように思う。てっきりギュンターの親類だから執事候補をやっているのだと思っていたのに、身寄りがないとうわさで聞いた。家族をもっていないなどフローラには考えられないことだ。哀れだとは思うが、周りにはとげとげとした勝手な態度を隠さないし、そのうえ故郷の父とも似た厳しく実直なギュンターの指導にまで憎まれ口を叩く。
きっと暗夜の人間というのはこういうふうに、恵まれないがゆえに自分勝手になっていってしまうのだわ、とフローラは考えていた。
「またフローラにかみのけのあみ方を教えてもらってた。のどがかわいてたんだ。うれしい。みんなのぶんはないの?」
「ありがとうございます。私たち使用人の飲み物は、あとで下でいただきますから」
「そう? ……ああ、おいしい。これはジョーカーがいれてくれたのか?」
「……いいえ。それはジジ……ギュンターが。おれの紅茶はまだお出しできません」
苦い顔で、しかしはっきりと自分が淹れたものではないと答えるジョーカーをフローラは意外に思った。その顔を見て、元気づけようと思ったのか、カムイは明るい声で話し出した。
「ねえ、ジョーカー、このまえ雪を取ってきてってわがままを言っちゃったことがあったよね」
「え? ああ……あのときは、申し訳ありませんでした。次の冬こそはどうにか……」
「ううん。いいんだ。さっき、フローラが雪を作って触らせてくれたんだよ」
また一瞬だけジョーカーはフローラを見た。手柄を奪われたと憎まれただろうか? しかし嫌そうな視線は本当に一瞬だけで、すぐにまたカムイだけを見つめに戻り、嬉しそうな笑顔をいっそう眩しげに見るのだった。
「それはよかったです、カムイ様」
「あのときは、ごめんね。雪はすぐ溶けて、つめたいんだね。ぼくのために、つめたかっただろう」
小さな手に手をとられて、ジョーカーは少しのあいだぼうっと固まっていた。それから苦しいような顔をして、震える手を胸に当てて礼をとった。
「何も……カムイ様のためならば、雪も炎も大したことではありません」
大げさなもの言いにフローラは内心ため息をついた。

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