夕食の片付けの後、くつろいでいたフローラとフェリシアの部屋にジョーカーは突然あがりこんできた。
「おいおまえら」
「はわわ!」
「無作法です! ノックをしてください」
「カムイ様を見なかったか? 部屋にいらっしゃらない」
フェリシアの悲鳴もそれをかばい立ったフローラの抗議もまったく無視してジョーカーは部屋を見回した。頭にきてフローラは言いつのった。
「悪かったの一言もないの? だいたいあなた、今はまだ夕食後のお茶の時間が終わったばかりよ。お部屋には寝る時間になったらきっと……」
「カムイ様は体調をくずされてる。休んでないと……」
「え?」
独り言のようにつぶやきながら、ジョーカーは本当に謝る一言もなく出ていってしまう。ついそれを追いかけた。
「待ちなさい!」
「姉さん」
「フェリシアはそこにいて!」
ジョーカーは同じようにノックも挨拶もなしに使用人の部屋を開けては出ていき開けては出ていった。それを追いかけていくフローラは結果的にすみませんと頭を下げて扉を閉めていく係のようになってしまい、どうしてわたしがフェリシア以外のフォローをしなくちゃならないの、とわけがわからなくなった。その間にもジョーカーはすごい速さで被害を拡大していき、途中で情報をつかんだのか、開いている扉が途切れたころにはフローラはその背中を見失っていた。
「なんなの……なんなのよもう……もうバカみたい……」
フローラが引っ込みがつかなくなってむきになっているというのに、他の使用人たちはジョーカーに部屋を暴かれても気にしていない様子だった。まさか彼はあれが当たり前で仕方ないとあきらめられているのだろうか。信じられない無礼だ。守るものがない人間はあんなに勝手なのか。
置き去りにされた廊下で怒りに震えていると、背後から足音が聞こえてきた。
すた、すたすたた……
「えっ……」
フローラはさっと襲ってきた恐怖に動けなくなった。
夜だ。使用人部屋の話し声が遠くに聞こえる。ここは、あの角だっただろうか? ……
「……カムイ様、
カムイ様、もう少しです。ああ、すぐベッドにお連れします……!」
「えっ」
近付かず遠ざからないはずの足音は、しかしあっと言う間に迫ってきた。走る足音はジョーカーだった。振り返ると、何か背負っている。――カムイだ。フローラはひとにらみで廊下の端に押しのけられた。
「おいどけ! ……しっかりしてくださいカムイ様、気持ち悪くはないですか?」
「ちょ、ちょっと待って」
「あと少しのしんぼうですからね……。カムイ様、カムイ様、どうか……」
ジョーカーは後ろをついてくるフローラに見向きもせず、答えを返さないカムイに声をかけ続けた。カムイは、肩でそろえられたジョーカーの銀の髪に顔を埋めてくったりとしていた。本当にかなり具合が悪いのだ、と悟ってフローラはじわじわと苦しくなった。そういえば、顔が少し赤かったし、思い返せばたくさん兆候はあった。自分が見逃したそれにジョーカーは気付いていたのだ。
「……ギュンターさんに知らせてくるわ!」
心細さでジョーカーについていくのをやめ、一声だけ言ってフローラは別の方向へ折れた。自分も、何かせねばならない。そう思えば怖さは振り切れた。
カムイの高熱はその後一昼夜続いた。
三度目の夜、その寝息は平和なものに戻っていた。代わりにフェリシアがすっかり衰弱して寝込んでいた。昨晩カムイの熱を落ち着かせようとして、人の体に適した冷気を送り続けていたのだ。
フローラはフェリシアのための水盆の水を替えに厨房に向かっていた。馬鹿な子、どうしてこんなことをしたのと泣きながら怒ったら、姉さんみたいにやくにたてないので、とふにゃふにゃ言っていた。そんなことをするためにここに来たのではないのに。
厨房に入ると銀色の髪が見えた。月明りしかない下でジョーカーが何か料理していた。おそらく包丁の練習に細かく刻まれたのだろう種々の野菜や砕かれた獣の骨はかなりの量で、それらでスープをとっているようだった。彼がずっとここで黙々と作業をしていたのだろうことは見ればわかった。
「……こんばんは」
「フェリシアは落ち着いたか」
あいさつを返さずジョーカーは聞いた。フローラも水を捨てながら答える。
「ええ、もう大丈夫そう。あの子は体が丈夫なの。そうじゃなかったら、あんなこと、死んでしまうかもしれないことよ……」
「そうか」
「あなたは、何をしてるの?」
「見りゃわかんだろ。スープを煮出してる。カムイ様がいつ起き出してもいいように」
「ストックならあるわ。一人で鍋についてなくてもいいじゃない」
「うるせえ、眠れねえんだよ」
フローラはジョーカーがカムイに付ききりの看病をしようとしてギュンターに叩き出されたところを見ていた。中でのことはわからないが、おまえがそのように隣で必死な呼びかけをしていたらカムイ様が休まらん、自分の仕事をしていろと言われていた。そこから額を冷やす布くらいは替えられるフェリシアに代わったのだ。
まさか、あれから休んでいないというのだろうか?
フローラは暗くてよく見えないジョーカーの近くに寄って顔を覗きこんだ。あえてフローラの方を見ずにスープの灰汁を取り続けている目の下はかげり、暗い中でも青白いはずの頬は赤くなっていた。今度は見逃さなかった。
「休んだ方がいいわ。あなたこそ体調がおかしい」
「あぁ? ……誰が、このくらい……」
「熱があるのよ」
「っ……さわるな、」
顔にのばされたフローラの手を避けようとしてジョーカーはぐらりと傾いだ。
額を濡らす心地よい冷気にジョーカーが目を開けると、少女が指先を離していくのが見えた。フローラだ。すぐにその冷気はただの水の温度になる。
「起こしたかしら」
ジョーカーはだるそうに周りを見回した。状況を確認しているようだった。自分のベッドだとわかると、まず問う。
「カムイ様は」
「まだ起きてないわ。あなたがねむってから何時間もたってないから、もう少しねていて」
今度は襟元に向かって指先をはねて、フローラはわずかに冷気を飛ばした。苦しいだけではなくいまいましげに眉をしかめてジョーカーは深く息を吐く。
「冷たすぎた?」
「いいや。フェリシアを見てなくていいのか」
「あの子はもうおとなしく寝ていれば大丈夫。あなたがまた起き出していかないように見ていたの」
フローラはふと、自分がフェリシアに話すときのように気安い言葉でしゃべっていることに気が付いた。少年とはいえ年上で先輩だというのに。
ここに来てからは周りは敬意を示さなければならない人ばかりだ。隙を見せぬよう、ことに男性の前ではフローラはよくできた娘の態度を徹底してきた。それがほとんど当たり前になっていたのに、部屋に押し入られて怒鳴ってからだろうか?
ジョーカーは天井を見つめてぽつりと言った。
「フェリシアも、カムイ様にそれをしたのか?」
それ、とは冷気を集めて送ることだろう。フローラは首を振った。
「……あの子は、こんなのできないわ」
「じゃあ何をしたんだ」
「もっとゆるく、ずうっと送ったのよ。こうやって、少し冷気をとばしてケガを冷やしたり、熱をうばったりするのは、氷の部族の技だけど、あの子は不器用でそこまで細かいことができないの。ちょっとだけ力を使おうとすれば氷を作ってしまうし、ちょうどいい冷気にすればしばらく止められないし。
ただの水じゃない生きている人の熱を冷まそうとするのはすごい力を使うのよ。もっとうまくできるようになるまで、自分の体があぶないからするなと言われていたのに。それを、へろへろになるまで、カムイ様にしてしまったのね……」
言ってからフローラは失言をしてしまったかとどきどきした。すべきではなかったというようなことを言ってしまった。
暗夜では、王子に万が一のことがあったら、上の者の機嫌しだいでは看病していたフェリシアに責任がかぶせられてもおかしくない。逆にフェリシア一人が生死の境をさ迷ったところで、氷の部族は何も文句を言うことができない。だから、フェリシアが結果的にカムイの熱を落ち着かせたことは、喜んでみせるべきことなのだ……。
「……おれが、できたなら、してさしあげたかった」
心配をよそにジョーカーは揺れる小さな声でつぶやいた。意外な言葉にフローラは驚いた。
「何を言ってるの? 死んでたかもしれないのよ」
「あんな、役立たずでもカムイ様のために命を使えるのに……くそっ……」
ジョーカーは毛布をかぶって顔を隠した。フローラはジョーカーが何を言っているのかよくわからなかった。
ジョーカーがカムイだけに尻尾を振りカムイを守ることに必死なのは、王子に気に入られる以外に行き場がないからだと思っていた。誰よりも尽くそうとするのは誰よりもひいきされるためなのだと。なのに、そのために死んだら意味がない。
「……死んで、どうするのよ。役立たずじゃないわ」
フェリシアにもジョーカーにも苛立って、フローラは毛布のかたまりに怒りをぶつけた。毛布はせきこむように動いた。
「おまえはりっぱな姉だな。そうやって妹をしっかりかばって」
返す言葉をなくしたフローラにジョーカーはごろりと背を向けた。
「帰れ。寝る。明日はカムイ様にお会いできるだろうからな。それまでに治す」
「……ええ。おやすみなさい」
「世話かけたな」
初めて礼を言われた。優しい声ではなかったが、カムイに会う明日のために眠り、それを助けてくれたことに感謝するのだという、主のことしか見ていない調子に、そういう人なのだと腑に落ちるような気がした。

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