明くる朝にはカムイは起き上がって元気に話せるようになっていた。ジョーカーも何事もなかったように朝食を運んできて、すっかり普段通りにフローラを遮るようにかいがいしくカムイにコンソメを飲ませた。
「フェリシアは?」
「カムイ様を看病していたので、今は安心して休んでいますよ」
「そうなんだね……。ありがとうって伝えて。ねえジョーカー、お見舞いにいったらだめ?」
「だめです。カムイ様もまだ本調子じゃないんですから。今日は食べて、あたたかくしていてください。あとで本をお読みしましょうね」
フローラは、ジョーカーがフェリシアのしたことや状態をカムイに言うのではないかと心配したが、ジョーカーはおれがずっといっしょにいますから、と言わんばかりに熱烈な視線で寄り添っているばかりでそれどころではなさそうだった。
眩しげで、心から幸せそうな顔だった。新婚の夫婦が相手をいつくしむように。あなたはその人と結婚はできないのよ、と当たり前のことを思ってから、でもそれは、自分とフェリシアや、家族と同じことかとも思った。
カムイが早めに寝ついてから、ジョーカーは今日もギュンターに特訓をつけられに行ったようだった。
夜にはフェリシアも口だけは元気になり、部屋で寝つくまでおしゃべりをした。心配ばかりかけてしょうがない妹だと思ったけれども、無事でいてくれて本当によかった。一人になってしまわないで、よかった、と思った。
フェリシアが眠ってから、フローラは手持ち燭台を持って部屋を出た。
フェリシアが無事でよかった。たった一人の妹、もう一人の自分に、いつまでも元気でいてほしい。何者にも傷つけられないでいてほしい。私が守る。そうやって私は強くなりたい。
だから、逃げずに、あの足音の出どころを確かめよう。
ジョーカーの部屋は覚えた。あの角のわりと近くだ。ジョーカーになら、もういいかげん言いたいことを言っているし、主以外は眼中にないのもわかったし、気を遣わずに助けを求められる。いざとなれば乗り込めばいい。ノックなんかしなくていいのだし。
フローラは例の足音が聞こえる角へ向かった。
すた、すたすた。すたすたすた……。
「来たわね……」
真夜中の廊下の角からはやはり、動いているはずなのに近付きも遠ざかりもしない足音が聞こえてきていた。慣れもあってかあまり怖いとは感じなかった。もし亡霊であったら、そのときは逃げてフェリシアに言えばいい。とにかくあの角のむこうを確かめるのだ。
フローラは廊下の角まで来た。角自体には、何もなかった。角を曲がる左側から足音は聞こえた。近い。柱の影になって見えない方向の、もし足音の主が目に映るモノならばすぐ見えるだろう。燭台を慎重に廊下の端に置いた。
思い切って柱から顔を出すと、すぐに動くものが目に入った。わずかな月明かりに白っぽく光り、ひるがえる……、
「……!」
角を曲がったすぐ先の階段の下に光るのは、長さのそろった銀色の髪だった。
誰もいない暗い広間でジョーカーは踊っていた。ターンするたびに銀髪がまるく広がって見える。ワルツだ。足音は、三拍子だったのだ。
真剣な動きと表情にフローラはしばし見入った。見入るうちにその奇妙さに気付いた。フローラとフェリシアは城砦に預けられる前に、暗夜式の社交ダンスの基本のステップを教わった。フェリシアはもう忘れているだろうが。ジョーカーが踊っているのは女性の動きだ。しかもその構えと、視線……。
「……カムイ様だわ……」
低い構えと、何よりジョーカーの視線の中に、カムイの小さな体が見える気がした。仮想のカムイに教えるようにジョーカーはステップを踏み続けた。相手の支えのないダンスは筋力を使うのだろう、白い肌は汗に濡れていた。
本来の役に立たない、他のどこでも使えない、ただカムイに教えるためだけの、ダンスだった。年下の子供相手に、女役を。踊るほどに、彼が自分のために費やすはずだった時間が彼の体を変え、主に縛りつけて、どこへも行けなくしていくようで、いびつで恐ろしい光景に見えた。
どうして、自分から奴隷になるようなことをするのだろう。自分の運命を自分のものだと言いたくても、できない人がこの世にはたくさんいるというのに。父だって、きっとギュンターだってそうなのに。くやしい、ずるい、とフローラは思った。
ステップがひと段落し、ジョーカーはいないカムイに向けて礼をとった。そして窓からさす月の光を、宙を見上げる横顔を、そのきらきらと光る紫の目を見て、フローラは気がついた。
この人は、自由なんだ。
この人は自由なのだ、私は、私は不自由なんだ、私はこの人に嫉妬しているんだ。
お父様にならいたい、一族の皆や、何よりフェリシアを守ってやりたいと思うことと、ジョーカーがカムイを守ることは似ているのかもしれないとフローラは思っていた。そうやって自分を支えているのだと。
誰かを支えて立っている誇りがあれば、凛としていられる。フローラはそうやって生きてきた。恥ずかしいことだけれど、損をしていると思う気持ちもあった。でもこれが私の持った役割で、フェリシアがそばにいるなら、もうひとりの私が笑っていてくれるなら、この役割を愛していけるだろうと思っていた。けれど、彼の見ている世界は、それだけではなかったのだ。
彼の目にはきっと神様が見えている。踊り終わって主が微笑むとき、すべての光が満ちる、申し分のない景色が見えている。オーロラを見た人のような顔をしていると思った。自分で選んだ美しい光。それが視界いっぱいに広がって。どこまでも自由の空だ。
「スピンのときの左足の踏みが弱いわ」
もう一度反復しようとしていたジョーカーは驚いて声の方をにらんだ。燭台を持ったフローラがつかつかと階段を下ってくる。顔をしかめてそっぽを向いた。
「……仕方ねえだろ、踏み出したら引く手がなくてこける」
「上からつっこみすぎてるのよ。……どうして女のステップを練習してるの?」
「もうすぐカムイ様が社交ダンスを学ぶお年ごろだからだ」
考えた通りの答えだった。私たちにカムイ様の相手をとられないように焦ったんでしょう……とは言わないでおいた。
「変な人ね。女のステップなんて他では役に立たないのに、そんなにいっしょうけんめい練習して」
「俺は他の奴と踊る予定はねえ。これが俺に必要なステップだ。……おい、他になんか気付いたとこあったら教えろ。どうせおまえはうまいんだろ」
ジョーカーにしては殊勝な言葉に、フローラは少し考えて、はい、と手を出した。
「なんだ」
「私も練習するわ。思い出さなきゃ」
「男のステップをか? 役に立たないんじゃなかったのか」
「でも、私に必要なステップだわ。フェリシアに教えてあげたいのよ」
ジョーカーは自分の言った言葉を真似されたことに面食らってまじまじとフローラを見て、ほんの少しだけ笑った。そしてフローラの差し出した手に淑女のように手を預けてポジションを組んだ。自分より明らかに小さい手と背丈を確かめて、今度ははっきりと口の端を上げる。
「うん、いいな。ちょうどカムイ様と同じくらいだ。スカートとズボン交換するか?」
「……それはさすがにイヤだわ……」
「冗談だ」
フローラはふっと笑ってステップをリードした。フェリシアの代わりにしては大きいが、まあ、あの子は何をやらかすかわからない、変則は望むところだ。
あべこべの二人は役に立たないステップを踏んだ。いまは夢の中の、それぞれの大事な人のために。

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