ジョーカーは両手に盆を持って危なげなく石畳を歩いていた。離宮とロウラン旧王城を結ぶ渡り廊下は白い石と真新しい木材の明るい色合いによって整備されている。庭はまだ庭師を呼んで本格的に整えてはいないが、もともと城を賑わせていたのであろう、大ぶりの緑や花々が、上がったばかりの雨のしずくをしたたらせていた。
ジョーカーの髪と肩も濡れていたが、この気候ならばじきに乾くであろう。濡れ髪が乾くとき癖がつかぬようまっすぐに流し落としていた。少々だらしないかっこうではあるが、このところは服もゆったりとしているからさして問題はない。
透魔王国は雨の季節を迎えていた。緑と水豊かなこの国の、命の季節だ。それまでの時期にはオアシス以外やや乾いていた粘土質の土に、一日に数度ぬるく激しい雨が通り過ぎる。ジョーカーの片手の大きな木製の盆にも、濡れそぼった大輪の鳳仙花の花がこんもりと盛られている。下働きの者が摘んだそれは赤、黄、白、桃色のとりどりの色だ。ジョーカーはその緑の香りのする花々と、もう片手に茶器の盆を旧城へ運んでいた。
「あら、ジョーカー。雨に降られたの?」
旧城の書庫ではアクアが作業机いっぱいに文献を広げていた。アクアの服もいつもよりもさらに薄く透ける紗を多く使っている。差し出された花盛りの盆を受け取ってありがとうと言うと、書庫の奥に向かってカムイ、と声をかける。少し遠くから、はーい、と少年王の声が響いてくる。主の声にジョーカーは気持ちがなごむ。
「あ、ジョーカー。大丈夫? 濡れてる。さっき雷の音がしたものね」
「お見苦しくて申し訳ありません。もうほとんど乾きましたし、この暑さでは風邪などひきませんからご心配に及びませんよ」
「あっ、花だ」
「これだけあればとりあえず予行の花輪には十分かしら」
「まだいくらも咲いていましたので、指示をいただければ摘ませましょう。お二人とも休憩なさいませ」
ジョーカーはアクアが作業しているのとは別に机を整え茶器を並べた。青い玻璃の杯に注ぐのは、地下水で冷やした甘くさわやかな香りの花茶だ。
戦いが終わり、竜の亡骸と豊かな竜脈の力を使って王城の簡易な修繕と生活用の離宮を整えてから、数か月が経っていた。カムイは国土を積極的に見て回り、ジョーカーは階下の者をまとめついでに相変わらずフェリシアを指導し、スズカゼは健脚と透魔の野生の鷹を馴らしたもので同盟国との連絡を司り、そしてアクアは、透魔のもとあった文化をひもといていた。透魔はことに薬や茶になる香草の種類が多く、ジョーカーには嬉しいことだった。
ハイドラは知恵を司る竜であったという、ところどころ無惨に破壊されていた城の中でも文献や資料はほとんど無事だった。アクアは母から伝え聞くばかりだった故郷の文明が現実に確かにあったことを喜び、どことなく厭世的であった彼女からは見違えるように精力的にそれを学びだした。故郷なるものにあこがれを持つカムイも、カムイがこれから民をもち国を治めるには王国の典礼や白夜とも暗夜とも違った文化があったほうがよいと考えていたジョーカーもそれに賛同した。
今アクアとカムイは透魔の新年の祭について調べ準備を進めていた。光の大祭と称されていたその祭は、この雨の季節の終わるころに行われた一年のうちで一番大きな祭であったらしい。
国の大祭を主宰するのは、王の重要な役割であり、場合によっては王権の神聖さそのものといってもいい。本来なら典礼を伝えている神官が王を導くところだが、頼りは文献しかない。まだ移民政策を進める前の今のうちから試みたほうがよいだろう。こうして、はじめて催す国らしい行事にみな活気づいていた。
「ジョーカー、この前のビーズ刺繍なのだけれども」
茶の杯を傾け、冷たい水を絞った手巾を頬につけて涼をとりながらアクアは言った。ジョーカーはカムイのしっとりと汗ばんだ額や首筋をかいがいしくふいてやりながら振り向く。
「はい。お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。思っていた通りだったわ。ありがとう。きっとお母さまのドレスももとはあんなふうだったんでしょうね。悪いのだけれど、あれを白い絹にもしてくれるかしら」
アクアの母、シェンメイ王妃のものとみられる祭典衣装も城には残されていた。いかんせん十数年もうち捨てられていたもので、そのまま使うことはできなさそうだったので、ジョーカーが針子を主導して似せたドレスを仕立て直した。ことに、金や鉱石ビーズの刺繍が全面にほどこされていたのは、ジョーカーがひとつひとつ縫いつけ直した。その前にも透魔風のカムイの平服を縫っており、ジョーカーは透魔の装いのつくりを大まかに把握することができていた。
ジョーカーはにっこりと笑って請け負った。
「はい、たやすいことです。どのようなかたちの衣装か、資料はありますか?」
「衣装のかたちというよりは布ね。これはあなたの着るものになると思うのだけど」
「ジョーカーの?」
「えっ?」
本人より早く反応してカムイは顔を輝かせた。自らの暮らしむきには無頓着な、大好きな執事を飾ってやりたくてしょうがないのだろう。しかし執事本人はというと、体の線を美しく見せる透魔の型の白い典礼衣装を身につけた主を想像してうっとりするところだったのに、無粋な、と言わんばかりの顔をした。
「どんなのなんだい? アクア。装飾品はつける? 金でも銀でもいいのかな?」
「そうね。どちらでもかまわないと思うけれど、ここには銀と書いてあるからジョーカーにはちょうどいいわね」
「あ、アクア様……! 私は何者でもない使用人でございます。おそばを飾るならフェリシアのほうがまだ」
「でもこれは王の小姓の典礼服なのよ」
「小姓という歳では……。とうが立ちすぎていますよ」
「ああ、白夜や暗夜の小姓とは、少し違うの……。少年から生涯を通して仕えることが多いみたいだし、……王の神聖に仕える神官みたいな仕事でもあるって言ったらいいのかしら……」
……神聖な王に仕える神官!
生涯を通して王に仕える神官である小姓!
「ジョーカー? 嫌かな……?」
黙ったジョーカーを断れず困っていると思ったのか、カムイは手を握って見上げてきた。ジョーカーは焦った脈が速いのに気付かれてしまうかもしれない。アクアの言葉の中のあまりの魅惑的な語に大興奮していたのだ。
あわててアクアに頭を下げた。
「やります。着ます。謹んで務めさせていただきます」
「やった」
「……? 神官に興味があったの? まあ、この国に神官にあたる人がいるなら間違いなくジョーカーだけれども」
「な、そ、そのような」
ジョーカーは自分の淫靡な妄想内容がアクアに伝わってしまったのではないかと狼狽した。アクアとカムイは主に関しては何かと大げさな執事がまた何か考えてくらくらきているのだと思い、顔を見合わせてジョーカーは杖サクラよりうまく使うもんね、たぶんお母さまにもビフレストは使えないわ、と話し合った。

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