ふと目を覚ましたのは鼻をすする音でだった。
丸くなって転がっていたソファから見える視界の正面で、部屋の主もローテーブルごしのソファに仰向けになって寝ていた。
飲んでて二人とも寝落ちしちゃってたか、明かりも落とさず。
なんでそんなちっちゃな音で起きたんだろ、とかぼんやり思っているとソーンズが寝ながらまたちいさく鼻をすすった。違和感のある少しねばついた音だった。んっと思って眠る横顔を見てると、唇のあいだからちらっと舌が出た。
——いつもと違う赤さだった。舌はそりゃあ赤いのだけど。いつも喋るとき口の中なんて見てないはずなんだけど。
「えっ、ブラザー、……んん! なんか血が出てる……じゃないか!」
飛び起きた。深酒からの寝落ちで荒れた喉をものともしないで僕の声はすぐ通るようになった。
ソーンズは血の味だと確かめてるのかちょっと舌を動かしながら、目を開けて眼球だけでこっちを見た。
「起きてたの。それは眠い目だよね? 介抱しようとする僕に嫌そうな目ではないよね」
「うるさい。粘膜が切れただけだ。乾燥で……」
寝転がったまま、手の甲で鼻をぬぐってちょっと見ている。どうやら鼻血が出たみたいだったけど、彼の頭蓋骨と首もとからの響きが……変な感じがした。
「えええ? それだけ? カンだけどなんか血圧おかしいでしょ君。酔っぱらったってそうはならないよ。医療部に」
「いい。なんなのかはわかっている。そのうち止まるし出るだけ出ればいい」
少しこもった声はいやにイライラしていた。おかしいことは否定しなかった。なんなのかわかっているってことは「何か」ではあって、ある程度慣れてるってこと。持病があるなんて聞いたことなかった。
「こうなるのは初めてじゃないってこと? 対処はわかってるの」
対処か、と返事をするように一拍あってソーンズはこっちを向いて横臥位になった。
血の赤が抵抗なく鼻からつたっていって、耳元に向かって……。血は放っておいたら髪もソファクロスもひたすくらいのペースで流れ出てるような気がした。どうするのかと思ってたら、——それでまた「寝」の呼吸に。
「ちょーっとちょっとちょっと、そんな酔いつぶれたとき寝ゲロ死しないようにみたいな……対処に入んないよ! しかもまた寝る気? ソファの防汚クロスだって泣いてるよ」
意を決して、……すばやく距離をつめてソーンズの体を抱えて縦に座らせて首を下向かせて! 肩を抱くかたちでその姿勢をホールドした。寝起きのイライラ状態じゃなかったら成功しなかっただろうから、嫌がられて取っ組み合いになっちゃう前に速戦即決でね。
首が熱くて、こわばっていた。腕から脈の乱れも感じた。やっぱり血圧ヘンなんだ。
「おい、何してる。離れろ。汚れる」
「やだよ。だって君、このほうがラクそうだもの」
考えるより口が先に出ちゃったような気もするけど、実際腕の下でソーンズの不穏な脈は徐々にマシになっていくようだった。髪のすき間から睨み上げてきていた顔は、そうなのか? みたいな表情になった。「妄言だな」って切って捨てずにおとなしくしてくれる程度には信頼されていてよかった。
鼻血の対処姿勢をとらせるのが優先で拭くことは考えてなかったから、うつむいた顔からぼた……ぼた……と血が落ちてソーンズの部屋着を染めていった。ティッシュも遠いし今更遅いや。まあいいか、布を守りたかったわけじゃないし。
ぼた、ぼた……。
変な脈と、首もとの硬さがおさまっていく。
もう少し血は止まらないみたいだったけど、僕もほっとできて、イライラの気配が薄れてく肩に頬をのせて大きく息を吸って吐いた。
「病気とかじゃないんだね?」
「ああ。たかが鼻血で何を騒いでる」
「わかったよ。ブラザーは丈夫で計算も完璧だね」
まだ謎のイライラが残る声の中にも僕への「落ち着け」って気持ちが感じ取れたからよしとした。いまいち「たかが鼻血」には思えなかったし謎は残るけども、ソーンズはいつものいいやつだ。
「んもう」
もう片方の腕を前からまわして、肩を抱いてた腕と合わせてぎゅっとつかまえてソーンズを持ち上げながら立った。肩に担ぎ上げる。
「おい……、なんなんだ……」
「なんだか冷や汗かいちゃった。大丈夫ならついでに君ごと服洗っちゃうよ。そりゃ君はいつもなんか薬こぼしたり焦げたりしてるけどさ、普段着の柔らかい布につくと血って落ちにくいんだから。このままじゃすさまじい私闘して僕が君をボコボコにしたんだと思われちゃうでしょ?」
「それは無理だな」
かついでるから顔は見えないけど、声と抱えてる腹筋の動きからちょっと笑ったのがわかった。
「まだちょっと下向いてたほうがいいから。このへん手ついてて。勝手に洗うし」
レインシャワーを出して、僕だけ服をぽいぽい脱いじゃってから、ソーンズと服を濡らした。ソーンズはおとなしく言うとおりに僕の肩に片手でつかまって下を向いてくれていた。とり急ぎ着たままでぬるい水を含ませてそっと絞ると、やわらかい生地からは薄赤い水がとぽとぽ潤沢に染み出した。ソーンズ自体からも薄まった血が落ちてバスルームの白い足元をひたした。
やっと落ちる水に色がつかなくなって一安心して脱がせたとき、めちゃくちゃしかめられている顔が目に入った。
「ずっとそんなシワシワの顔してたの? ……着衣シャワーがお行儀悪くて嫌みたいなこと言う君じゃないし、僕の肉体美に嫉妬してるわけでもなさそうだね。……あっ、目元ぎゅっとしててまず見てない感じ? 見ていいのに……。それってどういう感情の顔?」
伏せたまつげが揺れた。そこで我に返ったようにうすく目を開けたみたいだった。少しして、ぼそりと言った。
「…………殺す……という……」
「物騒。鼻血は殺せないでしょー」
「だからむかついているんだ」
ソーンズは珍しく吐き捨てた。目に見えて他人に敵意を出すことってあまりない奴だけど、実験機器のご機嫌が悪くてうまく対処できないときとかみたいな……。
実験機器のご機嫌ななめと自分の反省点について話す調子で、ソーンズは話した。
「時折こういうことがある。急性の塩分過剰というわけではないのに血圧が変動したようになって出血するときもある。アルコールのせいというのでもない。吐き気がするような塩辛さを覚えるが、検査の結果どおりの血液ならそんな味のはずがない。あれはイベリアから出たからと見逃してくれるつもりはないらしい。それともあれは俺のことを探してなどいないのに、俺が思い出しにいってしまっているのかもしれないが」
どきっとした。
「『あれ』って、」
声が小さくなる。つい周りを気にしちゃう。僕らしくもない。ソーンズの部屋のバスルームなんだから誰も――裁判所のひとなんているわけなさすぎるのに。
「海……のこと?」
「まあ、そうだな」
「僕は海をそこまでよく知らないと思うからな……。故郷の潮の香りっていうのはあるけど」
「俺もよく知っているとはいえない。海生まれではないからな。教会で教わった海も審問官たちが排斥した海も真実ではないと思うが、確かめにのこのこと近付こうとは思わない。俺は俺で海は海だ。当然ながらな。だというのにこの血は海が故郷だと……。……腹立たしい」
洗われながらずっとソーンズは眉をしかめていた。
それで「殺す」かあ。
理路としてはつながっていないし、わからないけれどもなんとなく直感できた気がした。それはたとえば、子供が狂おしく好きな人への想いのやり場を知らなくて胸をかきむしるみたいな気持ちに似ていると思った。
ソーンズって一人でなんでもやって完結しちゃうからそういう変人だと思われてるけど、それだけじゃなくて独立心が強くて頑固な……「殻」を感じることがある。別に周りが嫌で壁を立てて拒絶してるっていうのじゃなくて。
単純に「水が浸みないようにしてる」みたいな? こんなお互い裸でびしょびしょで洗われてても調子変わらなくて、距離感が変なのを笑っちゃったりもしないもんね。だから気まずくもなくこんな大雑把なことできて、僕としては面白いとこ好きなとこなんだけど。イベリアの海が海岸線を侵食してくる、海の怪物が人の心身を変えてしまう、そういう危機感が身についてるんだろうか?
海の水は血と近い……っていうし、血が体の「殻」の境界線に出てきて海へ戻ろうとするようなとき、思い出したみたいにムカムカするってことなのかな。それこそ思春期に恋に悩むときみたいに、自分の中から悩みのもとがいっそいなくなってくれたら……と思ってダバダバのまま放っておいてたのかもしれない。
でももしも血がすっかり抜けて殻だけになってしまったら死んじゃうんだし、その夢想はナンセンスだ、ブラザーはそれを望んでいないだろう。僕もそんなの嫌だし。
血が止まるのを感じたのか、ソーンズは肩回りをぐぐぐとストレッチして首を動かしたそうにした。
「くだらないことを話した。もういいか」
「まあまあ、もうちょっとダラダラしてててよ。半寝でいいからさ。くだらないこと話すのが僕とブラザーの仲でしょ?」
「髪で遊んでいるだろう」
「ばれてたか~」
ついた血を洗うついでに頭をマッサージして、傷んだ髪を泡でいろんな形にしてるところだった。ソーンズの頭蓋骨はまるい。これから僕があげたまま使われてないかわいそうなトリートメントさんをしっかり施してあげるんだから。
遊んでいたシャンプーを流しても、ソーンズは僕の要望に付き合ってダラダラしていてくれた。首をのばして目を閉じた顔にもう流血の気配はなくて、安らかそうに見えた。一応起きているときにこんな顔を見るのは不思議な感じだったけど、なんだか気難しい雲獣のお手入れをさせていただくのに成功したみたいで嬉しかった。
背後にまわってトリートメントをなじませながら思いつくまま喋った。
「あんまり流れるにまかせないほうがいいよ。大事な血なんだから。出ちゃったものはしょうがないけどなにかしら対処してよね。君はすごく傷の治り早いけど、自己治癒だって投げやりでいるより僕のように前向きなイメージが大切だってガヴィルも言ってたからね」
「ガヴィルがそんなことを言うか?」
「大意そんなようなことは言ったよ! 僕が褒められるということはつまりセルフケアだよ、ブラザー。
……いや、セルフケアって君には響きにくい言葉筆頭か。こういうのはどう? 探求のひらめきはいつも汝自身の中にある……己を磨き心をととのえて問い続け真を求めるのだ……」
「なんの話だ」
ちょっとウケた。顔を見てやりたくって、流す前にトリートメントのついた手でこっそりソーンズの目の前の鏡の曇りを拭いた。
「って、極東出身の人が武道だか寺院だかの教えで言ってたよ! なんの話って自分の心身を気にする心構えは君の研究のためでもあるって話じゃない。しかし面白いよね。極東の寺院も宗教施設なわけでしょう? 教会とはだいぶ違うものだね。まあ僕は経典とか真面目に覚えてないから比較できないけど」
黙っていたけれど、鏡に映るソーンズのほぼ寝顔は穏やかな色をおびたように見えた。何か、懐かしいことを思い返してるみたいな顔なのかな。彼がいた教会ではまた別の教え方だったのかな? もしかしたら極東の教えと似てたところがあってそれを思い出してるのかもしれなかった。
シャワーを止めて、せっかくいい感じにした髪だけは念入りにタオルドライして最後にタオルごしに肩をキュッとつかんでやった。
「はいおしまい。君の髪って手入れしがいがあって楽しいね。今日はざっと洗っただけだけど肌もやりがいありそうだな。自分で自分の世話を焼くのが面倒なら僕に焼かせてくれてもいいよん。今度焦げソーンズになったとき予定合ったら磨かせてよ!」
「考えておこう」
案外検討してくれた。やったね。ブラザーってばいつも自分のことかまわなすぎてこっちがムズムズしちゃうんだもん。
ソーンズは体を拭きながら、応急処置的に洗ってそのあたりに掛けておいたびしょ濡れ服をみつけて、一瞬何か考えるような気配をみせた。状態によってはまた着ようとしてたな。無理だから。
「これは絞っておけばいいか?」
「ほんとに絞るだけのつもりだね? 脱水したら明日ランドリーに出すまでの間もパンパンってしてハンガーにかけとかないとシワになる……もー! やるからやるから! 置いといて新しいの着て! ねえ~今日このままソファで寝てっていい?」
「好きにしろ」
僕が自分の手入れにとりかかってるうちに、ソーンズは体の拭き方もいい加減に新しい部屋着を着て、案の定ドライヤーもかけずに出ていったみたいでやがてそのまま音は静まった。そんなんだから肌も乾燥するし寝グセ一直線なんだよ。
シャワールームから戻ってみると、僕のためにつけておいてくれた明かりにも僕のドライヤーの音にも負けずソーンズはすっかり寝息をたてていた。……少しの、あったかい湿り気のある深い息の音。血のからむ音はしなかった。
常夜灯だけに落とした暗さのなかで、しばらくそのリラックスした息を聞いてたくて気配を消すみたいに自分の息をひそめていた。
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