デルカダール城下町、スラム地区にほど近い暗い通りに、突然に瀟洒な迎賓ホテルのようなその建物はあった。
よく見れば壁の装飾、カーテンの布などはそう上質なつくりではないのがわかる。それにしても裏通りのカビじみた煉瓦造りの中では、バカンスに訪れるソルティコのリゾートホテルのように非日常のときめきを覚えさせる色であった。
城のほうから歩いて来た騎士風の青年が、貫頭衣(チュニック)のよれを直しながらその通りへ入る。カンテラの灯りで周囲の家々を検分するように見回し、夜更けのスラム周辺の治安を見回りに来たかに見える。しかし色の違う建物の前へ着くとやおら素早い動きで、扉に飛び込んで閉めた。
「いらっしゃいませ」
扉の中は赤や紫の花の色に満たされた空間で、高級宿のロビーというにはあまりに狭かった。なにせそういった館にあるはずの、待合や社交のためのテーブルが用意されていない。あるのは受付、奥への扉がふたつ、案内のボーイだけ。奥の部屋からは人が騒ぐ声、コインの擦れる派手な音がかすかに聞こえてくる。防音の行き届いたつくりなのだ。
「本日は、一階と二階、お先にどちらのご利用でしょうか」
「二階に」
ボーイが青年に布でできた仮面を素早く被せ、頭の後ろできゅっと結んでくる。青年が受付に署名をして金を渡すと、受付嬢は別の台帳をめくり、ボーイにむかって微笑んで頷く。
「予約のお客様ですね。オランピアがお待ちしております。どうぞ二階へ」
奥への扉のひとつには廊下が続いていた。廊下の右手には部屋ではなく、通常の住居では考えられない数の階段が一定の間隔で据え付けられている。どれも上へと上がっていくはずなのに、冒険者を呑み込む洞穴のような魅惑的な暗がりであった。その中の一番つきあたりの階段まで案内される。青年は受け取った灯りをかたかたいわせながら階段を上る。
二階の扉には『左手のソファにかけてお待ちください』と札が掛けてあった。扉を開けると、小さな応接室のような部屋になっている。さらに奥と右手への扉があり、ソファに腰かけた青年はそれをちらりと見て唾を呑み込む。
「お待ちしておりました」
青年は飛びあがった。声に遅れて、奥の扉から白くたっぷりとした薄布が見えた。赤紫や黒の調度品の中でそれは光がこぼれ出るようで、その光が優雅に地平から現れてくるのをまばたきもせず青年は見つめた。
「オランピアでございます……」
一礼した女は顔を上げて青年を見た。美女であった。立っているだけで高貴の人であることがわかる。みごとに長い黄金の髪が首を傾げるだけで踊るように流れ、肌は血の紅色がさしているだけ白い衣よりなお白かった。声は熟れた果汁に蜂蜜を溶かし、そのくせ強い酒を混ぜたよう。しかし白のドレスは胸元が大きく開き、何より幾重にも重なった薄手の裾から脚のかたちが透けていて、貴婦人が他人に会うにははしたなさすぎる姿であることは明らかだった。
「あっ、きっ、今夜は、会ってくださってありがとう」
「ふふ。どうか緊張なさらないで。お茶をご用意していますのよ」
立ち上がって礼をしたままなぜか握手を求めてしまった青年の手を上から包んで座らせ、オランピアは戸棚からティーカップを出す。
隣に座った状態で紅茶を注ぐと白い胸元が見える。当たり障りのない話をしながらたびたびそれに目を奪われていると、話が途切れたとき、やわらかな手が腕にぴとりと触れた。
「鍛えていらっしゃいますの? 素敵な腕ですわ」
「あ、ああ、城で騎士をしていて……配属は」
「おっしゃらないで……」
指が青年の唇に当てられた。はっと青年が黙るのを確認してから、オランピアの指が下へ下へと体をたどる。その間もずっと瞳をとらえられている。けぶるような切れ長の目は官能的だ。
「脚も、素敵」
期待していたところを通り過ぎられた青年は太腿に手を当てられて熱い溜息をついた。
「君の脚のほうが……」
オランピアの琥珀色の瞳がきらりと光る。思わずうまそうな脚に手をのばした青年は彼女の噂を思い出し、触れると雷撃に襲われる宝珠を前にしたように寸止めに止まる。
店は騎士や市井の資産家に人気の、カジノと娼館の複合施設であった。社交界で他人の夫や妻、高級娼婦と戯れる貴族のようには公然と遊ぶことができない客層のために、仮面を用いて名目上身元を伏せることになっている。その二階の娼館に、ここ最近話題の一番人気の娼妓(おんな)がいた。
女ざかりで、姿と振る舞いは美しく、どのような分野の話題にも応じ、たいそう品がよい貞淑な貴婦人のように見える。だというのに寂しさと妖艶な誘いが匂うようで、肌を合わせれば淫らに花ひらき、夢のような一夜を過ごせるのだという。
その女は、客を選ぶ。高級な娼妓ならよくあることだが、その基準というものがひそかに噂になっていた。大貴族がお忍びで通ってきても顔も見ずに突っぱねただとか、通人で高名な商人が訪ねたときは経済学の話題にまで女がついてきたのでついつい話が深まり、いつの間にか店の事情をあらいざらい話したうえに議論に負けて放り出されただとか。結果、推論はこう落ち着いた。
オランピアは強い男しか相手にしない、と。
「……どうされました?」
青年が止まっているとオランピアは自らその手を腿の上に導いた。青年は柔らかな感触と、次いで強さを認められた誇らしさに酔う。すっかり興奮して耳まで赤くしている青年にオランピアは針を刺すように言う。
「怖気づかれたの?」
「まさか! 君の聡明な目が尊敬する方に似ていたから、見とれていただけさ」
図星だったが、せっかくの評価を覆されてはたまらないとしっかりした声を出してみせる。オランピアは高らかに笑い、猫のように青年にしなだれかかった。
「よかった。今夜はこの目をたくさん見ていてくださいましね」
ひとつの扉は身を清める洗い場、もうひとつは閨(ねや)への扉だった。柔らかな白い体を絡ませて全身に石鹸の泡を塗り付けられ、下から見上げられて陰茎をぬるぬると包み洗われて青年は一度欲望を吐き出した。琥珀の瞳にとらえられるとなぜか恥も外聞もなく感じ入ってしまい、いつもは出ないような声が出た。
これが夢のような一夜を与えてくれるという力なのか、と射精後にあわてて冷静に戻っていこうとする気持ちも、舌で受け止めたさまをゆっくりと見せつけてうまそうに飲み下す美しい顔を見るとどうでもよくなってしまう。洗い終わった体をあたたかく拭かれたころには、またむくむくと立ち上がってきていた。
「またこんなに元気にしてくださって、ご立派ですわ」
男を仰向けに寝かせて重力に逆らう肉棒を眺めながら、全裸のオランピアは洗っている間まとめていた髪をほどいた。尻よりも下まで長い金髪の先が、真紅のシーツや青年の体に落ちる。湯で少し火照った白い体には乳首と陰部だけが薔薇色に近く色づき、金色の包みを破った柔らかい菓子か果実のようだ。
「わたくしの中に入りたいですか?」
オランピアは胸の上に馬乗りになって、見下ろしながら陰部を徐々に開帳してみせた。濃い薔薇色のぷりぷりとした裂け目からは太腿までもてらてらと光らせる期待の蜜がしたたっていて、そこを片側の胸に擦りつけられる。青年は自分の乳首の痺れるような感覚に驚いておおおと声を出す。絶え絶えに入りたいと答えるとオランピアは狩りの勝利を確信した獣のような顔で笑う。
「たくさん出してくださいますか? でないと……」
「出す、たくさん出すから、どうか」
「何回いただけるのかしら……」
「に、二回する。早く……」
「あら、たった二回なの? 案外情けないのね」
「何回でも、欲しいだけいいからっ、好きにしてくれ」
オランピアはいよいよ楽しそうに、笑いながら張りつめたものを股にあてがう。強い力で男をベッドに縫い留め、笑ったままずぶずぶとはめ込んで腰を落としていく。
「はっ、アハハハハ! あっ、はあ、はっ、はッ、あァ、はっああ――」
まだ途中で精が放たれるのを、じゅぶりと押し込む熱さをオランピアは愉しんだ。
今夜はじつに楽な仕事だったな、と身を清めながらオランピアは思った。花のようであったかんばせは、傲慢に細められた目と賢さゆえの険が運命づけられたような眉、機嫌悪げに結ばれた口元の表情によって老練な男のように見える。たっぷりと搾り取った精液が下のふたつの孔(あな)から全く溢れてくる様子がないのを確認して、オランピア――デルカダールの軍師にして将軍ホメロスは本来の体に戻る。
この『夜の仕事』を始めたのは彼が彼の新しい王に仕えてまだ間もない頃だった。王はこの世にありうるすべての知識をもち、ホメロスの力を引き出してくれた。しかしそれでも憎い男に届くにははるか遠く思え、ホメロスは王にさらに方法を乞うた。
エナジードレイン。精を集めるという方法がある、と王は渋々授けてくれた。全身のすべてから強者の精力を吸いつける女の体に秘術で一時変化し、その強さを我がものとして取り入れるのだと。ホメロスの新しい王、ウルノーガは苦労して引き抜いた掌中の珠の幹部候補にいきなりセクハラな研修などさせたくはなかったらしく、歯切れ悪く『これをサキュバスモードというのだ……』などとモゴモゴ言っていたが、ホメロスは表の王国に知られないのならば商売女の真似事をするくらいのことはなんでもなかった。
いざやってみれば、実際ホメロスの女としての価値はとても高いらしかった。女性の作法くらいは大半の女性よりずっと知っていたし、ホメロスは持ち前の完璧主義で男に好まれるしぐさや技の研究を真面目にやった。何より、これは自分ではないのだと思えばいくらでもたおやかな演技が、愚かな男たちへの憐れみができた。
精を吸い取れば連日連夜の仕事の疲れなど失せてしまい、本物のホメロスの容貌を曇らせているもの、焦燥や驕慢や苦悩をもつ必要のないその女の顔はマイナス八歳といったところだった。あれよという間に最も高価な女のひとりとして扱われるようになったことで、何やら得意に思う気持ちもあった。
私は、美しい。その気になれば多くの男女が魅了されるのだ。見るがいい。
褒め称えられ、男たちの棒を屈服させるたびに憎い男への溜飲が下がる気がした。
そのうちこの行為はウルノーガ(株)の研修ではなく業務となった。来たるべき闇が世界を覆う日に、強き魔軍を作る力、生まれ来る魔物たちにまとわせる強者の力をどのようなものにするかを、未来のホメロスが決める。そのための強者の情報を蓄積すること。新しい世の母となるため子種を集めること。
ホメロスは愚劣な者が嫌いだった。ウルノーガもそうであっただろう。自分と王が作る世界には、強く潔く賢く美しいものがあればいい。そうしてホメロスはますます意図をもって客を選別するようになった。体の強い者。心の強い者。魔力の強い者。知略をもつ者。一目ではわからぬ強さもこの世にはある。それを計量するのにもホメロスの賢さは役に立った。床入り前のお喋りで相手の持つ力を見極め、これはという者の相手をするのは、さまざまなしがらみにとらわれる表の軍師としての仕事よりも手ごたえがあるかもしれなかった。その結果まるで道場破りのように自分の価値をはかりにやって来る強者も増え、ホメロスには濡れ手に粟であった。
今夜の騎士の青年は、ぶちまけた話ホメロスの隊の部下だった。実力はよくよく知っている、有望な若者である。若き日のホメロスほども素質があるかもしれない。力を探る必要はないので話が早かった。彼には良い女に早々に気に入られたようにのぼせているだろう。ほとんど毎日顔を合わせているし、つい今朝も訓練で話したばかりなのだが、そこはホメロスは肝が据わっていた。誰が一国の将軍が女になって娼館でしなをつくっていると思うだろうか。まして人をその人たらしめているのは顔のつくりではなく、辺りにふりまく空気である。王城騎士でも官僚でもなんでも来るがいいとホメロスは開き直っている。
――グレイグが来るかもしれん。オランピアは大柄な、今夜のような男に乗るたびに夢想する。それが都合の良いことなのか、悪いことなのかは判断を先送りにする。グレイグ――かもしれん。男たちはそのうち髪が肌をくすぐっても鳴くようになる。人間の感覚とは愚かなものだ。ホメロスには当然熟練の娼婦のような絶技などない。夢のような一夜などと、触れられたところが微弱に生気を奪われて、気だるく痺れるだけだというのに。グレイグ、愚かな奴。愚かな。耳障りな声をくちづけで遮って、射精する体を全身で抱きしめる。一瞬勝利の快感がある。本当にその勝利をしたいのか、それは今は考えないことにしている。こうしてもっと強く強くなれば迷いがなくなるはずだからだ。
→次ページへ続く

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