その日はグレイグが遠征から戻ってきていて、久し振りに王城警備部隊に訓練をつけていた。ホメロスも途中からその様子を監督していたのだが、ホメロスの姿を認めたグレイグは訓練が終わるとそわそわと落ち着かなげに近付いてきた。帰城のあいさつと報告なら先日王の隣でともに受けた。
「何だ?」
「おっ、と、ホメロス。ちょうどおまえと話そうと思っていたのだ」
そんなことは見ている者全員が知っている、と思ってホメロスは顎をしゃくった。促されてグレイグは話し始める。
「こたびの遠征もホメロスの立ててくれた進軍計画で非常にうまくいった。おかげで部隊もほぼ無傷で戻ったぞ。それから荷運びのことだが……」
「早く本題を話さんと忘れるぞ。俺も暇ではない」
「む……」
明るくなってきていたグレイグの顔がまた曇りなおした。グレイグは任務や軍事のことならよく話す。しばしばそれは現実逃避としてきわめてよくはたらいてしまう。
ホメロスはうざったげに髪をかきあげた。
「話さんのなら、帰るぞ。貴様の顔を見にきたのではないのだからな」
「いやっ、待ってくれ。ホメロスにしか聞けんのだ……」
困った声にホメロスは少なからず自尊心を刺激される。鼻で息を吐いて待ってやるとグレイグはやけにもじもじ言った。
「すばらしい女性にな……、いや、初対面なのだが……。手土産など、何が喜ばれるだろうか? 賓客のもてなしやら他国への捧げものやらはいつもおまえが手配してくれるので、とんと見当がつかなくてな……」
「ほうほう、見合いか?」
背中を丸めてうつむくグレイグを見下ろすように顔を上げてホメロスは面白そうに笑った。これが『王』に仕える前であったならば、おそらく王や重臣たちにお膳立てされたのだろう状況にまたおまえばかりが期待されてと嫉妬でわけがわからなくなっていただろうが、今は滑稽さと憐れさしか感じない。グレイグは頭を掻いた。
「まあ、……そのような……ものだ……」
「そうか、ならばよい花を丁重に捧げられて悪い気のするご婦人も少なかろう。跪いて渡すのだぞ。薔薇の花束など用意していけ。一本二本を自分で選ぶなよ。俺がひいきにしている店があるから、そこに頼めば趣味よくまとめてくれる。おまえは主にする色くらいしか口を出さぬがいい。配色が下手だからな。
ククッ、そうだな……。おまえ、そろそろ結婚した方がいいぞ? 地位としてな」
「おまえも同じではないか。俺のような武骨なばかりの男の妻になる人は幸せではないだろう」
「そういう男だからだろうが。俺は社交でも根回しでも、おまえが今言ったとおり自分でできるからな。おまえにはそういう力のある奥方がいたほうがいいのだ」
口が勝手に正しい言葉のかたちに動いたが、遠からぬ未来に滅ぶ国の花嫁などいてもいなくても同じだ。グレイグのことだから『すばらしい女性』とやらをうまく扱えるとは思わないが、もしそうなったならそれはそれで滑稽で愉快なことではないか。ホメロスは暗く笑った。グレイグはまだ腕を組んでもじもじとしている。
「ホメロスがいるからな……」
「ハァ? 甘えるな! 貴様より忙しい俺がなぜ貴様のことまでしてやらねばならん。子供か。そら、部下が来るぞ」
視線で示してやるとグレイグはしゃんと背筋を伸ばして振り向いた。花屋の店名を教えて手を払うと、ありがとう、恩に着るぞ、と言ってやっと去っていった。その背中はすっかり堂々としている。ホメロスは鼻で笑った。
──格好つけめ。背中を丸めて考え込んでいたとて、おまえを情けない奴と見るのは俺くらいだろうに。それは妻がいてもなかなか甘えられまいよ。
娼婦相手ならどんな情けない顔を見せるのだ、と考えるだけで少し胸がすいた。今日の予約の客は確か、最近城勤めになった楽師の男だったはず。親の代からのコネだけあって小ぎれいな貴公子然とした顔しか知らないが、彼はどんな顔をしてみせてくれるものか。機嫌よくホメロスは典礼曲を鼻歌にのせた。
「お引き取りください」
竪琴の音に包まれにこにこと紅茶を嗜んでいたオランピアが唐突に言った。整った和音がふつりと途絶える。楽師は意味ありげに片頬で笑ってみせた。
「おやっ、この曲は気に入らないかい? さすが耳が厳しいなあ。本当のことを言うと僕は宮廷楽師で、王の覚えもめでたいのさ。仕方がない、これから弾く曲はとっておき、君のような教養と審美眼のある人にだけ……」
「もう結構ですので、どうかこんな血の冷たい女ではなく、他のかわいい子に聞かせてあげてくださいませ。歌の好きな気立てのいい子がおりますのよ」
オランピアは切れ込みの入った袖から白い腕を伸ばして天井から垂れる紐を引いた。シャンシャンと部屋の外で鈴が鳴り、楽師が何か言う前にボーイが部屋に踏み込む。今日もオランピアにはお気に召す客ではなかった合図である。
気難しいオランピアのおこぼれを狙う娼妓もいる。もとよりホメロスはここに金を稼ぎに来ているわけではないので、そういう女にはオランピアは優しく気前よくしてやり傾城としてうまくやっていた。普通この合図で客は諦めて消沈しそういう女に慰めてもらうか、気位を保ちたい男なら『これは仕方のないわがまま女だ』といったふうに苦笑いして去っていく。
しかしこの思い上がった若造はいずれでもなく、品よく遊び慣れていない馬脚を現した。
「はぁ? この僕に帰れって? やっともうけられた席なんだぞ。あんたも玄人(プロ)ならちゃんと娼婦らしい仕事を……」
薄い紗の妖精の羽のような袖ごと腕を掴まんとした手は、刹那雷に打たれたように跳ね上がった。痙攣するような自分の手の動きに楽師が目を丸くする間に、足元を金色と白が円舞のように回り広がった。
「おっと」
視界と平衡感覚の激しい動きから落ち着いたときには、楽師はなかば仰向けでボーイに背中から支え抱えられていた。後ろに倒れた恐怖が遅れて背中から襲ってくる、そのぱちくりとした眼前にまた、美しい円の軌道を描いて白と金が突き付けられた。
女のサンダルの爪先であった。やはり女神か妖精のような紐細工に包まれた脚が、回し蹴りのかたちに動いたのだ。先ほどのは足払いをかけられたのだと、楽師が理解するのはさらに少し後のことだった。
ドレスをめくり上げ脚をもちあげたままのオランピアは見下ろして言った。
「女の子のやめてということをする方は、うちのお客様にはいらっしゃいませんの。
この店を選ばれるとは、お客様は審美眼が確かなのですわねぇ……」
「そ……れほどでも……ないよ……」
「では、ごきげんよう」
脚を地面に下ろしするりとドレスの布も落ちれば、オランピアはまたたおやかな貴婦人に戻り、美しい微笑みで品よく手を振ってみせた。腰が抜けたのか、ずるずるとそのままボーイに運ばれていく楽師を丁寧に扉の外まで見送る。
今日の客は収穫なしである、軽薄であれ芸術家肌であれ精神力と気骨のある男はいるものだが、あれは与えられた明るい環境とそれなりの才にあぐらをかいた苦労知らずであった。ホメロスはそういう人間が一番嫌いだ。誰あろう自分の力を磨き逆境を泳いでゆく船を屈服させるのが楽しいのだ。
ホメロスは女になった体にそういった『気骨』をはめ込む性行為を正直好んでいた。もともと女と行為に及んでも、柔らかで弱弱しいことを美徳とするような世界に住んでいる美女相手では屈服させる快感などあまり得られない、むしろこちらが得体の知れぬ底なし沼に呑み込まれていく焦りと苛立ちさえ感じると思っていたが、それは正しかったのだ。骨のある強い男が自分の肉壺に吸いつかれて歓喜し、震えて精を捧げてくるのはじつに満足感があった。太い骨がなければ骨抜きにするその愉しみは味わえない。
「あら、オランピア、早かったですね。ちょうどよかった。運の良い紳士が今いらっしゃっていて」
管理従業員の女が階段の踊り場にいるオランピアをみとめて声をかけてきた。こういうこともたまにはある。オランピアは客を振ってその夜が空きになってもそれ以上稼ごうとはしないが、店の者も慣れたもので彼女の目に適いそうな客かどうかふるいにかけて通してくれる。オランピアは厚遇に感謝の微笑みを返した。
「ええ、素敵な方かしら? お通しして」
「お楽しみに。見たらきっと驚きます」
使用済みのティーセットを下げてもらい新しい紅茶用の湯だけ受け取ってオランピアは部屋に戻った。店の者がああ言うということは、見かけは逞しい闘士のような男なのだろうか。少なくとも目に見えて体を鍛えているのならば、まったく空振りということはないだろう。悪くない。あとは動きの無駄のない体なら言うことはないのだが、と思っていると、足音が聞こえてきた。
足運びの音とリズムだけで武人だとわかり、ホメロスはいいなと思った。脚の筋肉がさっき払いとばしたのとは別の生き物のようだ。体術を使ったぶん体があたたまっており、たくましい脚に脚を絡めたくなりうっとりとする。これは期待できると思ったのでホメロスはいそいそと扉の前でドレスの腰を折り、顔を伏せて待っていることにした。最上級の礼である。そしてしばし待つ時が流れた。
(……なかなか入ってこんな……)
丁寧に頭を下げた体勢を維持してやっているのに若干苛立ちが入った。扉の前で止まった足音の主はなにやらガサガサモゾモゾしている。まさか扉の前で催しているというのか? 面倒だなと顔を上げようとしていると、やっとノックがあり扉が開いた。
「失礼する」
「よくいらっしゃいました」
男が息を呑む音が聞こえた。早くも魂を掴まれたというようすの反応に満足してホメロスは唇の端をつりあげてにやりとする。ゆっくりと艶やかな動きで顔を上げた。
「まぁ、なんて……、」
オランピアは部屋に現れた立派な偉丈夫に陶然とためいきをついた。ふっくらと盛り上がった白い胸元が金髪のカーテンからのぞく。そのようすの色香にまた偉丈夫はときめいて狼狽える。
ホメロスの頭脳が働いてまず思い浮かんだ言葉は『俺はなんてすごいんだ……』だった。
世を忍ぶ布の仮面がサイズ感のおかしさもあって全く似合わず野暮ったく、子供服のようなざっくりとした色柄の貫頭衣が華やかな意匠の扉を背景に芸人のように浮いている。さらにはその堂々たる体躯をちぢこまらせても、全く一切何一つ隠せていないその身元。この図を不意打ちで見せられても職業的に満点の応対を返せる自分は世界に讃えられてあるべき、俺は完璧、とホメロスは強く思った。
「こ、これを!」
「あら、わたくしに?」
スライムのように馬鹿口をあけて見とれていたらしい大男、隠しようがなさすぎるデルカダールの英雄グレイグ将軍(仮)が、はっと我に返って目の前の美女に跪いて花束を捧げた。それをオランピアは可憐な声で喜んでみせる。頭の中は力いっぱいの爆笑で満たされていた。そうでもなければ混乱して走り出しそうだったのである。
優雅な動きで花束を受け取り、そのまぶしい白一色の薔薇に美しい肌をさらに輝かせて香りを楽しむ、伏せたまぶたの裏でホメロスは来た、と大笑いしていた。来た、来たぞ、馬鹿め! しかも通人でもないのに娼婦に花束とは! 大真面目に言ったとおりの店の花を買ってきて跪いて渡すとは際限ない滑稽! 何なのだ一体、そんなに女に慣れないか。
「お立ちになって」
内心の爆笑と薔薇の香りでホメロスは呼吸困難になりあまりものを考えられていなかったが、応対は完璧であった。肩に掌を滑らせてホメロスは跪いたまま固まっているグレイグを立たせた。いつもの客相手なら耳元や頬を撫でて導くのだが、子供のころ泣いてしゃがみこんでいるのを立たせるとき、首まわりをさわると怯えるので肩や腕を支えてやったのを考えるでもなく思い出したのだ。
「あ……ありがとう。優しいのだな」
「いいえ、お客様のほうが。わたくしにもおもてなしをさせてくださいな」
立たせた流れで、これも幼いときと同じに手をつないでしまったので、おお好都合とそっと腕を添わせた。絡みついたりなどしたらやはりびくりとするだろうと感じたからだ。そう思ううちに爆笑の中に怒りで思考が戻ってきた。
なにをこいつは簡単に女に手など奪われているのだ? そのくせこれだけの接触でぎりぎり耐えているほどの緊張ぶり、貴様ここをどこだと思っている、子供か。それで硬派のつもりか。他の娼妓や町娘は騙せても俺には通用せんぞ。
オランピアは機嫌よさげに笑んで応接ソファに客と隣り合って座った。
「改めまして、オランピアでございます。本日はこのような贈り物をいただき痛み入りますわ。他のかわいい方にさしあげるものだったのではありませんこと?」
この朴念仁のことだ、本当に見合いのような席があったのによくわからん失敗で流れてその後娼館に来ることになった線も十分にある。あるいはこいつはこの娼館に既に恋人気分の馴染みの女がいて、ここには偶然空きが出たから店の者に引き込まれただけということもありえる、と考えてホメロスは一応聞いた。嘘をつかれるにしてもどうせ下手だし、それはそれで情報が得られるだろうと思っていたが、グレイグは馬鹿正直そのものにたどたどしく答えた。
「いや、今日は、あなたを訪ねることになっていたから……。今、花を受け取る前に景気づけだと部下に飲まされてきたから、少々酒臭くて申し訳ないのだが」
自分から酒場の匂いがすることを気にしてグレイグは鼻をふんふんと動かした。ホメロスはんっ? と思った。会ってもらえるか知れぬのに、予約もなしで花束だと? 部下たちにけしかけられたのだとしたらオランピアが人気だと知らんわけではないだろうと。
「部下たちは、なぜなのか俺が会ってもらえぬはずはないとはやすのだが、評判のご婦人がそんなわけがないだろう。だから今日はこれを届けるだけで帰ろうと思っていたので、その……どうしたらいいのだろうか……」
「……それは、とても光栄ですわ」
たおやかに首をかしげて傾聴してやりながらホメロスは再び爆笑していた。こいつ、本気で困惑している! 笑いをこらえて体の芯に力を入れているせいなのか鼓動がコルセットの中でとくとくと響き、女の場所まで少し濡れてきた。
オランピアは涼やかな瞳に柔らかな視線をのせて問いかけた。
「お客様はとてもお強い殿方なのが……一目でわかります。部下の方にわたくしの噂を聞いていらしたの? どんなふうにご存知?」
「……強い男しか認めないと。それにとても賢く……金の髪と白い肌が美しくて、たいそう高貴なようすだと聞いている。
よほど強く、気高く、すばらしい女性なのだろうなと、話を聞いて憧れているばかりだったのだが。すまない、男どもの酒の席の話の流れでここに来ることになったなど、あなたには不愉快な話だろう。申し訳ない。せめてと思って……、俺の友にもちょうど、強くて気高くて輝かしい男がいるのだが、そいつに手土産を相談してきたのだ。俺には気の利いた物も話もわからん。奴ならあなたの楽しめる話をいくらでもするのだろうになあ……」
少しうつむいて小さくなりながら『友』のことを話すグレイグを見ながら、ホメロスは爆笑からずいぶんと落ち着いた気分になってきた。
さて、こいつを抱くべきか、抱かざるべきか、とホメロスは考えた。やはり食ってしまうべきだろう。
こんなに良い精の主はない。この馬鹿に何をやっても及ばないと思うがゆえに、そもそも自分はこんなことをしているのだ。なにより、部下に尻を蹴られてやっと娼館にのこのことやってきたようなこの男が、オランピアの蟻地獄に落ちてくる機会などおそらくこれが最初で最後だろう。
ぜひ来てほしいと思ってなどいなかったが、一切期待していなかったが、目の前に据え然として来られたのだから、仕方がない……。ホメロスは内心まだやや笑いながら意思をまとめた。そうなれば、もう怖いものはなくオランピアの琥珀の目は子供を怯えさせない程度のCEROから妖しくきらめきはじめた。
「とてもすばらしい薔薇で、わたくしは好きです。花を選んで持ってきてくださったのはあなたでしょう。そのことは確かですわ」
「うむ……、金の髪の美しい人で、人を見る気高い人ならばきっとホ、いや、んんっ、我が友に似ているのではないかと思ってな。奴は趣味が良くて薔薇と白いものが好きなので……。やはりなんというか、優れた人というのは、そのようになるものなのだな……」
優れた人間がみな金髪になるわけがないだろうが、どんな偏った差別だと心で突っ込みを入れながらホメロスはにこにことしてグレイグの話を聞いた。テーブルを見てもごもご話していたグレイグははっとその美しい微笑みを見返って、あわてて彼女の淹れてくれた紅茶を飲んだ。
「失礼した。知らない男の話などされても退屈だろう」
「いいえ。その方を頼りにしていらっしゃるのですね」
そこまで言ってなぜか胸がいっぱいになるような感覚があり、コルセットがきつかっただろうかとホメロスは一度息を吐いた。
「その方が人を見る目があるというのなら、あなたも優れた人ということではありませんか。わたくしも、そう、思いますもの」
「むう……」
グレイグは照れた顔をした。そしてまたオランピアのほうをちらちらと見て、頭を抱えるように大きな手で自分の目元を覆った。
「あ……あまり見ないでくれまいか」
「あら、思っていたよりわたくしの顔がお気に召しませんでしたか?」
「いや、その、逆で……な……、どうしたらいいやら……すまん……」
どうしたもこうしたもあるか、頬でも脚でも乳でも触れとホメロスはイライラしたが、この男に望むべくもない。らちがあかないのでこちらから状況を作ってやることにした。
「ね、将軍とお呼びしてもよろしくて?」
「なっ、はっ!?」
「愛称です。素敵な方をちゃんとお呼びしたいのです。とっても勇壮でいらっしゃいますし、ねえ、『似て』いらっしゃるでしょう?」
最後まで聞いてグレイグは『なるほど!』といったふうにほっとした顔をした。意味わかっていないなとホメロスは思った。
「ああ……それなら、かまわないが」
「本当? ありがとうございます」
オランピアは友人ができたのを喜ぶように快活に笑った。その笑顔にやっと美女というより好ましいひとりの人間と知り合えたのを喜ぶ気持ちになれたのか、グレイグの目も明るくなったのがわかった。少しふたりの距離が縮まった瞬間を逃さず、オランピアは立ち上がってソファの後ろにまわった。
「将軍、せっかくの男ぶりですのに。髪が乱れていらっしゃいますよ。きれいにいたしますね」
「あっ、すまない、まさかこんな、あなたのような人に会うとは思わず」
「オランピアとお呼びくださいな。力を抜いていらして」
ホメロスは櫛を出すと先に自分の長い金髪を適量とり、さりげなく横におろし、さらに『いい高さ』にくるよう踏み台に乗ってそっと紫の髪に櫛を入れはじめた。
こう近くでこの紫色を見るのは久し振りだ。昔はよく整えてやった。自分とは比べ物にならないが、興味がなくて身なりに手をかけられないこいつがよくここまで伸ばせているものだとホメロスはいつも不思議な気持ちでいた。手に取ると太くて少し硬く、艶やなめらかさはあまりないがなぜか持ち心地よい髪だった。髪を梳いているとしだいにグレイグも力が抜けてくるようだった。
「メイドのようなことをさせてすまない。しかしなんだ、あなたは髪を扱うのが上手だ。オランピア」
「わたくしがしたくてしていることです。お近づきのごあいさつだと思ってくださいな」
「そうなのか? 女性に身づくろいをしてもらうことはあるが、こんなにその……、うむ……」
気持ちいいと言わないようにしているのだな、とホメロスはしめしめと察した。櫛でなくてのひらであたたかく側頭部を包み込み、少しずつ力をかけてやわやわとマッサージをする。そのまま手を首、肩にまで当てていく。
「!」
「将軍、なんて素敵な背中の筋肉。でも少し凝っていらっしゃいますわね」
「そ、そう、だろうか? 最近机仕事が溜まって……いや、あの、」
「微力ですがほぐして差し上げますわ。心得がありますの。じっとしていらしてね」
「ん、うん……」
グレイグの首筋が面白いように熱くなった。耳が赤いかは今は確認できないのが惜しい。なぜならシルクに包まれたオランピアのふくらみで、後頭部をふんわりと挟んでいるからだ。肩をもみほぐす動きにあわせ、ぽふんぽふんとやさしく弾力が動く。いわゆる後ろぱふぱふである。ぱふぱふはむしろそう宣言だけしておいて女の胸でないものを使うケースが多いが、今何をしているのか言えばこのムッツリスケベは謎の遠慮をするであろう、面倒だがいよいよ我慢がきかなくなるまではそ知らぬ顔を続けてやる必要があるとホメロスは計算した。
「う……、はぁ……」
マッサージの心地よさにとろけてきたグレイグは首を少し上向かせて快感のため息をつき、後頭部が重みをもって乳房の谷に沈んだ。胸に受けた重さに、でかい頭だな、とひそかに笑いながらホメロスも小さな勝利の満足感を積み上げる。ただの肩もみではない。布ごしにも微量の生気を奪って、グレイグには痺れて判断力がじわじわと低下するような酩酊が感じられているはずだ。
酩酊感は吸い上げているホメロスも同じだった。
やはりこの男の力は極上である。こんな気を、こんな魂を、こんな熱を練ってできている人間がこの世にあるのか。それが『我が王』のように賢く貴く遠く、闇多き心も預けられる人だったなら、きっと腹など立たなかった。
なぜだ。なぜ。なぜ、おまえなのだ。何がこんなにも憎いのか言葉にならないほどの、しかし熱い確信を感じた。許せない。殺してやる。許しを請うまでいたぶって鳴かせてやる。
「リラックスしていただけまして?」
大きな頭に腕を絡ませ、胸にきゅっと抱きしめて頬ずりをした。裸の腕に当たる息は熱く深く湿って、魅了がじっくりと浸透したことを示していた。隣に戻ってぴたりと体を寄り添わせても、もうあわてて距離をとろうとはしなかった。見上げればさぞ飢えた獣のような視線に貫かれるのだろうと覚悟していたのに、翠(みどり)の目は仔犬のように戸惑い、きらきらと潤んでいて驚いた。しかし好機を畳みかけようと、その驚きは無視した。
オランピアは片手を太い腿の上にそっと置いた。
「わたくし、将軍のような方を、ずっと待っておりましたの」
せつなく真剣で、恥じらいをのせた瞳で見上げ、孤独な佳人はささやいた。その声のかすれた響きに、ホメロスは我ながらみごとな演技だと感心した。グレイグの勇ましい眉は子供の頃に泣きついてきた夜のように下がり、仔犬の瞳がまぶしそうに揺れていた。あと一押しだ。そのあとはてのひらの上で何度でも……
「私を……」
それきりうすく唇をひらいて、オランピアは言葉を止めた。吸い寄せられるように顔が近付いてくる。大きな影に包まれ、その魂を一突きにする。高揚感に耐え、重ねた手を強く握った。
これで、これで、グレイグは、この女の体の底なし沼に抗えず溺れて、――
「……~~ッ!」
「ふぇっ」
がちん、と目の前で歯を噛みしめた音でグレイグは情けない声とともに我に返った。オランピアは勢いよく立ち上がり、鈴紐を振り回した。
「えっ、なっ、オラン……」
「お、お引き取りください!」
オランピアは白い裾を振り乱し、続きのベッドルームに走って逃げた。グレイグが追うも扉に鍵をかけられ、少し遅れてボーイが部屋に踏み込んでくる。
「ど、どうしたんだ? オランピア、何か俺は」
「うるさい、うるさいうるさい帰れ!」
ホメロスは耳を塞いで、部屋が静かになるまでずっと座り込んでいた。
「やっ…………てしまった…………」
静かになった部屋の床に伏してホメロスは深く深く息を吐いた。俺はいったい何をしているのだ。腿を触ったときの布の感じでは勃起させていることは明らかだったのに。極上の資源をみすみす逃してしまった。
嫌悪を抱くような男など、今までに何人も抱いてきた。今更個人的な憎しみで跳ね除けてしまうなど、他愛もない小娘のようだ。なんとしてでも強くなりたいというのは所詮は口だけだったのか。
「いや……、いや……、奴が……こんなところに来たのが……そもそも間違いだったのだ。そんなこと俺は……計画したことは……だからこれで間違っていない……」
ぶつぶつとつぶやきながら、動揺のあまり流れた涙が絨毯を濡らした。そうだ。奴のような不純物まみれの力など借りない。あんなもの、食べたらこちらまで馬鹿になる。奴なしで俺は飛びたいのだから。
だからこれは圧倒的に正しい。気に入った娼婦に最高にいいところで振られて、せいぜい情けなく落ち込むがいい。
落ち込んでいるグレイグを明日見られると思うとホメロスはずいぶんすっきりとした。事実その次の日のグレイグはずっとうつむいた口元に手をやって考え込むような渋い仕草をしており、ホメロスにだけはそれが非常に落ち込んでいる状態だとわかったので、その日のことは愉快に一件落着したはずだった。ホメロスにとっては。
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