パンとシチューの夕食後、いまいちサイズの合わない木のテーブルにひじをついて顎髭を触りながらグレイグはなにごとか考えている様子だった。目はぼんやりと空を見ているので、はっきりと建設的なことを考えているわけではないなと食器の片付けから戻ったホメロスは思った。
「なんだ、ぼさっとして。疲れて眠いのか? 今日は畑起こしでご苦労だったからな」
薄いワインの入ったゴブレットを二人分置いてホメロスは向かいに座り直した。蝋燭の光で変な顔を見ているのは悪くなかった。
「いや、眠いのではない……。おまえに、その……何か贈りたいと思ってな……」
「ふん。おまえの贈り物のセンスは滅んでいるから内容に期待はしない。今度グロッタあたりまで買い物に出るか?」
「グロッタ、グロッタなあ……。ああいう扇情的な趣味のところだと、どうだろうかな……」
「そうか? むっつりスケベは夜の楽しみ用の道具でも贈ってくれるのかと思って気を利かせたつもりだったが……」
にやにやと笑いながらホメロスはワインを一口飲んだ。新たな発想が頭に構築されてしまいグレイグは赤くなる。
「はぁっ? そ、そん……、」
「なんだ、じゃあ何をくれる」
「……指輪」
ホメロスはゴブレットを傾けたまま止めた。そうすると切れ長の目元しか表情がわからない。
「おまえはもう鎧を着ていないのだし、剣も鍬(くわ)も振るわない指示する役割だ。指を飾っても良いだろう」
「剣は振るうぞ、おまえと遊んでやるとき」
「そのときは外せばいい」
「ふ……、俺のものだから触るなとでも目印をつけておきたいのか?」
「……それもないではないが」
グレイグは照れくさそうにむくれた。村を形成している、帰るところのない多種多様なはみ出し者たちは、きまぐれな嵐のように振る舞うホメロスの箱庭を手伝おうと選択した者たちだ。働く場所を与えてくれる感謝だけでなく、個人的に強くホメロスを慕う者もいるはずだと自分の思考回路からグレイグは考えていた。グレイグはホメロスと同じ家に寝起きする昔馴染みとして一目置かれてはいたが、こういう仲に行き着いたことを遠回しにわかるようにしたい。何よりホメロスに日々自分の気持ちを見ていてほしい。心が伝わらず離れて行かれるのはもう嫌だった。
「いつもおまえの目に入るところに、その、俺がおまえを愛している気持ちがいい加減なものではないことをな……」
「そうか。そういう意図の指輪ならもうもらっているぞ」
「え……誰にだ!」
「ふん……」
ホメロスは目を伏せて笑い、席を立ってしまった。自分との間柄は一時のことで、いずれ他の誰かと結ばれる申し出や、あるいはもう約束があるのかと衝撃で言葉を見つけられないグレイグの前に、ホメロスはまた戻ってきてくれた。
「これに、見覚えがあるのではないか?」
つままれた金色の環は本当に婚約指輪らしきものだった。見覚え? と身を乗り出して見ても、特に変哲のないなめらかなデザインのものである。ホメロスの髪と似た色の金で、しかし奇妙なことに、つまんでいるホメロスの指に入りそうにない――、
グレイグはハァッと声になるほど息を呑んだ。
「……ち、違うそれは、浮気ではないのだ、頼む説明をさせてくれ!」
「何を言ってるのだこの馬鹿は……」
ホメロスは軽く吹き出し、グレイグの様子をにやにやと観察した。あたふたとしたグレイグにはその表情が目に入っていない。
「か……観念した……。ホメロスに隠し事はできん……確かに俺はこの生涯一度だけ、おまえでない人に結婚を申し込んだのだ……」
「ほう、一度だけとは新しく知ったが続けろ」
「し、しかし、彼女は実は人妻でふられたのだ。それが、おまえのことを愛しているとわかっていなかった何年か前のことで……今は彼女が夫と幸せに暮らしているようにと思うばかりで、もうすっかり終わった恋だ……。彼女に会ったならば、元気にしていただろうか……?」
「ああ。元気だぞ。それと未亡人になった」
「なに! 不自由なく暮らしているのか」
「経済的には特に問題はないな。なんだ? 好みの女が寂しい未亡人になったなら、もう一度プロポーズしに行くのか?」
グレイグはうなり、自分を面白そうに見ているホメロスを見つめた。決して面白くはないはずだ。その複雑な心を何より失いたくなかった。
「そんなことはしない。俺はもうおまえにしかそういうことは言わん」
「そうか、そうか。ははは」
ホメロスは馬鹿にしたように、しかし嬉しそうに笑った。
「未亡人はもう悠々自適だから気に病まぬがいい。おまえたち勇者ご一行様が夫を殺したのだしな」
「は……っ? 何かの間違いだ。オランピアがそう言ったのか?」
「ウルノーガ様だよ。よく愛されてそれなりに幸せに暮らしていたのだが、新居を構える直前で俺が盛大に裏切られるところはおまえも見ていただろう。ああ、未亡人ではなく、これは出戻りか……」
「何を……言っているのだ。ウルノーガがオランピアの夫だと……?」
「まだわからんか。夫というのはもののたとえ。
俺がオランピアだよ、将軍。また髪を整えてさしあげようか?」
グレイグの脳裏に稲妻が走った。
やっと意味がわかって固まったグレイグは言葉にならず震えた手だけをぷるぷると胸の高さにもちあげる。ホメロスは顎を上げて嘲笑った。
「このスケベ乳幼児が……。大好きなおっぱいがないと信じられんか? よかろう、少し待っていろ……」
そう言ってホメロスは寝室に消えていった。運命の恋人とかつて恋してしまった女神のような女の美しさを頭の中でぐるぐると照らし合わせ、グレイグは何に対してだかよくわからない期待で爆発しそうになった。
ややあって、扉が開いた。
「!」
椅子を倒す勢いで立ち上がった。扉のむこうから白く細い手だけが出てきて、しかし優美な手招きではなく指でくいくいと来るように命じられたので、ホメロスだ……、と考えながらグレイグは従った。近付くと扉が閉められ、花束を持って訪ねたときのことを思い出す。そのときと同じように扉に手をかけてしばらくもぞもぞし、思い切って開けてみた。
「……ホメロス……!」
「……どうだ? 信じたか?」
月明かりだけで暗い寝室を薄目でうかがうと、ホメロス――に似た尊大な喋り方の女の声――はなぜかぶすくれて言った。ホメロスが先程まで着ていた服はそのあたりに脱ぎ捨てられ、簡素な白いドレスを着た女がベッドに座っていた。金色の髪。シーツの上にたゆたい、あるいはベッドの端からこぼれている。こんなにも美しく思える金の髪の主を、グレイグはこの世に二人しか知らない。
「なぜ……」
「わかったようだな。まあ座れ」
ふらふらとグレイグは招かれるままに隣に座った。上から下まで眺めるとドレスと思えたものはリネンのシーツを器用に結び胸の下を紐で絞っただけのもので、いずこかから女神が現れたのではなくやはりホメロスが今まとったのだとわかった。グレイグはなにやら力が抜けた。
「なんのことはない、俺が愛したのは全部おまえだったのか……」
「……知らんわ。おまえのことだから勘違いしているかもしれんから釘をさしておくが、俺は別に男でも女でもあるとかそういったものではないぞ。これは魔力による一次的な変化で、ウルノーガ様の授けてくれた力のひとつだ」
「それだ、お、おまえは昼は普通で夜はその、娼婦……を、」
「そうだ。娼婦をして強い男の精をさんざん搾り取ってやった」
「そんなことをウルノーガに命令されていたのか! 気高いおまえがなぜ応じた!」
「命令されたのではない。自分で頼み込んで、この強者の力を吸い取って自分のものにする力を授けてもらった。おまえに勝ちたかったからだ」
迷いも悔いもない、平静なホメロスの答えにグレイグは絶句した。ホメロスはおもむろに震えている手をとって、頬ずりとキスをした。
「……!」
「おっと。そう怯えるな……。また娼婦の真似事をしようというのではない。少し痺れる感じがわかるか?」
手を離され、両手を擦り合わせてみると、確かに感覚が鈍いような、あるいはもどかしい高揚感のような微弱な痺れがあった。普段ホメロスの体に触れ、触れられて我を忘れるほど高まったときに感じる、どこを触れ合っても気持ちがいいような感覚に似ていた。
「気持ちいいか。今、少し吸ったのだ」
「な……何を」
「おまえの精気。相変わらず……半端でないな、あれから何年も経ったというのに……。覚えているか? 肩を揉まれて気持ちがよかっただろう」
「……本当に……、オランピアなのだな……」
化粧をしていなくとも涼しく品のある、記憶より濃い毒もある美女を見下ろして、魂が抜けるようにグレイグはつぶやいた。そして、目を伏せてうなだれた。
「ホメロス……」
「……泣くな、うっとうしい」
ホメロスは舌打ちをして、手を迷わせてから隣の太腿を軽くつねった。大きな手の甲に涙がひとつふたつ落ちた。
「おまえだの、そのへんの男どもを騙して手玉に取ったのだ。知っての通り評判だったからきっとロトゼタシア中の男を抱いたぞ。部下とだってやったし、汚らしいと罵ればいいだろう。俺は後悔などしない。別れたくなっただろう?」
「違う……、違う。おまえに、そんなことをさせていて、俺は知らないで浮かれていた」
「おまえがさせたのではない、思い上がるな。俺が俺のためにやったのだ。正直楽しかったしな」
「おまえに、触った奴が……」
グレイグはそこで言葉を止めた。煮え返るようだったが、嫉妬など口にする問題ではないと思ったのだ。気高く、他人と距離をとり、いつまでも少年のように潔癖なホメロスが、血を吐くように力を求めて多くの人間に肌を許した。どんなに傷付いたことだろう。どれだけ自分を自分で傷つけたのだろう。何度抱きしめても癒えきらぬ傷がホメロスにはある。今また晒された傷口ごと生涯愛すると伝えたかった。
ホメロスは眉をしかめ、斜め下から覗きこんだ。
「……おい。俺に触って抱かれて気持ちよくなった奴が山ほどいるのが我慢ならんのだろう。別にかまわんから言え。今更どうにもならんがな。また何かおきれいな騎士らしい慰め方でも考えているのか? くだらん」
「きれいとか、そういうことではない。辛かっただろう。潔癖なおまえがそんな……」
「……はぁ~~……。本ッ……当におまえは話を聞かんお花畑ちゃんだな……」
ホメロスは立ち上がり、正面に回った。そして脚を振り上げ力いっぱいグレイグの肩を蹴り飛ばした。女の力だ、大した痛みにもならずごろんとベッドに倒れるだけだったので、グレイグは文句も言わずホメロスを見た。
「汚くて嫌だと思わないというなら、今度こそこの姿で抱いてやろうか。あのときは男に戻って搾ってやったが……」
「ええっ」
よじ登るようにのしかかってきたホメロスを見上げてグレイグはみるみる顔を赤くした。何かを思い出すようにきょろきょろと視線を迷わせる。
「なっ、ほ、あ、あれは夢では!」
「はは。覚えていたか。いい子だぞグレイグ……」
「お……おまえと……! した……のか……!? あのときもう……!?」
「そうだ。何回もしたぞ。おまえは呆れるほどいきまくって傑作だった。おまえのグラスだけいろいろ盛ったから仕方ないが。次の日はさすがに腰と腹が痛くて休んだわ」
「なぜ男に戻ったのだ! ま、まさか、他の奴にもおまえの本当の体を、」
「馬鹿が。もう要点を忘れたのか? 男の精気を吸うためにこの体で娼婦をやっていたのだと言っただろうが。戻ったら完全に無意味だろ」
「ではなぜ……」
ホメロスはなめらかに動く口を少し止めた。そして苦い顔をして、グレイグの胸の上に体を倒して顔を隠した。ぽわんとした感触が押しつけられ、グレイグは話の文脈無視で幸せに襲われてしまう。
「おまえが好みの女とやりたがって幸せそうにしていたから、むかついてイラついて邪魔した」
「おまえだろう」
「……おまえ好みに嘘を塗った優しい顔を、おめでたく愛されて和合なんぞしてやるのは嫌だったのだ。絶対に嫌だった」
そこまで言ってホメロスは黙った。
ホメロスが言ったことを噛みしめて、グレイグは抱きしめるのをためらい恐る恐る女の背をさすった。色気のない手の動きをホメロスは憮然と受け入れて、しばらくじっとしていた。
そうして何か満足したのか飽きたのか、巨体に腕を絡ませてきた。絹で擦られるような柔らかでしなやかな感触にグレイグは目を白黒させる。
「! お、おい、嫌なんだろう。この期に及んで自分を傷つけることはやめろ!」
「自傷ではない。もう、いいのだ」
ホメロスはグレイグの体を滑るように伸びあがってキスをした。なめらかな髪が顔のわきにかかってシーツに落ち、グレイグは今は小さな女の体をしているはずの恋人に包まれ閉じ込められて金の海に溺れているような気分になる。唇はいつもよりもさらに小さく柔らかく、しかし表面を擦り合わせているだけというのにいつもと同じように巧みだった。
たっぷりと唇を合わせると、ホメロスはゆっくりと上体を起こした。見下ろして小さな声でぽつりと言った。
「もう、かまわん……」
幼い頃寝かしつけてくれたときの疲れたようななげやりな笑みで、少し照れくさそうでもあった。微妙な表情がホメロスのどんな気持ちを表していて、またどんな背景が隠されているのかグレイグにはわからない。だが少なくとも、幸せか虚しいかといえば幸せそうだとはわかった。それを嬉しいと思ってまぶしく見上げた。
夜というのに眩しげなグレイグを見下ろして、複雑な女神は仕方ないやつだというふうに笑った。
「可愛いおまえの好きなことなら、望むようにしてやってもいい」
ホメロスはふたたび体の全面どうしをぴったりと重ね合わせた。どくどくと鼓動が体と体の間に響き、それでやわらかな乳房がぷるぷると揺れるのではないかとさえ思える。血が送られて熱い頬、耳元、首筋、胸元にホメロスは愛情深いキスの雨を降らせた。輝くような恋人のなお触れがたい女姿、信じがたいサービスの幸せを飲み込みきれないのではないのかと感じ、グレイグは苦痛に耐えるように緊張する。
「う、うぅ……ホメロス……、」
「いいかげん年増だが、女の体は柔らかくて気持ちいいだろう。いいんだぞ、溺れても。中身は紳士に接しなければならない女ではなくこのホメロスなのだから。いつものように力を抜け。奉仕してやろう」
話し方が同じなので男のときと大差ないような甘い毒のささやきを、耳に流し込まれる。グレイグは真っ赤になってうぬぬとかふええとか言った。是非してくださいと言えず、さりとてどういう態度をとったらいいのか決めかねてまごまごしているとホメロスは顔を覗きこんできた。
「嫌か」
機嫌が悪いときのような顔だったが、眉根にほんの少し、怖がるような色が乗っているように見えてグレイグはあわててぶんぶんと首を横に振った。ホメロスは皮肉の笑みに顔を歪めた。いつもの、人をてのひらで操ってやったという顔だった。
「だろうな」
「う、わわ……!」
急に移動してホメロスは下半身に胸を押しつけた。だろうな、と言われた通りズボンの前は大きく膨らんでいた。それを挟むようにホメロスは乳房をかるく寄せ、むにむにと体を上下させる。気まぐれに首を丸めて先端のほうに唇をつけて刺激されるのもたまらないし、視覚的にも強烈でグレイグは口をぱくぱくさせて息を吸う。ホメロスは鼻で笑った。
「ふ、でかいからやりやすい。布ごしにフワフワするだけでこんなウドの大木がちゃんと感じているのか? ん? 正直に教えろ」
「きっ……気持ち、いい……。おまえは綺麗だし……」
気持ちがよくて綺麗で、恋人の奉仕への感謝を感じる。幸せに溺れたい。しかし他の男にもこんなことをしたのだと、悲しさと嫉妬と申し訳なさで涙が出そうにもなる。うううとグレイグは泣くような声を漏らした。
脱がせるぞ、と言ってホメロスは器用にグレイグを裸に剥く。そのあたりでグレイグは何を決意したのか、ふんぬと拳を握った。
グレイグは細腕をつかんだ。何を考えたというのか優しく寝かせてくるグレイグに、ホメロスは少し眉を跳ね上げて白けた顔をした。しかし好きにさせてやるとばかりに抵抗はしなかった。
上からじっと目を合わせて、試合の宣誓の口上のようにグレイグは言った。
「おまえはおまえだ。男の体だろうと、女の体だろうと、同じに綺麗だし、たいそう格好いいし、愛おしい」
「……なんだ。グレイグのくせに……」
色気のない言い方の愛の言葉だったが、ホメロスはぷいと横を向いて照れた。若干いい感じになったのだが、朴念仁による試合前宣誓はまだ続いていた。
「しかしときに、女性の体のほうが、男よりも快楽の頂点が高いと聞く!」
「はぁ?」
「傷を晒してくれた勇気あるおまえに、望むことをなんでもしてやりたいのは俺の方なのだ。どうかこの体のいいところを教えてはくれまいか」
「な……何を言ってる、おまえ、こら、なんかいいことを言ってるつもりなんだろうが鼻息が荒いぞ」
「誠心誠意尽くす!」
グレイグはホメロスの唇にかぶりついて吸った。ぢゅううううと擬音がつくような口づけにホメロスは目を見開き、青筋を立て、──力いっぱい頭を殴った!
「くおっ!」
「っぷ、チィッ! 何が教えてはくれまいかだ、これでどうものを教えろというのだ! 自分で一拍前に言ったことくらい理解しろ鳥頭がァ!」
「す、すまん、」
「フン! 触ってみろ!」
びきびきと顔を引きつらせて怒りながらホメロスは勢いよく大の字に寝た。男の体のときでさえたまに落差を感じさせるほどの、荒ぶる仕草は優美な女体には男らしすぎたが、グレイグくらいになると逆に『よーし! がんばるぞい』とやる気が喚起されるのだった。
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