――オグマ山脈の麓、まだ薄雪の残る寒い村の酒場。
「ッはー、やっぱり乾酪(チーズ)料理は温まるし、おいしいチーズがあるだけでお酒は格段においしいわよね。うちでもこういうガツンとした味のチーズが作れないかしら?」
「これくらい味と香りが強いと、赤の重みにも合うねえ。なあおやじさん、こういうチーズはやっぱり熟成が難しいのかい? あっアタシは次麦酒(ビール)をもらおうかな」
「熟成~? ど~せ細かい条件と手順を守って理学でじっくりってハンネマンみたいなことしないといけないんでしょ」
「アンタねえ、そりゃたぶんバクスだって同じだっての。無理なんじゃじゃないのか葡萄酒づくり?」
「えっ! や、いやぁねえ、あたくしの教え子にはそういうのが得意な子もいるもの! ところでこの具チーズと燻製豚(ベーコン)と合わさってほくほくでおいしいわね。これ何かしら?」
「皮むいたカブだろ。このへんじゃ大きいのがとれるからさ。アタシはもっと大蒜(にんにく)が入ってるほうが好みかな」
「まーッ、カブ! やるじゃないカブも」
――ガルグ=マク大修道院近隣の村、狩人の小屋。
「ごちそうしてくださってありがと。お礼に、おみやげにする予定だったこのいい白バクスをふるまうわ。あたくしたちもけっこう呑んじゃうけど」
「へえ、野外用の小鍋やら、串も鉄板まであるんだな。えっ、その鍋、チーズとバクスを煮るのかい? ははっ、昔実家で食べたことあるソースだ。こいつは驚いた。このあたりの料理だったのか」
「まあーっ、野性的な料理だけど、すばらしい高級感じゃない! たき火でこんな帝都の店みたいな凝ったソースが食べられるなんてね。ねえ、このふつふつとしてきたものに、お肉をちょいとつけて……アッ! はふっ、……~~ッハァ~! 白に合うわぁ~!」
「おいおい、食い方が下手なんじゃないのか? よっ、おぉっと……、……うん! なんだか記憶より美味い気がするねえ。兄さん、あんたの狩った肉が美味いせいなのか? ……え? ああ、そっか、アタシたちが持ってきたバクスを入れたもんな。いつもと味が違うのか」
「そうよね、いい白バクスを入れたんだからそりゃあその白に合うはずよねえ。……ということは、よ? 入れるお酒によっていろんな味のおつまみになるってことよね、燃えてきたわあたくし! ねえお兄さん、チーズがどんなものか教えてくださる?」
――旧同盟領に入ってすぐ、葡萄畑と林檎畑の村の宿場。
「ほら、やっぱりバクス煮にするだけで美味しさが段違いじゃない? 赤も白も呑むだけじゃなく日々の料理に必要よ~。大修道院のウサギの串焼きが懐かしくなっちゃうわ」
「あれは美味かったね! 酒で肉を漬けたり煮たりは柔らかくなるし、甘い香りが移るのがいいね。この煮込みも、間引きした小さい玉ねぎにもよく酒と牛の味が染みてるよ。あ~、明日もマヌエラのお喋りに付き合う気力が湧いてくるねえ」
「ちょっと、馬を御すのよりあたくしと話すほうが疲れるっていうの? 退屈かしらと思って楽し~く話してるんじゃない!」
「悪い、悪い。じゃあさ、アタシが退屈かと気遣ってくれるなら、明日の朝は剣の鍛錬にでも付き合わないか? こんな肉といい重さの赤を飲んだら、なんだか気が昂っちゃってね」
「それはいい考えね! カトリーヌにはかなわないけれど、あたくし子供たちにちゃんと剣も教えているの。体型も維持できるからね。こんなぷるぷるのお肉とよく寝かせた濃い色のバクスで栄養を摂って鍛錬したら、お肌もますます輝くに違いないわ」
「街の酒場の赤のバクスってふつうは色が薄いよな。ちゃんとした教会の醸造所で作ったものはそれぞれのいい色をしてるんだ、くらいにしか思ってなかったが。さすが同盟は平民も質のいいものを競って作るもんだ」
「ここの宿場のとっておきはこの旅でいちばん赤色が濃いわよね。なのに苦くないし澄んでる。高級で、薬としてもいいとされてるのは赤なら色の濃いものよ。傷口の治療や発熱の養生のときには色なんて気にしてられないけど。見てると、この場でも周りのみなさんが注いでるのには、薔薇色だったり、白バクスでもないのに色がないものもあるわね。そういえば、ほんの子供だった時分に周りの大人が飲んでいたのもそうだったものだわ。お安いのかしら? あたくし平民の出だし」
「作り方も違うのかな? ま、これからいろいろ知ってそうなヤツのとこに行くことだし、聞いてみるか。
……ところでこれ、宿代の割にはやたらたくさん肉煮込みが来た気がするけど。……おおい! 料理長! この煮込みは牛だよな? ……ええ? 腱の肉なのかこれ? いけるもんだなあ」
食べつ、飲みつ。女二匹バクス紀行は旅の主要な目的地として、フォドラで最も多種の酒の集まる場所へ着いた。それはかつては爛熟の帝都アンヴァルであったものだが、当世となっては、別の港町にその地位を移していた。
「あの、先生方。こっちです」
街の賑わいの中でそう大きくない声がなぜか耳に届いたと思えば、聞いたことのある声でいやに一生懸命な呼びかけだったからだった。広場から酒場や宿場のある通りのうち一本に入っていくところに、二人ともが見知った貴族の女性が立っていた。周りの市民たちがへりくだって礼を取っていくので、姿も浮かび上がって見えた。
「あら! わざわざ出迎えてくれたの? 忙しいだろうに悪いことをしちゃったかしら」
「いいね、元気そうじゃないか。次期辺境伯どの」
「そ、そんな……わ、私はまだ補佐官の補佐官で、そんなでは……」
女性は目を閉じ顔の前に両手をかざして額まで赤らめた。正式にエドマンド辺境伯家の嫡子とさだめられた、マリアンヌであった。すぐにマリアンヌは初手で卑屈に恥じらってしまった自分に気付き、改めて姿勢を正し二人に礼をとった。
「マヌエラ先生、カトリーヌさん、お久し振りにお目にかかります。マリアンヌ=フォン=エドマンドが、当家の主に代わりお二人をお客人として歓迎いたします」
「えっ、堅苦しいのはなしにしといてくれよ。なんだい? そんなに話が大きくなってるのか。この女は美味いものと酒を呑みたいってだけなんだよ」
「ちょっと言い方がアレだわね、『だけ』って何よ! ねえマリアンヌ? ほんとに、あたくしたちとっても目立つ美女たちだから市民のみなさんの注目を集めてお邪魔になってしまうわ。どこか店に入らない?」
「あ、はい……! 珍しいお酒のたくさんあるところ、ご案内します。こちらへどうぞ」
マリアンヌは控えめな仕草で先導をはじめた。「珍しいお酒」から始まる言葉の流れにスイッとついて歩き出してしまってから、客人二人は遅れて目をまるくした。
「マリアンヌが酒場を案内してくれるってさ。家を継ぐことでにっちもさっちもいかなくなってたら、何かの騒動にまぎれて連れ出してやろうかとかも実は思ってたんだが、心配なかったな。立派になったじゃないか」
「背筋も伸びて素敵よマリアンヌ! でも、どうしてあたくしたちを見つけられたのかしら? こんなに大きな港町で白魔法のように目の前に現れるんだからびっくりしてしまったわ」
「お手紙をもらったことを話しておいたので、外門の連絡係の人が先生方を通したのを教えてくれました。それで、ええと……、この時間は、あの通りが一番、なんというか」
「人の流れがあるの? さすが、マリアンヌは補佐官のお仕事で街の兵たちやお商売をよく把握してるのね」
「いえ、あの……。……こんなことを言うのは、ためらわれるのですが」
マリアンヌは主に懺悔するように胸の前で指を絡ませた。
「この時間、あの通りが一番……肉と香辛料と脂を焼いたりするにおいが強いので……」
二人は、やり手と名高いエドマンド伯の跡継ぎとして成長しているマリアンヌの読みの確かさと、自分たちの挙動のじゃっかん恥ずかしいわかりやすさに口を開けたまま顔を見合わせた。
「……と、まァ珍しい酒の集まる場所に来てみれば、だ。確かにそうだよなあ」
「ちょっと、ちょっと……。結局お邪魔することになっちゃったじゃないの。酒場とか、酒屋に案内してくれるわけじゃなかったのね? ほんとにいいの?」
「いいんです。養父(ちち)は別の仕事で今、邸(やしき)にいないので、ご挨拶できず残念と言っていました……」
マリアンヌが使用人たちに人波を割らせてあれよあれよと二人を歩かせてきたのは、エドマンド辺境伯の邸の応接室だった。
部屋の扉を開けさせてすぐ、マリアンヌが奥の壁に駆け出して行ったと思うと、窓掛けのように垂れていた布を横にざららと開いて見せたのだ。その暗所には整然と瓶が並んでおり、マヌエラは思わず縦横の数を掛け算しようとしたが、途中でよくわからなくなったのでとにかくたくさん、と勘定した。言うまでもなく、エドマンドの良港で取引された無数の銘酒の標本であった。
掛け布を開いた空気の流れで、布の向こうの暗所からほのかな冷気が流れてきた。暗く、涼しく、しっとりとした空気の、バクス倉と同じ環境。布の内側にはマリアンヌの得意な冷気の魔道による加工がされているらしく、マヌエラにはピンときた。あのハンネマンったら学生時代からマリアンヌにちょっかいをかけて、研究している魔道具とかいうのに協力させてるのね、それともマリアンヌが協力させてるのかしら、と。
「念のために確認しておくけど、あたくしたち、別に大口の取引をするとかではないのよ? 社交辞令にしたってエドマンド伯には利益はないと思うのだけど」
「おう、よく確認しとくよ。世の中、調子に乗ると後が怖い」
「あ、すみません……お客様を不安にさせてしまって。
マヌエラ先生、本当に気にしないで、ふつうに……お好きなお酒を買っていってください。葡萄畑のための苗も、そのお好みに合うものを取り寄せさせます。養父もそれが嬉しいと思っていますので。私もです」
「えっ、素敵、やだ……ッ、もしかして辺境伯、あたくしのことを……? あたくしには学校と子供たちが……」
「いや、葡萄畑をやれって話なんだからその流れはおかしいだろ……」
「あ……、あの、養父は、『マヌエラ先生に葡萄畑をやってもらうのは投資だ』と……」
マリアンヌはあわててマヌエラの勘違いから話を取り直した。マヌエラは顔を険しくして、その流れではなかったのね、とつぶやいた。
使用人たちに水とバクスを差配して二人に供させつつ、マリアンヌは続けた。
「養父は最近よく、教育が重要だと言うのです。
私、マヌエラ先生が学校を始められたことは、頼る人のない子供たちを守って幸せにする、主の御心に沿うことだと思って、すごいと思います。でも、それだけではない……らしい、です。養父が言うには、『若者を育てるのにいい品を贈るのは、土地にふさわしい葡萄の木を植えるのと同じ』と……」
少し震えながらも、マリアンヌは養父の言葉を言い揚げた。同時にバクスが玻璃(ガラス)の杯に注がれ終わり、水面がなめらかな波紋を描いた。マリアンヌの詩の朗読のようだった声にだか、バクスのみごとな色にだか、カトリーヌはほうと嘆じた。
「……含蓄のある言葉だ。さすが聖人言行録みたいなことが口から出てくるんだな、やり手のエドマンド伯って。よくわからないのになんか感動したぞ」
「あたくしは辺境伯のお心がわかったわ」
「ほんとかよォ」
「つまりね、あたくしが呑むことで……フォドラが変わる! ってことよ!」
まだ呑んでもいないのに歌劇の振付けのように拳を振り上げたマヌエラをカトリーヌは半目で見上げた。マリアンヌは群生した小さな花がほころぶように笑った。
「ふふっ、たぶん……そうです。なので、いろいろ試していってください」
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