最初に注がれたのは清水で黄色い花を溶いたような白バクスであった。白といっても色合いはカトリーヌの金髪より濃く、樽での熟成が進んでいることのわかるものだ。当代でもっとも上等な種のバクスとはこういう白である。
「どうぞ。エーギル産の白バクスです。今年で二十年熟成……になるみたいです」
「これよこれ。これは熟成がとっても上等のものだけど、お酒といったらこれのことをいうのよね。帝都で間違いのない種類のものはこれね」
「はーん、帝都じゃそうなのか。確かに上等の酒っていうとこういうものとは思うけど、ファーガスじゃやっぱり酒と言えば麦酒か林檎酒だし、バクスも赤が多かったかな」
「これや、帝国南部産の銘柄の一部は、聖マクイルが帝国の人々にお授けになった技術のひとつだと言われている、伝統的な白葡萄と製法で作る……あの、セイロス教にも大事な、聖なるバクスです。今もずっと貴族に人気があって……」
「そういや、昨日の宿はこれに似た白の辛いのが出たねえ。熟成の若いやつだったのかな。同盟でも作ってるのかい?」
「あ、はい……。ええと、東方教会の司祭様たちは、お酒造りの技術に長けていらして……。力のある商人が知識を授けていただいて畑を作りはじめてるんです」
「へえ。東方教会、中央への発言力やら武力やらがないから影が薄いと思ってたが、同盟じゃそういう方法で影響力をもったほうが強いってことか……。なるほど、塩ほどじゃないが酒なしじゃやっていけないものな。したたかなもんだ」
「桃や焼いた乳酪(バター)みたいな力のある芳醇さだわ。果汁や蜂蜜なんかを混ぜても合うだろうし、こんな豊かなお酒が村にあったら毎日幸せよ……。これの葡萄、育てられないかしら? やっぱり伝統の製法は難しい?」
マヌエラに尋ねられてマリアンヌは少し顔を曇らせた。あわてて覚書きのための紙と小筆を取り出して、マヌエラに質問を返す。
「あの、それでなのですが、マヌエラ先生。マヌエラ先生が住んでいらっしゃるあたりというのは、その……気候、というか……」
「あ、そうよね! 『土地にふさわしい葡萄』と辺境伯もおっしゃったことだしね。作りやすいものは場所の条件によって違うわよね。うーん、なんて言ったらいいかしら?」
それからマヌエラは自分の学校のある村の気候風土をあれこれ説明した。帝国と王国の南北のはざまにあること、王都以北ほどではないものの帝国や同盟の平野部よりも明らかに寒いこと、土地の広さや薪や水には現状困っていないこと、現地ではいろいろ混ぜ物をした麦酒と少しの林檎酒や梨酒を作っていること……など。
マリアンヌは(だいぶごちゃごちゃとした書き方ながら)マヌエラの話をできるだけ聞き書きし、おおかた終わると横に控えていた役人風の男に目配せをした。役人風の男はマリアンヌに耳打ちをし、壁際の保管庫から数本の瓶を運んできた。迷いのない動きに客人二人はおおおと感心した。男はどうやらエドマンド家付きのバクス知識に関する専門家のようなものらしいのだった。
「先生の住んでいらっしゃるところと似た条件の、旧同盟領産のバクスがこちらです。ええと、その……、あまり、いい見本ではないというか……なのですが……」
注がれた二杯めはうすい薔薇色をしていた。旅の途中でも話題になった「薄い色の赤」で、二人は思わず屈んで色を覗きこんだ。
「これこれ、エドマンドの酒屋さんに行ったら聞こうと思っていたのよ。たいていの赤はこのうす薔薇色で、高級なものはとても赤いわよね。白も熟成させると色が変わるけれど、これはほんとのところ何の違いなの?」
「より赤いものが高級なのはその通りです。ええと……長く発酵をすると、色が濃くなるので、旧帝国の名門の醸造所や、東方教会の修道院の……設備が整っているところでしかできないみたいです。だから、高値で」
「あ、そうなの……。なるほどね、発酵を長くするのは保管して熟成するより難しいでしょうから、庶民には無理ね。どれどれお味は……」
ひと口でスルリと杯を乾してから、マヌエラは悲しげに肩を落とした。
「うーん。あまりおいしいとはいえないわね……確かに葡萄のお酒ではあるけれど、香りが薄い感じだし。ちょっとベリーのような、同盟らしい華やかさがあるかしら? 贅沢を言わなければこれでもいいのだけど」
「たくさん飲むには悪くないけどね。発酵が短いってどのくらいなんだ? 大修道院では長く発酵させてたってことだよな」
「修道院や、理魔法を調整して使える人がいつもいるようなところだと、たくさん発酵ができます。この薄い色のものだと発酵は一日とか……」
「一日! でも、確かにそれなら手軽な値で流通させられるわねぇ」
「もっと安いものだと、葡萄を二番、三番搾りくらいまで搾って作るそうです。搾りかすで作るものもあるみたいで、街ではそれも売られていますね……」
「それも喉が渇いたときには必要かもしれないわね。でもそれじゃ麦酒と変わりないかしら……」
「それで、今のものに同盟風に加工を加えたものが、こちらなのですが」
三杯めは二杯めとほぼ同じ色ではあったが、何かの微細な粉のようなものが混じったか少しだけ光を通しにくくなっていた。見た目でいえば少し悪くなったともいえた。しかし杯を手に取った時点でもう感じる違いに、マヌエラは体を揺らして反応した。
「まあ、まあ、刺激的で、とっても官能的な香り! まさしく同盟風だわあ!」
「いいねえ! この干し無花果(いちじく)をつまみにもらっていいかい? はあー、酒に香辛料を入れたことは何度もあるが、こんなに音楽みたいな香りの組み合わせは初めてだよ。甘くて、こくがあって、ぴりっとして……。肉にも合わせたいね」
「よく発酵させたバクスもですが、こうして香辛料で香りづけしたお酒も、流行していて……。香りが弱かったり、あまり評価がよくないお酒も、香料との合わせ方によってはよくなるみたいなんです。養父もお酒を加工して価値をつけることには関心があるみたいで、専門の調香師を募ったり……」
「なーるほどね! それってあたくしの得意分野だわ。もっと聞かせてちょうだ……、ハッ!」
上機嫌で香酒をパカパカと吞んでいたマヌエラが急に目を見開いて止まった。
「いえいえいえ、だめよ。あたくしたちの村までこんな豊富な香辛料が届くわけなかったわ。届くころにはすごいお値段になっているわ。お料理にさえ肉桂(シナモン)と黒胡椒くらいしか使えてないこと忘れてたわ……」
「そう、なんですよね……。あと……、お話をお聞きしたかんじと、地図からすると……、葡萄の実を熟させるには少し……寒すぎるかもと」
「まあそうだよな。旧帝国領に行けばたいした世話もなくても勝手に実ってる葡萄畑をよく見るが、王国で大きな葡萄畑なんて見たことがないものな。小麦と同じでそこはしょうがないのかもね。昔からやってない畑は向いてないからやってないってことだよ」
「ええー! じゃあ結局あたくしのバクス作り計画は初めからご破算だったってこと? ちょっとばかり大変かもとは思ってたけどどうにもならないとは思ってなかったわ」
突っ伏しそうになっているマヌエラの反応を見て、マリアンヌはあわてて言葉を探した。出してきた瓶のひとつを手にとり、新しい杯を勧めた。
「あの、すみません、どうにもならないということも、ないかもしれなくて……。これがお気に召せばと思うのですが……」
「どうにかなるかもしれないのね? 飲むわ!」
「忙しい奴だな……」
マヌエラは音が鳴るほど鮮やかに顔を上げ、マリアンヌに勧められた白バクスを飲んだ。
「ふわ! これは……えっ?」
「なんだなんだ?」
急にあおったひと口を鼻から出さんばかりの顔をしたマヌエラをおもしろがってカトリーヌも杯を手にとった。見た目はごくふつうの軽い色の白である。杯の中の香りをきいたときに事はおこった。
「ん、ンン? あ、これアタシはだめかもしれん。なんだいこの香り? 絶対知ってる匂いだけど、飲み食いするものの匂いじゃない気が……」
「あたくしわかったわ! これ、樹脂よ!」
「樹脂飲んだらまずいだろ!」
「わあ、お二人ともすごい……。マヌエラ先生、そうなんです。これは、松の樹脂で香りづけがされているみたいで、その……、マヌエラ先生のお住まいより、もう少し寒いところで作られたものなんです。だから……」
マリアンヌはその白バクスの詳細をくだんのバクス専門家に説明させた。
いわく、そのバクスはスレンを経由してエドマンド港に入ってくることのあるアルビネ産のもので、アルビネは王国と同等に北にあるため葡萄酒を好んでも葡萄を完熟させることが難しい寒い気候である。完熟していない葡萄は当然甘みが少ないために酒精を作りにくく、したがって保存しづらく酸っぱい品質の悪いバクスになってしまいがちで、それを防ぐために、かつては輸送のため器に塗られていた松の樹脂を添加する製法が伝わっている、と。
「なるほどねえ。やっぱり『なければない!』とか『向いてないから無理!』とかではないわね。人間だもの。教育すればなにかしらできることがあるわ。あたくしはこれ気に入ったわよ。これならうちの村でも作れる可能性があるのね?」
「えー。もの好きだな」
「あら、食べ物は好みだもの。万人向けである必要はないわ。尖ったものでも誰かが好きでしょ。人と人と同じよね。あたくしを好みあたくしに好まれる男性もどこかにいる……カトリーヌだってレア様が大大大好きなわけだし……」
「おい、聞き捨てならないな! レア様は誰にとっても最高のお人だろうが!」
「レア様がだめって言ってるんじゃないわよ! ただレア様はみんなの大司教様だったわけでしょ? ご苦労も誰より多かったし、カトリーヌがレア様を大好きでいることって、どこも無難な選択じゃなかった。きっと大変なことも多かったと思うのよね……、そういう話よ」
「そりゃまあ……、……うん……」
カトリーヌは黙り、ちびりちびりとだけ松脂酒を舐めるように飲み始めた。
静かになった二人がしみじみと飲んでいるところに、マリアンヌは緊張しながらも語った。
「養父は、言います。『若者を育てるのにいい品を贈るのは、土地にふさわしい葡萄の木を植えるのと同じ』……。マヌエラ先生の葡萄畑を応援させてもらえば、今まではバクスを諦めていたみなさんの生活に、バクスを作る文化や、……飲みたい気持ちが生まれます。
先生のもとからフォドラに出ていく子供たちは、きっと……立派な大人になりますから、きっと商品を買ってくれたり、新しい何かを作ったりする人になるはずです。その人たちがいろんな種類の美味しいものやきれいなものを知って、欲しいと思ってくれれば、フォドラに取引が増えます。
そうしたら、フォドラに富と幸せがたくさん増えて……、少しでも、身寄りのない子供たちや、貧しくてつらくて不安で自分のことしか考えられない……人たちが、なんとか、なれる道が……増えるんじゃないかと。私は、そういうことだと思って……」
マリアンヌ=フォン=エドマンドが、人の欲望と言葉を飼い慣らし自領の経済力をフォドラ内外のため活用する能弁な政治家であったことはよく知られている。そんなエドマンド辺境伯のもとにも、その他フォドラの大小の勢力にも学校長マヌエラ=カザグランダは豊富な人材を輩出した。その中に美食家やバクス評論家といった新しい種の職業の萌芽といえる人物たちもいたことは興味深い事実である。
彼らはなんと教師であるマヌエラと、かの自由騎士カトリーヌとともにたびたびフォドラの美食を旅し、また失敗を繰り返しながら自分たちの独特のバクス醸造所を発展させた。
技術や食の愉しみが教会や貴族だけのものでなくなっていった時代、彼らの奔放な試みは人々に少なからず意欲を与えた。その後の時代の華やかな市民活動にも、「松脂飲みも好きずき」というマヌエラの言葉は、あらゆる挑戦をうながす言葉としてたびたび引用されたという。
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