コラムーパエリャ
位置的に作中のヌーヴェル領やオックス領にあたるヨーロッパ南西部、すなわち現在のスペインやポルトガルは現実では中世にイスラム勢力の支配を受けていました。食文化や文化芸術の面でも当時のイスラム世界から影響を受け、米食もそのひとつです。揚げ物とかも。洋食のメニューとして一般的なピラフも東方世界の「ピラウ」という鉄板炊き米料理がもととなっています。
稲作には日本のような水田式だけでなく乾田式の方法もあるのですが、スペインの一部では現在も農地の有効な塩害対策として水田式の稲作が行われています。水が張られていることで海水の侵攻を防ぐことができ、さらに土を酸素にさらさないことで土中に稲に必要な無機栄養素ができやすくなるからです。
日本ではパエリャといえばムール貝やエビ、イカなどの魚介とサフランを米と炊いたもののイメージですが、地元では鳥肉と野菜の猟師風もスタンダードですね。
小説裏話
前回の『キャベツ編』ではクロードと中央アジアの話をしましたが、風花雪月にはしかしイスラム世界的な隣人がいないので米の出所はモルフィスということにしました。これはこの短編の独自の設定です。モルフィスは「神秘と魔法の都」であることや「モルフィスプラム」の存在からなんとなく中華っぽいほうなのか?とか、もしかしてもうちょっと文化が混じってイスタンブル的な何かか?とかいろいろ考えられますが、どっちにしても米はあるかな。米の話ちょっと長いですよ。なぜならおれは越後の国人なので。
クロードが持っていた白っぽい米の保存食は、日本語で言うところの糒(ほしいい、干飯)です。乾飯(かれいい)ともいい、保存食としてのその存在は『伊勢物語』の「東下り」の章で在原業平の「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」という「かきつばたの歌」にみなが感動して「乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり(乾飯の上に涙を落として乾飯がすっかりふやけてしまったほどだった)」と語られたことでも有名です。コンスタンツェのフリーズドライほどではありませんが、ドライ米。ふやけて食べられる。
糒は風花雪月の兄弟作とぼくがいつも言ってる『遙かなる時空の中で7』にも宮本武蔵くんの好物として登場しており、腹が減ったときにいつでも食べられて噛んでると甘いし腹持ちもいい!と大好評。そう、噛んでると甘いのです。現代日本でわれわれが食べている炊いたお米もよく噛めば甘いですが、糒はそれとも少し違います。味わいとしてこれに近いものを手に入れるとすれば、「生米糀(なまこめこうじ)」です。塩糀や糀の甘酒の原料になってるやつ。
生米糀はおおむね「アルデンテの米」のような存在です。ふつうに炊いた米との違いは、「炊いてある」のではなく「蒸してある」ということです。戦国時代くらいまでは米はじゃぶじゃぶの水で炊くのではなく給水させてから蒸すのが定番でした。ふつうの生活で蒸し米を見ることはありませんが、酒造に勤める当方の甘党の身内によると、蒸して発酵させた米はたいそう甘いのだそうです。蒸し米を乾燥させた携帯食が戦国時代には兵糧の一種でもあった糒です。ユーリスは米でどんな甘いものを作るかな? ヨーロッパにはライスプディングなどもありますね。もち米ではないと考えるとせんべいとかは難しいのかな……。
ライス編の話の中心となった「塩害」と人類の戦いは現代においても終わってはいません。古くはメソポタミア文明の衰退も地下水のくみ上げによる塩害の影響が大きかったと言うことです。水流豊かな日本の多くの地域では想像しづらいことですが、乾燥地帯の農業は常に地下水の消費の危険と表裏一体です。
今回のヌーヴェル領は水田ができてよかったですが、カリブの島々のサトウキビや南米のアボカドやアフリカのワイン葡萄などの大規模栽培はその土地の水を搾取し続けており、南アフリカとかチリのワインうめー!って言ってる場合じゃないのですよね。農業って地球の表面を使っててそうそう簡単には回復させられないわけですから、彼らが抱えてる問題は今の我々の問題にもつながっています。
今回の話ではクロードが食欲と利害担当、コンスタンツェが理論担当、ユーリスが民衆の困難担当という感じで頭を使っています。これは原作通りなのですがけっこう紋章の対応するタロットの意味を意識して書いたところでもあります。
クロードのもつリーガンの紋章は「月」、紋章タロット記事シリーズでも既に書いていますが正体不明さや摂食を意味します。アビス組は紋章タロット本に書き下ろしましたが、コンスタンツェの聖ノアの紋章に対応する「法王」のカードは高尚で宗教的な教え、精神の理想形を目指すことを表し、ユーリスの聖オーバンの紋章に対応する「吊られた男」は逆境や窮地の逆転、仲間のために犠牲になる聖者を意味しています。クロードとコンスタンツェとユーリスは三人とも統治者であり、民に対する目線というか体感的な姿勢からして三者三様違うところを感じ取っていただけたら最高です。
風花雪月小説
奇跡の美酒
食文化テーマ短編。戦後、教師として復興を手伝う村で可能な限り理想のお酒を作りたいわ!とマヌエラがカトリーヌとともに各地酒ツアーしてエドマンド領まで行く(13000字程度)
カリード王アンヴァル会談録「キャベツ」
食文化テーマ短編。戦後、パルミラ王ことクロードがフォドラ統一政権の外交官のコンスタンツェとついてきたユーリスにキャベツの相談をする(13000字程度)
カリード王アンヴァル会談録「ライス」
食文化テーマ短編。「キャベツ」の続き。ヌーヴェル領の農地を苦しめる塩害対策にクロードがアジアの知恵をしぼる(11000字程度)
褪せぬ秋の日
食文化テーマ短編。戦後、レスターをまとめる立場になったローレンツが香辛料の流通について修道女メルセデスに相談する(10000字程度)
ヘヴリング文書―土壌編―
食文化テーマ短編。戦後、ガスパール領の地質調査に向かうリンハルトから先生に向けた連書簡(8000字程度)

※コメントは最大500文字、3回まで送信できます