「お待たせ~。いくつか摘んできたわね」
昼食休みが終わり静かになった中庭にメルセデスは茶器と香草の入った篭を持ってきた。取り落とさないようローレンツが香草の篭をひきとると、頭が冴えるような鮮烈な香りがした。執務をしている部屋にこうして草花を飾れたら仕事がはかどるかもしれないと思う。
「待っていて、今、飲み物を淹れるから。苦手な香りじゃないといいのだけど~。いくつかあるから、遠慮せず言ってね」
「お気遣いありがとう」
ローレンツは作法として、急がず、飲み物が供されるまで相談を待った。メルセデスが香草茶に使ったのは摘んできた生の香草ではなく、栓のついた壺に入った乾燥した葉だった。茶出しに入れる際、メルセデスの瞳のような青紫色が見え、愁いをおびて清麗な印象であった。
「どうぞ」
「ああ、なんの香草かは言わないでおくれ。……良い香りだ、ありがとう。いただくよ」
紅茶とは異なる薄い水色(すいしょく)の入った茶器が差し出され、ローレンツは出された香草茶の香りをきいた。どうやら、二つ以上の香草が混合されているようだった。
「ひとつは、ラヴァンドラだね。柔らかで甘い香りだ」
「そうよ~。さすがね。胃痛とか、頭痛とかを鎮めて、心が少し軽くなる香りなの」
「ふむ、他にも、香辛料のような香りがしているが……なんだい?」
「マジョラムよ。知っているかしら」
「品目としては知っているね。料理によく使われているものだろう?」
「そう。食欲が出たり、筋肉が凝って痛いのや攣(つ)るのをよくしてくれる香りよ~」
効能を聞いてローレンツは内心舌を巻いた。机仕事で胃や肩をやられているのを見抜かれて気遣われているのだ。
メルセデスも香草茶をひと口飲むのを待って、ローレンツは話しだした。
「君は香草や香辛料の効能を知って、よく役立てているのだね。
知っているかもしれないが、僕は旧同盟領を通る交易を調整する立場にある。香草や香辛料を含めた、ね。しかし僕自身は、そんなに多種多様な香辛料を日常的に口にするほうではなくてね……。もちろん客人の饗応となれば料理人にとりどりのものを作らせるように用意するし、消化や健康のためにとる香草も好きさ。それは貴族として示すべき栄華だからね。ただ、あまり物珍しいものをたくさん、なんでも使ってみようというのは品がないだろう?」
「ふふ。クロードの話をしてるのかしら~?」
「……どのクロードの話か思い出せないな。なにしろ平凡な名前だから。まあそのどこかのクロードとやらの馬の骨がいるとしよう、慎みというものを知らないそいつの持ちかける取引に、唯々諾々と乗るわけにはいかないんだ、僕は。
値や量を規制するなり、関税やなにかしらの管理を加えていかなければならないのだよ。もっと取引内容について知らねば。当家にももちろん詳しい執政官はいるが、方策を指示するのは僕だからね」
メルセデスはふわふわと相槌をうちながらほほえんで聞いていた。昔は、いくら気持ちよく話を聞いてくれる人だとはいえ、平民の立場である彼女に何かを求めたり弱みを見せたりするのは好ましくないと避けていた。メルセデスが専門知識のある修道士という俗社会とは一線切り離された人間になったことはローレンツにとって新鮮で、喜ばしい面もあることだった。
「そうなのね。ローレンツは今、昔だったら同盟の盟主様みたいな立場だもの。大変な判断も多いのね~。どんな感じのことが困りごとなの?」
「一番の問題は香辛料の相場だね。需要の変化や流通している量によって値が常に動いているのは当然のことだとしても、香辛料の種類によって単位……というか、一樽(ひとたる)あたりいくら、一定の重さあたりいくらという相場の基準自体が異なっていて非常に管理が難しい。まして今は、これまでフォドラで一般に流通したことがないようなものが次々入ってこようとしているんだ。前例に頼ってばかりでいられないのが難題だ」
「へえ。大修道院や大きな教会ならダグザや東方の珍しい作物も育てているけれど、それがたくさん、街のみんなのための市場でも売られるようになるのね~。きっと混合調味料(シーズニング)もいろいろ作られるわ。お買い物をする側としては楽しいけれど……」
「そうなんだ。僕としても、平民たちの取引が盛り上がるのを止めたいわけではない。ただ、香辛料には皆が求める危険な魅力がある。市場に任せきりで何かあったときに値動きや流通を管理するすべがないのでは、貴族としてあまりにも無責任というものだろう? 事実、同じ品目の香辛料でも不可解なほどの高値と安値があることがあって、既に市場に混乱を呼んでいるんだ」
「まあ。それは、どんな違いがあるの~?」
眉間が重くなってきた。困りごとの話が盛り上がってきて知らず知らずにまた肩が緊張してきていることに気付いて、ローレンツは香草茶を飲んで一呼吸おいた。
「どんな違い、か……。確かに、根拠になる違いがあるのかもしれないな。調子に乗った商人が、暴利のためや薄利多売のために行き過ぎた値をつけてしまっているのかと決めつけてしまっていたようだよ。どんな違いが考えられるか、君ならわかるだろうか?」
学生時代に令嬢たちに声をかけて回っていたような、試すような高圧的な聞き方をしてしまっただろうかとローレンツは少し心配になったが、メルセデスはローレンツのぴりぴりした緊張を意に介さず、しばしおっとりと考える仕草をみせた。
「政治やお商売のことは私にはわからないけれど、そうね~。同じ植物からとれる香辛料でも、品質が大きく違うのかもしれないわよ~」
「すまないね。答えてくれてありがとう。……品質、とは、小麦の袋に別の麦や石や虫が混ざりこんでいないかの度合いだとか、加工品が作られる過程や輸送や保管のあいだに劣化していないかどうかとか、あるいは材料自体の格によって決まるものだと理解しているが、そのことかい? 東方で同じ植物を乾燥させた香辛料なら、輸送中の劣化があるくらいかと思っていたのだが……」
「そうね~、たとえば、これを見てちょうだい」
メルセデスは香草を入れてきた篭から棒状のものを取り出した。ローレンツもよく知っている、よく料理のソースに削り入れたり、茶をかき混ぜて香りを移したりする肉桂(シナモン)であった。フォドラ貴族にとってはごく定番の香辛料だ。
「この、シナモンはよくお菓子やお料理に使うわよね~。これには、実は二種類があるの。これと、これよ」
メルセデスが示した二本は見た目同じように見えた。しかし、手に取って香りをきいてみると、確かに若干の違いがあった。
茶や料理の風味に敏感な者なら気付く程度の違いなので、おそらく裕福な貴族の家には両方仕入れられて料理によって使い分けられているのだろう。食べる側は、味の違いには気が付いてもそれが厨房で使い分けられている二種のシナモンによるものだと知ることはないが。
「ほう。ひとつの品目でもいくつかの名前が挙がることが確かにある。多くは特別な品だと思わせようとする無根拠な名づけなので、それをさばくのに神経を使っていたが、こんなふうに繊細な違いがあるものもあるのだね。そして誰にでも判断がつくわけではない」
「ローレンツはさすがね~。この二つはね、かなりお値段が違うと聞いたことがあるわ~。なんでも、こっちのほうはモルフィスよりももっともっと東で南の、妖精の国で作られているんですって」
「イグナーツくんが好みそうな話だ。それほどの産地の違いがあれば、なるほど、似た植物にも違いが出るのかもしれないね。フォドラでいう葡萄の品種の違いのようなものということか……。それは確かに品質が異なる。だがきっと、東方人にフォドラの葡萄の違いは細かくわからないだろうね」
「香辛料の場合は、すごく乾燥していたり、粉のようになっていたりすることもあるんだから、なおさらのことよね~。あとは、そうね~、この三日月茶は……」
メルセデスは茶壺の栓を抜いてそっとローレンツに差し出した。香りをきくと、三日月茶を特徴づける南国の種子の、あたたかい夜のようなやわらかで甘い香りがした。茶葉の中にもその黒い種子や莢(さや)のかけらが混ざっているのが見えた。
もう一つメルセデスが差し出した茶壷に身を乗り出すと、ローレンツは同じ三日月茶の香りをより鮮烈により華やかに感じた。香りが強ければいいというものではないが、明らかに品質の異なる茶葉だった。茶壷の中の見た目も少し異なっていた。色が深く、均一だ。「ごみ」のようなものが徹底してないのだった。ローレンツの家の茶棚にあるものもこちらに近い。
「なるほど。学生時代には、一つめのような安価な茶葉をよく見かけたものだ。これはきっと価値がずいぶん異なるのだろうね?」
「ローレンツは、きっとお家では二つめみたいなお茶しか飲まないわよね~。街のみんなは、三日月茶というと一つめみたいな感じのものを飲むわ。お値段は倍以上違ってきちゃうんじゃないかしら~」
「三日月茶の香りづけになっている香辛料にも茶葉のように、銘柄や何番摘みというのによる品質があるのかい?」
「う~ん、それも、ないとは言わないけれど……。一番は、どんなふうに加工するのか……っていうのかしら~?」
ええっと~、と言いながらメルセデスはまた香草の篭を探った。青々と生の葉の茂った房と、袋をふたつ、小瓶をひとつ並べた。
「これはね~、辛薄荷(ペパーミント)よ。臭みのつよいお肉やお魚を焼くときや、お菓子にも使うスッとした辛い香りのものよね~」
「ああ、これだね。知っているよ。爽やかで怜悧で好きな香草だ。乾燥させていないものはこんなふうに生えているのか」
「生のものも、お酒や夏の飲み物に入れて使うわ~。帝国の氷菓子にもよく使われていたかしら。でも、一番よく使われているのは乾燥のものよね~? この二つの袋がそうよ」
香り袋を手に取ってみると、先程の三日月茶と同様にひとつは強く鮮烈な香りであった。促されてローレンツは中身も見てみた。比べてみると、やはり香りが弱い方が見た目が均一でない印象だった。
「なんだろうか、香りが弱い方がごちゃついているのだね。混ぜものをしてあるということかい?」
「混ぜもの、というよりはね、混ざってしまうのよね~。ペパーミントの香りが出てくるのは、葉のほんの一部からなの。でも、まとめて収穫をして乾かして……という作業を簡単にすると、茎の部分とか、刈るときに混ざった少しの雑草とかも入ってしまうでしょう? この、香りの強い方は、それを手作業で除いてつくったものなのよ~」
ローレンツは感心した。確かに、麦の袋にしろ茶葉にしろ、不純物をよく除いたものが良質とされるが、それはほぼ人の手によって検品されているのだ。多くの香辛料は夢物語の楽園のように語られるほどの遠方から仕入れられており、加えて今までは香りを利用することは貴族の栄華の主張の面が強かったために、その品質や純度を高める仕事について想像が及んでいなかったのだった。
「よいことを教わったよ。つまり、この二つは品質が異なるだけでなく、重さや嵩(かさ)あたりの価値が全く違ってきてしまうということになるのだね? 純度を増すほどに軽く、小さくなってしまうわけだから」
「ああ、そういえばそうね~。ローレンツは取引の基準を作りたいんだから、そこが気になるんだったわね。大変なことだわ~。それなら、これもね」
メルセデスは最後に残った小瓶の蓋を開き、ローレンツに向かって手を伸べた。
「手を貸してくれるかしら~? 香油を塗ってもいい?」
ローレンツは言われるまま、ちょうど踊りに誘われて応じたご婦人のようにメルセデスの手に手を重ねた。メルセデスの両手はローレンツのてのひらを上向かせ、手袋と袖の間にあいた素肌に小瓶の中身を一滴垂らし、布に染みないようすばやくなじませた。すると、鮮烈だと思った香り袋よりさらに鮮やかで目の覚めるような香りが鼻腔に届きローレンツは驚いた。
「ああ、なんて……体の中で鐘が鳴るように響く香りだね。頭が冴えるよ。これはペパーミントの精油ということかな? いや、ラヴァンドラも混ざっているかな……」
「ええ。ペパーミントとラヴァンドラを合わせて、これでも、精油を希釈してあるの~。今の一滴が、そうねえ~、アンみたいに正確な計算じゃないのだけど、ちょうどさっきの香り袋三つくらい、この生の葉の束だったら十倍からできるくらいになるのかしら~?」
「……なんだって? 嵩が減るどころの騒ぎではないね……!」
死んだ植物たちを凝縮し、変わらない永遠の本質だけを薫らせる乾燥香草や精油の神秘性は、なにやら目の前の女性にも似ていた。ローレンツは今更に、途方もないものを相手にしているという気がじわじわとしだした。
「ほとんどの香辛料は今まで貴族の嗜好品としてやみくもに高値で取引されていたが、今後流通が増える以上、品質水準のようなものを定めねばならないようだ……」
「そうね~。特に精油は薬みたいなものだし、品質によって使い方が限られてしまう危ないものもあるから、そういうことになると、教会や領主様からみんなに指導してあげないといけないかもしれないわね~。今みたいに使うときどのくらい薄めるのかとか、塗ってはいけない精油とかもあるし……。今までは、街のみんなには手に入らないものだったから、かえってよかったのかもしれないけれど~……」
「しかし、そのためにはメルセデスさんのように香辛料や香草や加工について知識をもっている役人をたくさん雇わなければならない。可能なのだろうか……? もちろん基準についてはっきりと制定しなければならないし……、先生とも相談をして……」
「ローレンツ」
声とともにふっとペパーミントとラヴァンドラの香が薫った。すっきりと冴えた中に、甘く穏やかにけぶるような優しさの混じった香り。眉間にしわが寄っていたことに気付く。頭痛の感が和らぐ香りであった。自分の中の思考に沈んでいた目を前に向けると、メルセデスが先程ローレンツの手首につけたのと同じ香油を庭仕事に少し荒れた指にまとわせていた。
「私が役に立てるのは、ひとまずこのくらいかしら~?」
「あ、ああ。すまない。とても助かったよ。みっともないところをお見せしたね。忘れてくれたまえ」
「いいえ、なんにも~。お散歩でもしましょう? 植物園を見てもらいたいわ」
石畳を下り、土を靴の裏に踏んで歩きながら、伸びた香草の枝を摘む修道女のヴェールが昼下がりの西日に照らされるのを見る。ローレンツはしばし放心してその背中についていった。陽の色はのどかで香草はおだやかに香り、ローレンツの頭痛は癒された。植物園は霜が降りるまでの準備が進められつつも、まだ青々としていた。
特に常緑のローズマリーの繁茂ぶりはガルグ=マクじゅうにふるまう肉料理に添えても尽きそうにないほどだった。生命力にあふれた花の姿が減っていく季節にあって、ローズマリーは花を咲かせはじめたばかりのようだった。花は華やかな紫みが生のラヴァンドラより少ない、青に近い薄紫だった。乾燥されて香草茶に入っていたラヴァンドラの花にも似た色だ。
ローズマリーの枝を摘むメルセデスを見ながら、ああ、さっきすれ違った男子学生が持っていた草の花はローズマリーだったのか、とローレンツは思い出した。こんな高い空の彼方のような、静かで深い青紫の似合う誰かに捧げるのだろうか。
「改めて今日はありがとう、メルセデスさん。なんとかやってみせよう。僕の活躍を音に聞いてくれたまえ」
「ええ。元気な消息を聞けるのを楽しみにしているわ~。少し休めたといいけれど」
メルセデスはあまり噛み合わないような返事をした。関わった人みなが安らかであることを願うこの人は、政治上の栄達には興味がないのだったとローレンツは少し反省したが、言い直すのもおかしく、自分にできることは貴族として広く人を安んじることであろうとも思ってそのままにした。
「続いていた軽い頭痛がすっかりよくなったようだ。まだまだ香辛料の利用や加工のことは勉強せねばなるまいね。また聞いてもいいかい? 君に手紙を書いて」
「もちろんよ。私は、ずっとここにいるから~」
別の修道院に移ることはあるかもしれないけれど、そうしたら手紙を転送してもらえばいいわね……と、のんびりと言うメルセデスを金色の風が撫ぜていった。遠回しに、どんな男の求婚も受けることはないと言っているようなのをどうとらえればいいのか、ローレンツは複雑な気持ちになった。この人は、苦手だ。見つめていると、俗世を生きる気力を奮い立たせている自分が馬鹿者のように思えてくるから。
淡く輝くこっくりとした真珠の白さのように、植物が傷つけられて流れる透明な血が精油になるように、流転する運命に芳しくほほえんで、彼女はただそこにたたずんだ。手首で温められたラヴァンドラとミントの香が、菜園にさす秋の陽に長く、長く薫った。
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