「えっとえっと……、こ、ここでミルク……ミルクを……!」
「馬鹿が! 粉だ! 粉のほうのミルクだ! でかく書きなおしてやったんだから字ぐらいまともに読みやがれ! チッそこはすぐ捨てろ!」
「だ、だめですだめですぅう全部ダンゴになっちゃいました! ああ~!」
「ハァ!? ミルクだとしてもそんな量を入れるやつがあるか、すべての混合は少しずつだと何度も言ってるだろうがこの!」
「ああ~! あああ~!」
ジョーカーは混乱して生クリームの瓶を振り回さんばかりになっているフェリシアの手首に手刀をくらわせた。転がる瓶。瓶からこぼれ落ちる半分凍ったクリーム。執事は迅速に厨房の床を拭く。もはやあらかじめ足に踏んでいる雑巾で。このメイドもとい破壊神がカカオをだめにするのはこれで通算十回を数えた。もちろん今日だけで。
ジョーカーとフェリシアの二人は透魔の王城の生活用の離れで菓子を作っていた。正確に言えばフェリシアが作ろうとする何か恐ろしいものの誕生をジョーカーが阻んでいた。混沌と秩序の終わりなき戦いの爆風に弾き飛ばされ、他の階下の者たちは厨房に近寄って来ない。アクアの縁で白夜出身の者のほうが多いので、何をそんなに奮闘しているのかあまり知られていないのかもしれない。
2月である。暗夜では近年この時期に愛と活力を与える食物としてカカオの菓子を贈り合う文化が広まっている。フェリシアが主にぜひに贈りたいのでとジョーカーに指導してくれるよう頼み込んだのだ。
「いいか、ここでは湯水のように手に入るがカカオは本来貴重品なんだぞ。おまけに熱して溶かしたら危ない品。そんなものをおまえに持たせてやってること自体を光栄に思え! まあまだおまえはその危ない段階にさえたどり着いてないがな! だってのになんだその被害者面は」
「ひ、被害者じゃないです! 絶対やりとげます~!!」
今まで禁じられていたフェリシアとカカオの組み合わせが、一応にも可能となったのは、ロウラン王城の庭や城下にたわわなカカオの木があったからであった。暗夜でこれをやったら金塊を丁寧に溶かしてドブに流すようなものだなとジョーカーはめまいに襲われる。しかしくらくらしている暇はなかった。
「あら、二人だったのね。これはなんの匂い? 知ってるような気がするのだけれど……」
「アクア様」
ひょっこりとアクアが厨房に顔を出した。ジョーカーはすかさずフェリシアの肩を抱くようにアクアとの間に立つ。それを見てアクアは少し微笑んだ。
「……アクア様、『仲がいいわね』などと思っていらっしゃるのならやめてください、そういう問題ではないのです」
「どういう問題なの?」
「気を付けてご覧ください、フェリシアが菓子を作っているんです。この乳棒がいつあなたの方へ飛んでいくか。お守りしきれる自信はありませんので見るなら自己責任でお願いします」
「まあ、確かに危ないわね。気を付けるとするわ」
「アクア様までひどいです! お豆の破片を粉にするくらいできます!」
「うるせえさっき飛び散った豆が新手の暗器みたいになってただろうが!」
「で、何を作っているの?」
アクアは用心深い様子でフェリシアの手元をのぞいた。フェリシアは不服そうに眉を下げていた顔を一瞬でほころばせてにこにこと乳鉢を見せる。
「カムイ様にさしあげるチョコレートです~!」
「いいか差し上げるだけだ……絶っっっ対にお口には入れねえからな……」
「ああ、チョコレート……この時期だったかしらね」
アクアはぽんと手を叩いた。アクアも数年暗夜の王宮にいたことがある。そのときにチョコレートの菓子の贈り合いを見たり時期のものとして出されたりしたのを覚えていたのだろう。
「アクア様も作っていかれますか、そう難しいことはありません」
「いいの?」
ぱっと上げた顔は明るくてジョーカーはほっとした。アクアはわりに菓子が好きだが、暗夜にいたころの思い出はあまりよいものではないはずだ、それを一部でも塗り替えることができるならよいことだと思った。
「ええ、もちろん。こちらの前掛けをどうぞ。髪をおまとめしましょう」
「ありがとう」
「それでは、私が豆をすり潰して砂糖やミルクと三日ほど練ったものがこちらです。この一部をお使いください」
「ええっ? すごいのね」
ジョーカーが示した湯煎された鍋には既になめらかに練り上げられた濃茶色の液体がたたえられていた。それを別の器で温度を上げつ冷ましつ、状態を整えてから好きな型に入れ、何か埋め込んだり上に細工をするのだと説明する。
フェリシアは乳鉢の中でいじいじとのの字を書いた。そのほうが潰そうと意識するよりうまく豆を潰せていた。
「ううっ……当たり前だけど扱いが違いますぅ……」
「ああ?」
「ごめんなさい私も最初はそれくらい優しくしてもらいました!」
「よく覚えてるじゃねえか。あの量を台無しにされた恨みはちょっと忘れられんぞ……この俺のカムイ様への思いの結晶を……」
「……ここまでにいろいろあったのね」
「失礼いたします」
男の声がしてアクアとフェリシアは振り返り、ジョーカーはすっぽ抜けようとするフェリシアの手の乳鉢乳棒を見事押さえた。
厨房の入り口には、何やら布を結んだ袋のようなものを携えたスズカゼの姿があった。
「皆さんこちらにいらっしゃったのですね。おそろいで」
「スズカゼ。おかえりなさい」
「おかえりなさいませ~!」
「て……てめえ……よりにもよってこんなときに人を驚かせるんじゃねえ。ここは戦場だぞ……」
「? すみません。おや、皆さんのそれは、チョコレート……でしたか? フェリシアさんのお持ちのすり鉢もですか」
スズカゼはフェリシアの手元を見て、こんなふうな手間がかかるものなのですか、心のこもったことですね、と言った。知っているような口ぶりだ。ジョーカーはフンと鼻を鳴らした。
「なんだ、暗夜の女にしこたまもらって帰ってきたってわけか? えぐい薬が入ってることもあるから気を付けろよ」
「いえ、これは愛……も関わる行事なのでしょう? そう聞いて、よく知らぬ方からお気持ちを分けていただくわけにはまいりませんとほとんどお返ししてきました」
「ほとんどねえ」
「ええ。皆さんにもといただいてきています。サイラスさんを訪ねたところにニュクスさんがおいでで」
そう言うとスズカゼは別の作業台の上に包み布とそのまた包み紙をあけた。中には、たくさんの小さな酒瓶や薬瓶のかたちをした洒落たチョコレートが詰まっていた。
「わわっ、わああ~! かわいいですー!」
「なるほど、こうやって鋳造するみたいなことができるのね。自在ですごいわね……」
「中には甘い林檎の酒が入っているそうですよ。ニュクスさんに概要を教えていただきました。恋人たちの行事でもあるそうですね。ニュクスさんは粗忽者にもいろいろ教えてくださって助かります……」
はーん、恋人たちのねえ、サイラスの奴とニュクスがねえ、と内心でつぶやきながらジョーカーは瓶型のチョコレートを眺めた。スズカゼはニュクスのもの以外にも、カムイにと預かってきたというエリーゼからのドライフルーツのチョコレート、同じく酒入りらしいカミラからのチョコレートをジョーカーに預けた。
フェリシアのカカオすり潰しをスズカゼが手伝ってやってくれるというので、ジョーカーはありがたく危険物の取扱いをまかせた。こちらはほとんど手がかからないアクアの補助をしつつ、牛乳をあたためはじめ、その横で自分の作業を再開する。上の戸棚を開けチョコレートを出す。
アクアは湯煎から取り出した少量のチョコレートを目にとめた。
「まあ、色もつけられるの? きれいな赤ね」
「木苺です。埋め込んでもありますし」
「あっやっと見られました、今年のもジョーカーさんのチョコレートはきれいでおいしそうです……」
「おまえが何するかわからんから夜中にやってたんだ、わかったら見るなこっちに注意を向けるな関わるな」
ジョーカーのたったひとつのチョコレートは既に概ね成型してあったが、縁に精緻な模様が彫られ、宝石のように小さなベリーが散らされ、これから桃色に染められたホワイトチョコレートで浮き出るような薔薇を描くところだった。小さな刷毛でチョコレートを塗り重ねているジョーカーの燃えるような目を見て、アクアは苦笑する。
「……つまり、カムイにあげるものなのね」
「はい。もちろんです」
「ジョーカー、いるー?」
厨房の外から声が響いた。皆がああカムイだ、と気づく間に、ジョーカーは目にもとまらぬ速さで牛乳をかけていた鍋を火からおろし廊下へ飛んでいった。
「カムイ様!」
「あっ、いた。ジョーカー」
執事の姿をみとめて素直に寄ってくるカムイの歩みをジョーカーは必死の形相で止めた。
「カムイ様、こちらは危ないですから、どうかこれ以上近付かないでくださいませ! なぜ呼び鈴を鳴らしてくださらなかったのです」
「えっ。危ない? なんだかみんないないし、いいにおいがするんだもの。においのするほうに来てしまった。チョコレート?」
「ああ、お寂しい思いをさせて申し訳ありません。もうすぐホットチョコレートをお持ちいたしますからね……」
「そう? じゃあ待ってる」
悲壮な声にはアクアは入れてもカムイを絶対にこの戦場に入れるわけにはいかぬ、という覚悟がにじんでいた。そこまで危険じゃないです、とべそをかくフェリシアの手から乳棒がすっぽ抜けたが、スズカゼが敵の暗器のように勢いを殺してつかみ取ったので事なきを得た。
なんとかカムイを追い返したジョーカーはすぐ牛乳を火にかけ直してチョコレート液を溶き、糖蜜酒を加えた。それを固形チョコレートを底に入れたカップに注ぐ。あらかじめ用意された絞りからクリームを盛り乾し葡萄を細かく刻んだものを散らす。そして自分のチョコレートに覆いをかけ戸棚の高ーいところにしまった。その一連の動きの息もつかせぬ流麗さをアクアとフェリシアは口を開けて見ていた。
「アクア様、問題ないでしょうか? ええ問題ないですね。あとはフェリシアの手の届かないところで冷ませば完成ですので」
「ええ、ありがとう。カムイのところに行ってあげて」
「恐縮です。いいかフェリシア! 俺のを万が一にもかまって壊してみろ、もう一度豆の収穫からやり直させてやるからな」
破壊神を睨みつけてジョーカーは早足にカップを運んでいった。遮るものがなくなったので、アクアは自分のチョコレートを盆に載せしずしずと破壊神から逃れ、人の好いスズカゼだけが恐怖の戦場に残されたのだった。
→次ページへ続く

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