アクアとカムイが整備した移動用の泉で、カムイには内密に白夜に渡ったジョーカーは、白夜王都のはずれにある社に隠されて管理されている泉から市場に向かった。
白夜王都は海にほど近く、毎朝漁船から多くの活魚鮮魚が運ばれてくるのだという。しかも白夜は夜明け前でも手元がわからぬほど暗くはならず、うっすらと空は白い。みどりの山々から流れてくる水で海の生き物も健やかであろう。明け方の市はただなかに入らずとも魚のたてる水しぶきと仕事をはじめた人々の活気で高揚感に満ちていた。
「おお、ジョーカー。久しいな!」
男物のような薄青の袴をつけた炎色の髪の人が、緋の羽織から白い腕を突き上げて手を振った。一日早く連絡に出たスズカゼが、ジョーカーの来訪予定を伝えたのだろう。相変わらずよく通る声である。早朝の澄んだ空気に発散されるような凛々しさに、道ゆく女性が何人か振り返って見る。市の大通りの端のほうで待っていたのはヒノカであった。
それでもお忍びなのであろう、ジョーカーは近付いてから返事をした。
「お元気そうで何よりです。……ヒノカ様、お一人で? このような雑然としたところ」
「むう、おまえは口うるさいな……。大丈夫だ。料理はできんが、生鮮市は私の庭なのだぞ。アクアもたまに連れ出すと喜んでくれたものだ。あいつは意外と食べるのが好きだからな……。見ろ、目的のものをもう目利きしてきたぞ?」
言ってヒノカはずいと手桶を見せた。潮の香。中に赤褐色の生き物が動いている。
「これですか」
「ああ。兄様の鎧兜に似ているだろう?」
「それは言っていいやつなのですか? 食べ物に似ているなど」
「何を言う。むしろこいつが白夜武者に似ているのだ。だから縁起のよい、勇ましい生き物なんだぞ。ぜひともカムイに食べてもらわねばな」
カムイの名を口にするヒノカの頬はつやつやと輝いている。それを見てジョーカーはいけないと思いながらも対抗意識を燃やしてしまう。カムイを守りたいと思っている同志として、自分の持たない権威の力を補えればと思って作法の指導をした仲だが、姫としてのヒノカは有力なカムイの花嫁候補でもある。
「……そうですね。ぜひカムイ様に『食べさせて』さしあげたいものです。……ヒノカ様、お一人で大丈夫なのですね? さて、私もよいエビを探してきますか……」
「待て。海老ならここにあるではないか! これはよいものだぞ。これをカムイに食べさせるがいい。足りぬのならば、これからわたしが付き添って選んでやろうと思っていたところだ」
「いいえ、ヒノカ様のお手を煩わせるわけには。ぜひ市を楽しんでいらっしゃってください」
にっこりとしたジョーカーの棘に気付き、ヒノカは長身をにらみつけた。
「きさま、私の海老をカムイの口に入れぬつもりだな。前々から思っていたが、おまえはあまりにカムイに過保護だぞ! 姉の贈ったものはさすがに信用できるだろう。だいたいなんだ、その、『食べさせてさしあげる』だと? 私もそんなことは子供のころ以来してやっていない!」
「過保護で結構ですし、ヒノカ様よりカムイ様のお世話をしていて当然です。執事ですから。ヒノカ様はアクア様へのおみやげなどお選びください。喜ばれることでしょう」
アクアの名にヒノカは目の中の炎をいっとき静めた。
「む、アクアへの……。確かに、先月アクアから菓子をもらったのだったな。何やら城下の女性たちにも似た菓子をたくさん……せめてアクアには返さねばまずいか」
なるほど白夜王都にも二月のカカオ菓子の習慣は広まり始めていて、ヒノカは女性人気が高いのだな、アクア様だけでなくカミラ様もヒノカ様は大好きだしなとジョーカーは納得して歩き出そうとした。するとヒノカの鋭い目がふいに市の通りをにらみ、
「その鯛、買った!」
ヒノカが指さしたのは今まさに横を運ばれていこうとしていた木桶であった。その気迫と一同聞きほれるような潔い声にジョーカーもあっけにとられて足を止める。そうしてから、その木桶を持った男が『入ったばかりの活き鯛だよ』とかなんとか言っていたのだとやっと思いいたる。
「毎度! きっぷの良いお侍様、どの鯛で?」
「このひれのいいのだ。よい鯛だな。三百で買おう。入札は要るか?」
「いいえ、お侍様の目と気合いに張る買い手はいねえや。三百ならいいやつをもう一尾おまけしましょ!」
「ありがとう」
新しい木桶に仕切りをつけ、ヒノカは鮮やかに二尾のみごとな鯛を手に入れた。さすがに格好良いようすに歯噛みするジョーカーをちらりと見やり、昂然と顎を上げる。
「ふ、おそれいったか? 市は度胸と目利きの世界なのだ。私はもうアクアへの礼を手に入れたぞ。カムイの海老もおとなしく私にまかせるがいい。この姉の働きをカムイに捧げよう」
「……お見事なことで。ですが私もエビの目利きはよく勉強してきましてね。ヒノカ様に比べたらそれは武勇もなにもない使用人ですが、カムイ様を思っての度胸ならば誰にも負ける気がしません」
「ほう……?」
ヒノカは天馬武者隊の指揮をするときのように片腕を勇ましく突き出し、緋の袖をひるがえした。ただごとでない覇気に、こんなところで果たし合いでも始まるのかと市場の商人たちが注目する。
「ならば勝負だ、ジョーカー! これからどちらがこの市で最良の海老を手に入れるか。タクミも母様と同じでたいそう海老が好きだ、タクミのよいと言ったほうを勝ちとし、それをカムイに食べてもらうこととする。私のカムイへの思い、とくと知るがいい!」
「ええ、お受けしましょう。申し訳ありませんが私のカムイ様の思いは世界に並ぶものはありません。確かそちらの神仏には、ウケイ、でしたか? 『この思い世界一ならばこの勝負勝たせたまえ』のような占いの方法がありましたね? それを神にかけるならばこの勝負いただきました」
「むうう」
二人は一瞬火花を散らしてにらみ合い、すぐに市場に向き直った。
「さあ、朝の市場に理屈のいとまなどないのだ。行くぞ!」
「見てろよ!」
「はああああ!」
「うおおおおおお!」
桶を預けたヒノカとジョーカーはいよいよ明るくなってきた市場に駆け出していった。
仕入れや目利きでない一般の客が市に入り始めるころ、ヒノカとジョーカーはそれぞれ海老の入った木桶を片手に通りの端に戻っていた。ヒノカの桶からは立派な兜を思わせる赤色がたまに顔を出している。塩水が緋の羽織にはねるのもかまわずまっすぐに仁王立ちをしているさまはまさに紅の戦姫である。
「さあ、ジョーカー。その一匹で後悔はないか」
「はい」
「私の海老を見るがいい。この大きくしっかりとしたあざやかな頭を。筋肉を感じる尾の動きを」
「そうですね」
闘志燃えるヒノカと対照的にジョーカーの反応はあっさりしていた。具合でも悪いのかとヒノカは憑き物の落ちたように静かな顔を覗きこむ。
「ジョーカー? 体調が悪いのか? 旗色が悪いのでおとなしいだけか?」
「そのことなのですが、ヒノカ様」
「ああ」
「私の負けでよろしいです」
ヒノカは勝負を投げられた侮辱に一瞬眉をつり上げたが、しかしジョーカーがカムイのことで折れるなど、という心配がまさった。
「おまえ……」
「ああ、言い方が……良くありませんでしたね。というかヒノカ様のエビのほうが普通にお見事です。やはりその道に優れている方のお力を借りることは必要ですね。おみそれいたしました」
「な、何を言う……。おまえの海老もよいものではないか。ともにタクミに見せにいこう。もうすぐ牛車が私を迎えにくる。それにおまえも乗って……」
「いいえ。勝敗よりも、早くカムイ様のもとにお届けしたいのです」
ヒノカははっと目をみはった。
「あなたに負けまいと必死で市を駆け回って、そのうちに何やら毒気が抜けました。カムイ様に喜んでいただく、それだけが大事なことです。最近私は平和の中でカムイ様のお世話をする幸せが過ぎて、ある種の欲求不満だったようですね。ヒノカ様のおかげで気付けました。
……本当によいエビです。ヒノカ様のカムイ様への思いは並ならぬものですね。これからも、カムイ様のため、よろしくお導きください」
「……なんだそれは。おまえのほうがカムイの身内のようではないか……」
悔しげな、複雑な顔でヒノカは下を向き、手に持っていた桶を下ろした。それを引き寄せ、ジョーカーは微笑む。
「身内というより私はカムイ様の手足のようなものです。手足は、主のことを大事にしてくださる方を攻撃したりしないものでしょう。素直で優しい方ですから」
ジョーカーはアクアへの鯛の桶と、海老の桶をひとつ手車にのせ一礼した。
「ヒノカ様の選んだエビと言えば、カムイ様は喜ばれることでしょう。それだけで私は十分です。お先に失礼して、あちらへ帰りますね」
「ジョーカー、待て……!」
「では、皆様によろしくお伝えください」
颯爽とジョーカーはきびすを返し、にぎわい始めた通りを姿勢よく分けていこうとする。ヒノカはその肩を後ろからつかむ……。
「待て! 待てったらそれ、それは私の海老ではないぞ待て待て待て」
「……ち、ばれたか……」
ヒノカに本気で肩をつかまれジョーカーは足を止めた。ヒノカはあわてて前に回りこみ海老の桶をとりあえず全部手車にのせる。
「きさまぁ!」
「……というのは冗談として」
「嘘だ! 本気だったぞ今のは、油断も隙もない奴め!」
「お褒めにあずかり光栄です」
ジョーカーはにっこり笑うと今度こそヒノカの大きな海老を残してほかの二尾をヒノカに渡し、ヒノカ様の最初のと私の選んだエビはタクミ様にさしあげてください、と言って今度こそ去っていった。
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