「ジョーカー、すぐ帰ってくる。かならず予定通り帰ってくるから待ってるんだよ」
「お留守はお任せください、カムイ様。……でももし帰られないときは……私は……」
「だめだ! 今度はリリスはいないんだよ。もしジョーカーが飛び出してきて何かあったら僕は……」
「カムイ様……」
「ジョーカー……」
「……たった二日の外出に何をやっているのあなたたち」
うるうると見つめ合いだした主従の手を、きりがないのでアクアはひきはがした。
カムイのいつもより豪奢なマントが揺れた。カムイとアクアのふたりは、暗夜の冬の終わりを祝う祭に招かれているのだ。アクアの天馬と、サイラスが選んだカムイの馬がすでに泉のそばに待機している。カムイ一人の外出ならばジョーカーが供をすることも多いが、城主ふたりが留守にするとなればジョーカーは執事として城を預からなければならない。
「ごめんアクア。……前に、ジョーカーと長いこと離れてたときも、少し行って帰ってくるはずだったんだ。ついそのことを思い出して」
「……そうだったの」
「ううん、でも大丈夫だ。兄さんたちにも会いたいから。行こう?」
カムイは恥ずかしそうに笑いながら、しかしまだ不安そうにちらちらと執事のほうを見ていた。あからさまに後ろ髪を引かれている様子が愛らしくも、ジョーカーは姿勢を正して見せた。自分は立派に留守を預かると、安心させてやらなければならない。
「行ってらっしゃいませ。ジョーカーはお帰りをお待ちしております」
凛々しく胸を張った執事を見てカムイはほっとしたようだった。従僕に馬を引かせ、行ってくるよ、と見返った横顔を、ジョーカーは食い入るように見つめた。
主家族が不在の城というものは、少し違った世界になる。
貴族と使用人の別の大きくない白夜の者にとってはそうでもないようだが、暗夜の城にとってそれは階下の影の世界がすべてになることを意味していた。主のために灯される灯りはなく、主の出入りする場所を快適に保つために運ばれる薪や、美しく盛り付けられた料理の配膳もない。時間で区切られた仕事の予定が極端に減るので、最低限の設備の保全やまかないの食事のほかは使用人たちはかなり好き勝手にふるまう。
カムイとギュンターと、フェリシアはまあものの数でないとしても、辺境貴族の人質としての特殊な奉公人であるフローラもいなくなった北の城砦も、しばらくの間まさにそんな状態だった。あの城ではなお、灯りを運ばぬ石壁の中は死んだように暗く冷たかった。ジョーカーは城砦自体の使用人頭である職分には関心がなかったので、カムイの部屋と、カムイのお気に入りの書庫、その他これはカムイの所有物であるというものを守る以外にはカムイの部屋でぼうっとしていた。使用人たちはジョーカーが目を光らせているものを早々に要領よく悟り、それ以外のうす暗闇で大っぴらに乳繰り合ったり城のものに手をつけたりしていた。
今のこの、透魔の新城の使用人たちはさすがに荒んだ暗夜の屋敷使用人とは違い、日々の業務を穏やかにこなしていた。主のための灯りをともさなくとも、春の静かであたたかな日がのぼり、さわやかな風が過ぎる。それがかえって、人間の気配のないうららかな廃墟であったころに戻ったようでもあった。
数日の別れを惜しんでたっぷりと抱かれた夜の疲れと、主の不在の脱力感から、ジョーカーは廃墟の陽の中窓を開けて、夕時から昼過ぎまでだらだらと眠った。
「カムイ様。もう八つになられたのですから、いつまでも野菜を残されるのは許しませぬぞ」
一人でテーブルについた小さなカムイは、目の前の皿を見ずに下を向いて首を横に振っていた。皿の中には、ほんの少し切られてフォークに刺さっているほかは手つかずの、温野菜のニンジンだけが転がっていた。
「一口ではありませんか。好き嫌いをしては強い体が作られません」
「……いやなにおいがするんだもの」
「食べずに何を言っているのです。毒味をいたしましたがよい味でしたぞ」
「とにかく食べられないの!」
「駄目です。ならば味は気にせず、息を止めて食べればよろしい。それを食べるまでずっとついております」
最終的にめそめそとしだすカムイにギュンターがなかば無理矢理ニンジンを食べさせるのを、食器を下げるために部屋の隅で待っているジョーカーはどうすることもできず見ている。食器を下げて片づけてから、読み聞かせの本を持ってカムイの部屋に慰めに行っても、嫌がり疲れてくったりと落ち込んでいるカムイはいらないと言うのだった。ジョーカーはギュンターに食ってかかる。
「ニンジンが食べられないのがなんだってんだよ。あんなにご機嫌を損ねて、おかわいそうに。あんたの強情のせいで夜の読み聞かせをいらないって言われただろうが!」
ギュンターは振り向きもせず、無言で飛んできた鞭の横薙ぎをジョーカーはなんとか受けた。カムイにいらないと言われてもやもやしているところに、追い打ちで屈辱と痛みが混じる。
「いって……! 何しやがる! 八つ当たりか?」
「八つ当たりはおまえだろう。何もわかっていないな」
ギュンターは峻厳に顔をしかめていた。ジョーカーにはわからない。自分がお坊ちゃんをしていたころには、食べ物の好き嫌いなどやんわりと言われる程度で見逃されていた。まして王子様など、よほどの偏食でなければそれが許されるはずだ。
「いいか、食事は、カムイ様の血となり肉となる。ニンジンだからどうこうという話ではないのだ。いつかおまえの主が戦場に立つことになったときを考えるがいい。そのとき、食べられるものは普段口にし慣れぬものかもしれん。そこでためらうことが血肉を弱め、命にかかわることなど、いくらでもある」
ジョーカーはそのとき初めて、戦に行ってしまうカムイを想像した。カムイが外に出たら、自分が守ろうと思っていた。しかしカムイは王子であり、王族は戦の先頭に立って指揮を行うことも多い。そのとき、ここに残されて、あるいは一人では御身を守れず見失って、その先で主がもし、と考えると、怖くなった。
青くなって唇を噛んでいるジョーカーにギュンターは厳しく言った。
「おまえにまことの忠誠があるならば、カムイ様のご機嫌ではなく、カムイ様の御身を守れ。そのために、『嫌なものであれ自分は食べて滋養にすることができる』と、カムイ様に学んでいただかなくてはならない。違うか? ……」
昔の夢から醒めてジョーカーはのそりと起き出した。
ブーツをはいて出るのは、小さく他と隔てられた庭だ。薔薇、林檎や柑橘のまだ小さい木、ローズマリーの植え込み、花壇にただの茂みのように見える緑はすべてハーブ。美観をあまり考えないそこは生命力にあふれた、無国籍な森のようでもあった。人の声はしてこない。小鳥が、ベルガモットの木の枝で鳴いている。
カムイが透魔の王位につくにあたって小さな生活用の新城を作っていたとき、ジョーカーは城に何かほしいものはないか、と聞かれた。
「ジョーカーは、僕といっしょにずっとここで暮らすんだ。そうだろ? 何かおまえだけのものを贈るよ」
仮の図面を見ながらカムイはうっとりするような声で言った。ジョーカーは幸せをかみしめながら、少し考えて図面を指でなぞった。
「では小さな庭がほしいです。このくらいの」
「え? 本当に小さいね。庭を作るなら、このくらいはいるんじゃないのか?」
「いいえ。カムイ様用の紅茶の香料と、ハーブを植えます」
それじゃジョーカーのというより僕のじゃないか、とカムイは困った顔をしていた。けれども、カムイの口に入るものを自分で育てるうららかな庭は、ジョーカーにとってどんな美しく丹精された庭園よりも楽園だった。
ジョーカーは月桂樹の枝を折り、パセリ、タイム、エストラゴン、出始めのセロリを小篭に摘んだ。まるで花束を携えているように。それを厨房にそれぞれ乾し、ついでに適当に使用人の食事用の鍋のものを腹に入れた。寝すぎて体が固まっていたのでまた庭に戻ってすっきりするまでと一人で体術の稽古をしたが、どうにもけだるさが残り、結局夜になってしまった。
「カムイ様が……いないから、まあこんなもんか……」
ほとんどその日初めて言葉を発して、ジョーカーはかすれた息を吐いた。水浴びをして濡れた銀の髪をひと房月に透かしてカムイを思い、髪を拭いてまた眠った。
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