リョウマたちは本当に鯉釣りだけで茶も飲まずに帰っていった。誕生祝いの返礼の酒は渡されたので、さっそくその次の日の試作の煮つけに使うことになった。
「さあ、やりましょうか」
翌日、釣った鯉たちを城の水槽に放したものを鑑賞していたアクアは、ジョーカーが鯉をとりに来たので料理にそなえて髪をくくり上げた。ジョーカーは気まずそうに目を伏せた。
「アクア様、教えていただく予定でしたが、やはり私一人で」
アクアは沈んだ様子のジョーカーを見て、なんとなく察し、髪をおろした。
「わかったわ」
「わがままを言って申し訳ありません」
「いいわよ、煮汁の作り方は昨日教えたし、手順も……。厨房はジョーカーの城だもの。カムイの食事を用意するのはあなたの仕事よ」
私の釣ったのも煮てくれていいわ、と言ってタモを手渡しアクアは立ち去っていった。ジョーカーは一人にしてくれたアクアの背中に深く礼をして、カムイの釣ったまるまるとした鯉はなにやらカムイ自身のように可愛らしいので残し、しかし自分の釣った大物も翌週リョウマが訪れるときの会食のために残し、結局消去法でアクアの釣った鯉を選んですくいとった。
湖、池、川の浅い底に棲んでいる鯉は泥を食っている。そのため一日のあいだ真水の水槽に放して泥を吐かせておいた。まめにえさをやれば、観賞魚として飼うこともできるだろう。
すっかり無色透明の水の中に安住した、うろこの大きくそろった黒い魚は美しい。布飾りに描かれるのもうなずける。これを、鯉のぼりの円筒形を六七切れにするように筒切りにする。
ジョーカーは布巾で鯉の頭をつかみ、調理台に乗せた。とたんに己の運命を悟ったように暴れ出すが、迷わず首をおさえ、包丁を上下逆にひるがえして頭頂を狙う。
「はっ」
きれいに包丁の背の一撃が決まると、鯉はおとなしく気絶した。動かなくなった身をすばやく横たえ、尾びれのそばから鱗を逆立てるように、皮との結合部分とともに削ぎ取っていく。薄皮の下に見える身はぷるりとして、剥がれた鱗は美しい蛇皮をもっと規則的にしたようだった。鱗を剥がれた身のほうは白色になり、竜のカムイの肌に似ていると思った。
頭の近くの腹には苦玉と呼ばれる内臓があり、苦みと毒性があるのだという。頭を落とし、教えられた位置を避けてひとつめの筒を切ると、中から内臓と件の緑色の玉が出てきた。注意深く除去し、残りも筒に斬る。
さばき終えるとすかさず沸いた湯に入れてアク出しをする。そこで一息つき、手と調理台を洗ったジョーカーはリョウマから贈られた酒の封を開けた。封、というか、小さな樽にほどこされた装飾と木蓋をとった。よい香りのする白木でできた樽には、それこそ鯉に泥を吐かせた真水のように無色透明な酒が入っており、暗夜の酒とのあまりの差に驚いてしまう。
本来なら樽を開けてすぐにカムイに出すものなのだが、カムイは酒に弱く酒精があるままでは呑めない。料理に使う前の毒見と味見のため、付属の木の柄杓でジョーカーはほんの少しだけ小皿に酒をとった。昨日アクアと煮汁を作るために使った白夜の酒はまだ黄色みがある気がしたが、これは見た目だけでは清い水にしか見えない。しかも、基本的に米と水でできているものだというのに、なぜかほのかに熟した果実のような香りがする。
「メロン……のような、いや、瓜じゃないな。林檎……?」
好きな香りに誘われて舐めるように飲む。……甘い! しかし、どろりとしているわけではなく後味はすっきりとしている。ありえないことだが、果実の香りの移った清水のうまみを冷たいままに凝らせたようだった。カムイ様に飲ませたい、とまず思うが、飲ませるわけにはいかないのだった。そのぶんおいしく煮なければ、とさらに思った。これはよい酒だ。ジョーカーは自分好みの佳い香りを味わって沈んでいた気分を持ち直した。
白夜の魚介の煮つけは簡素に洗練されている。まず煮汁を沸かしたてるか、今回のように先に身を湯で煮てしまうかして、沸騰したところから味を染み込ませる。ジョーカーはアクの出た鍋の湯を捨てて水、酒、それに砂糖と醤油をアクアに指示された甘辛い比率で加えて、ふたたび火にかけた。暗夜で料理にワインを使うのは臭み消しや香りづけ、そしてそもそも飲用に美味な水が少ないゆえの手段だが、白夜の酒は臭み消し以外に、甘み、うまみ、味しみを増す調味料としての機能をするという。この酒ならばそうだろう。
加えた調味料が煮立ってきたら、焦げ付かせないよう火を弱め、それが照りになるまで、すくっては煮汁に浸っていない上からかけていくのをくり返す。量もあるので根気のいる作業だ。もちろんジョーカーはカムイのための作業が大好きなので普段なら問題ないのだが、今日はなにか、あまり鍋を見つめるとあの澄んだ酒の味に自分の雑念が混じりそうで、熱中すべきではないと思った。
カムイ様においしいと言ってほしい。おまえの味が好きだと言ってほしい。
いつも何度も言われているけれど、こんなことは主の向けてくれる気持ちへの不忠だとわかっているけれど、それでも今日も明日も笑顔とともに言われなければ安心できないような気がする。望んでしまう自分が嫌になる。自分は主の寵愛や、どうすべきだなどということを当然のように思っていい立場ではないし、そんなふうに大事な主を扱いたくはないのに。……
「くそっ……、なんなんだ今日は……」
ジョーカーはどつぼにはまっていく心を鍋に込めないよう、手元がわかるぎりぎりまで顔と体をななめによけた。醤油と酒の芳醇な香りがカムイのもとにもに届きはじめていた。
「こちら、昨日の鯉の煮つけでございます」
「わっ、大きい」
「まあ、上手にできているわ。さすがジョーカーね」
配膳すると見た目とにおいからしてカムイは喜び、アクアを見た。アクアは何も聞かず微笑む。『アクアの魚の煮物好きだって覚えててくれたんだね』『そうよ、私が教えたの。さあおいしく食べて』というような意味あいを、目と目で会話しているのだ。姉弟よりも親密な、双子より双子のような空気は普段は幸せで美しいものとして目に映る。普段ならば。
「ジョーカー、これは僕の釣ったやつだよね?」
目をきらきらとさせて見上げてくるカムイにジョーカーは行儀のよい苦笑を返してみせた。
「違います。アクア様の釣ったものです」
「ええっ、どうして? リョウマ兄さんが来るときは大きいのを料理するんだろう」
「カムイ様が釣った鯉はかわいらしいので……」
カムイは呆れた息をついて眉を下げた。
「もう、そんなんじゃ、僕のとってきたものをいつまでたってもジョーカーに料理してもらえないじゃないか……」
それからカムイは好きな味付けだ、いい香りもする、とうまそうにぺろりと食べ、つつがなく食事は終わった。箸をおいたカムイは振り返って見上げてきた。ねだりごとをするときの表情で、ジョーカーは嬉しく安心するが、同時にだめです、とも思ってしまう。主の頼みを聞くことを不安の解消に利用するようで、それは嫌だと思ったのだ。自分から主を守りたいと思うこともときどきある。
「ジョーカー、煮つけはまだあるのか?」
ジョーカーは少し安心した。おかわりを望まれているだけならば問題ない。
「ええ、まだ残っていますよ。お持ちしましょうか?」
「うん。部屋で、ジョーカーといっしょに食べたい。もう食事は済ませてしまった?」
ふたりでテーブルについて食べたいということだろうか、とジョーカーは了解する。カムイは昔から気に入りのものをジョーカーと食べたがるが、立場を慮ってふたりきりの厨房を一時しめきったり、部屋に招いて鍵をかけてくれたりするのだった。
誰もとがめる者のなくなった今でも、秘密の時間のように閉じた場所で従者と同じものを食べたがるカムイを愛しく思い、ジョーカーは微笑んだ。
「いいえ、まだです。喜んでお相伴にあずかります。では少し後、早めのお夜食に」
「うん。待ってる」
すぐ行く、と言わないことが、食後の腹ごなしの時間という意味にそのまま抱かれるかもしれぬ準備を整えることを隠しているのだと、気付いているのかいないのか、カムイは艶めく上目で答えた。
「失礼いたします。カムイ様。お夜食をお持ちしました」
「入って」
私室に入るとカムイは座れというように長椅子の隣をあけてゆったりとくつろいでいた。しかしその前の机に、いまだかつてこの部屋にあったことにない造形物がありジョーカーは戸惑った。――例の、小さな酒の樽だ。
「甘い匂いがするね」
魚の載った皿を机に置いたジョーカーに隣をすすめ、カムイは鼻をくんくんさせて言った。柄杓や、注いで飲むためのものとみられる器はあったが一人で飲んでいたというわけではないようでジョーカーはほっとした。
「甘いですが、カムイ様は飲んではだめですよ」
「ううん、ジョーカーに飲んでもらおうと思って。……これ、いい香りだろう? ジョーカーは好きかなと思ったんだ」
ジョーカーは主が一緒に煮魚を食べたいと言った意図がわかって困った。つまり、酒のつまみによい味だから、晩酌をともにしようというのだ。本来なら断る理由はないが、カムイは酒を飲めない。見ると作り置いてあった檸檬水を自分用に用意している。主が酒を飲まないのに、従者が飲んでいる状況というのはおかしい。
「お言葉ですが、主に御酒を勧められるにしても、自分だけ飲むというわけには。しかも酌をさせるようなまねを……」
たしなめるとカムイは眉を下げた。
「確かにおまえは、困るかなとは思った……。でもジョーカー、このお酒は好きじゃないか? ……僕ばっかり酔っぱらってるところを見られて、なんだか恥ずかしいし、おまえが酔っているところも見たいんだ……」
「……私はあまり酔いませんよ」
ジョーカーはすねたようなカムイに苦笑を返した。成人したばかりのころ、ギュンターに自分の限界を知っておけと懇切丁寧に潰された。壊れたようにカムイ様カムイ様とばかり繰り返す醜態をみせたそうだが、そのときも本当にしこたま飲まされてやっと酔いつぶれた。好んで酒を飲むわけではないが、そのおかげか、以降酒を飲むことがあっても明らかに酔ったということがない。おそらく人より酒には強いのだ。
「それでもいいんだ、白夜にはね、酒のさかな、っていう言葉があるんだ。お酒にあうものの代表として魚の名前は呼ばれてるんだよ。こんなに甘辛くておいしい魚の煮物なんだもの。僕はお酒を飲めないけれど、ジョーカーにそのおいしさを味わって教えてほしくてさ……。
やっぱり、ちょっと、いやかな?」
遠慮がちな口ぶりに、ジョーカーは主が無理矢理に呑ませぬよう気遣ってくれていることに気付いた。もちろん、夜食をともにするばかりか、主の前で自分ばかりが酒を飲むなどほめられたことではないが、無理強いされて言いたいことを我慢してそばに仕えていると思われるのは心外だった。
「嫌などではありません。本当です。優しいお気持ちはうれしく思いますが、私にはそんな気を遣わないでください。ただ、私が酒を飲んだら誰がカムイ様をお守りするのかと思ったまでで」
「僕は酔っぱらわないんだから、大丈夫。それにそんなこと言ったらふたりで裸になってるときのほうがどうするんだ」
確かにそうだとジョーカーは恥じ入る。カムイに抱かれて夢中になっているときなど、酩酊しているどころの騒ぎではない。
「では、……はなはだ無礼ではありますが、カムイ様のお酒、喜んで受けさせていただきます」
カムイはにこりと笑った。ジョーカーは頭を下げてそれを見上げて、既にほろ酔ったように、うれしはずかし、というような顔をした。
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