【R-18】ヴィヤンドゥ・10月 牡鹿のロースト 血と内臓のソース - 2/4

その秋の早朝、ジョーカーは農場の北の森に赴いていた。

晴れているが空気の冴えた日和で、薄手の短套を着込んで周囲に目を配りながら歩く。以前から農場から狐の被害の訴えが寄せられており、それを知ったタクミとレオンが親善も兼ねた狐狩りを企画した。狐の主なねぐらと目されているのがこの森である。

葉を広げた大きな樹木のせいであまり陽が射さず、足元には背の低い草や倒木しかない。それでも暗夜の森よりは明るい。広葉樹の落ち葉と朝露で地面はふくふくとしている。木の実や茸などもよく目につき、そしてよく見るとしばしば喰いあとになっているのだ。リスのような気配もそこここにある。

「これはいい狩場もあったもんだ。暗夜貴族の遊興地だったら大儲けができるな」

すでに狐の姿は何匹も確認した。バター菓子のような色のものもいれば、黒っぽいもの、白っぽいもの、青銀のようなものまで、みな毛づやがよい。カムイ様にはどれもお似合いになるだろうな、とジョーカーは我知らず微笑む。

「足跡。鹿がいる」

背後から簡素な連絡が告げられた。ともすると連れ立って歩いているのを忘れそうになる気配の薄い小柄な女はカミラ王女の護衛ベルカである。

「近くなのか」

「そう。匂いがある。あちらの方角」

必要最低限の会話を交わして二人は足音を殺していく。しばらく歩いたところ、ちょっとした鹿の群れが憩っていた。少し高い木陰から見下ろしてジョーカーは暗器を抜く。細さのわりに重みがあり、狩りのためにまっすぐに長く投擲できるように重心が調整されているものだ。

「……あの手前の」

「犬は」

「大丈夫」

ベルカはカミラの猟犬を連れていた。カミラがどこで拾ってきたのか、体は小さくとも狼のような精悍な顔をして、まるでベルカが犬になったもののようだ。

それ以上言葉もなく、手だけで合図してジョーカーは暗器を放った。崖上から飛び出す黒はさながら、猟犬が三匹、という風情であった。

 

 

「……ち、そういえばオスだよな、こいつ。道理で匂うはずだ……仕切り直しか」

暗器は見事に獲物の肩から首の接続を砕いていた。倒れ伏した獲物にとどめを刺してやったところでジョーカーはため息をついた。膝をつきナイフを抜いていたベルカは振り返る。

「どうして」

「臭いだろう、繁殖期だ。こういう時期のために肉用のでかい家畜ももっと仕入れないとな……」

狩りの瞬間は緊張してついベルカの狙いに従ってしまったが、ここのところのジョーカーの悩みの種のひとつであった。発情期の鹿のオスはフェロモンを発するため強い匂いがある。食肉にはあまり向かない。狩りで仕留めた野生の鳥獣の肉は暗夜でも白夜でも上流階級の愉しみではあるが、やはり口当たりのやわらかさ、くせのなさとしてつねに上等なのは肉牛などの家畜であろう。

「カムイ様は鹿の匂いがお嫌いなの?」

正確に頸の動脈に小さな刃をすべらせてベルカは聞いた。ベルカはカミラに狩りと獣の解体、調理の基礎を学ぶように言われてジョーカーに同行していた。効率的に失血させる切りどころに関しては、元が凄腕の暗殺者だけあってよくわかっているのだったが、さすがに獲物を食肉にするのは専門外であった。こいつが肉の常識を知るわけないんだったな、とジョーカーは思い直して説明する。

「秋は狩りの季節ではあるが、このへんでは今ぐらいの時期に鹿は繁殖期になるようだ。大人のオスは匂いでメスを誘うから肉に特殊な臭みが出る。質が良くないってことだよ。暗夜ではもう少し遅いんだが、もう時期が悪いな」

「……ああ。カミラ様が言っていたのはそういうことね……」

「なんの納得だ? わかったんならその溜めてる血は捨ててけよ。臭いだろ」

「確かに普通ではない匂いはする。でも私はカミラ様に牡鹿の血を採るように言われたから、これで任務は正しい」

ベルカは頸動脈からあふれる血が毛で汚れぬよう注意しながら瓶に採取していた。色のついた瓶のためあまりわからないが、鮮やかな赤が溜まっていっていることだろう。

「呪術にでも使うのか?」

「いいえ、ソースにするように言われた。あなたに教えてもらう」

「まじかよ」

「普通はしないものなのね」

「まあ、この時期じゃなきゃ全然やるが、今だと物好きってやつだな……。確かにカミラ様はけっこうゲテモノでも獣の肉がお好きだからな」

「……ジョーカー、あなた、カムイ様に噛まれる?」

「はあっ?」

ジョーカーは目を白黒させた。なぜ知ってる、真昼間だぞ、今の話になんの関係がある、そもそもおまえが聞くような話題じゃないだろ、など思いながら、質問に答えないよう口を閉じる。

「普通は噛まれないものなのね……」

繁殖期の牡鹿の血のソースを普通は作らない、と言ったときと同じ調子で、しかし少しため息交じりにベルカはつぶやいた。それで今の話はジョーカーがカムイに噛まれているかどうかということではなく、ベルカが主に、カミラに噛まれているのはどういうことなのか、ゲテモノ好きだからなのか、という問題だったのだとわかり、ジョーカーは俺も噛まれてるから大丈夫だぞと励ましてやりたくなった。しかし何も大丈夫ではない。

「か、噛まれてんのか。嫌なら言っていいと思うぞ」

「カミラ様は珍しい獣の肉がお好きだから」

「おまえは獣じゃないだろ。食われたら死ぬんだぞ」

カムイとどうしても敵対するのなら、自分の手で殺して抱きしめたいと言っていたカミラなら本当にやりかねない。ベルカは少し言葉を探しているようだった。

「それを、私もルーナに心配した」

「は? カミラ様に食われて死ぬって?」

「ルーナは今度の狐狩りが終わったら『帰る』の。
カミラ様は『お肉を食べると幸せになれるわ』と言うけど、寂しいとき肉を食べたがる。カミラ様はルーナのことをすごく気に入っている」

暗夜の王族の配下は入れ替わりが激しい。そもそもがどこかの間諜であったり、権力抗争に巻き込まれたり、主の抱える問題に付き合いかねたり、カムイに仕える者たちは少数でそういったことと無縁の場所に閉じ込められていたから例外なのだ。母親が平民で権力争いから離れた位置にいるエリーゼの配下さえ、さまざまなごたごたでエルフィとハロルド以外は何かと異動がある。

ベルカやゼロはその中では比較的古株にあたる。今までにもそういった「対処」に関わったことがあるのかもしれないが、愉快な話ではないので聞かずにおこうと思った。

「カミラ様は呆れるほど泣いたわ。でも結局、許してあげる、と言った」

「なんだ、ルーナの奴は五体満足で故郷に帰れそうなのか」

「どうやら本当にそのようなの。……それから、カミラ様はなぜだかこの子を私によこして、狩りを学びなさいと命じて」

あらかた血の勢いが止まったためベルカは瓶に封をしてジョーカーと場所を替わった。肉が残った体温で腐りはじめないよう、まずフェリシアの作った氷の敷かれた荷車に載せる。

荷車をひきながらベルカは話した。

「カミラ様は私をどうしたいのかと思う。この子のことだって大事にしていたのに。このままいくと私は狩人になれると思うけれど、それがカミラ様になんになるの?」

「それはおまえ、殺ししか知らんおまえが真っ当にやっていけるようにしてくれているんだろう。カミラ様にしては、どういう心境の変化なのかわからんが……。別におまえは狩りが好きでもないかもしれないが、ありがたいことではある。カミラ様の手元にいつまでもいて、いずれ噛み殺されたいわけじゃないんだろ?」

「……わからない」

「いや、逃げろよそこは……」

「カミラ様が食べたいなら、私は別にいい。もうカミラ様以外の雇い主はいないんだし。でも、ルーナみたいな子と比べたら不味いと思う」

ベルカは自分の手の甲をさすった。ベルカの体型は少女というより、やせっぽちの子供に不自然に筋肉がついたようであった。ルーナは胸元こそ寂しいが色白く柔らかな肌にかたちのよい手足をもち、猟奇趣味のある者なら裂いて中の桃色の臓腑を見たいというような美しい腹をしているに違いなかった。端正で生意気でよく動く、それこそ若い雌鹿のようで、カミラがすぐに気に入ったというのもうなずける女だ。

「それならせめてもう少し柔らかい肉をつけて、比較的若い今のうちのほうがいいのかもしれないと、噛まれるたびに思っているのだけど、食肉としてはどうなの。鹿だって、繁殖期が終わったら痩せ衰えてしまうことくらい、私にもわかる」

馬鹿なこと言ってるんじゃねえと言う予定だったが、なんだか覚えのあるようなことをベルカがしごく真面目に言うのでジョーカーはなんとも言えなくなった。

――俺もいいかげんとうが立って、おっさんになりジジイになって死んだらカムイ様のお口に合わないだろと思ってるよ。

ベルカは殺し屋に拾われて生業として殺しを学び、依頼を受けては殺し、腕を上げ、その繰り返しを生きてきた。生き方の大枠としてはジョーカーも似たようなものだが、主という生きる目的があるかないかが大きな違いだと思っていた。しかし生きる目的がないなりに、ベルカの中でカミラは死ぬ理由か、それ以上のものになってきているようだった。それをジョーカーは忠誠と呼ぶが、ベルカはそういう言葉をもたない。

「……柔らかい女を噛みたいなら、そもそもおまえをそばに置かないだろうし、宮廷にいくらでもいるだろうが。カミラ様は珍味がお好きなんだろ? おまえを育てて喰うつもりで狩りを教えてんじゃないのか。よけいなこと考えるな」

「肥らせてるんではなく?」

「量とか脂とかじゃなく、手塩にかけて育てて大事に長く一緒に過ごした肉がうまいって趣味もあるだろ。肉でそういうのはちょっと珍しいだろうが、薔薇とか……そもそも狩りがそうだろ、座ってりゃ柔らかい牛や豚にありつけるのに、わざわざ野性のものを捕まえてって。上流の愉しみってのはだいたいそういうモンなんだよ」

ふうん、と無表情にうなずいてベルカはそれきり訥々とした言葉を止めた。落ち葉を踏む湿った音の中で、ジョーカーも自分の言ったことを反芻していた。カミラはベルカに手をかけて育てるのを愉しんでいる。主が、夜伽に侍る者としては明らかに男になりすぎている自分をなおも「熟成」させ続けるのと、自分が愛と手間を込めた料理で主の血肉を作りたいと思っている愉悦は似たものなのかもしれなかった。

 

→次ページへ続く

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