「解体はさすが悪くなかった。今日はあれの腿肉も使う。ここからは料理人の仕事だが、ご命令だからな、ソースを作る手伝いをさせてやる」
「お願いします」
ベルカはエプロンをつけて殊勝に言った。
城内ではカムイとアクア、昨晩から宿泊しているカミラがそろそろ朝食をとって懇談しているころだった。
カミラは戦時に鳴り響いていた武名と妖しく優しい美貌の落差がきつく、いろいろな意味で各地の有力者との親善に向いているらしいが、できれば王籍を離れたいと言うほどだ、気疲れも多いことだろう。カムイ様やアクア様が噛まれていないといいなとジョーカーは心配した。
「血が新鮮なうちにやりたいから、今日のにはあらかじめとっといた出汁(フォン)を使う。フォンのベースは骨と香味野菜だ。……で、フォンに入れる濃い旨味を今から作る。この軟骨と、クズで出た肉をぶつ切り」
「了解」
広いカッティングボードの上で器用に体重をかけ、ベルカはどすどすと骨を断っていった。野菜の切り方はやや不器用だったが、案外こいつ料理にも向いてるんじゃないのかとジョーカーは感心する。
「で、鍋でバターと炒める」
「すぐ煮ないの」
「手をかけるんだと言っただろう」
骨と肉、香味野菜を炒めていくと、野菜はしんなりとして香りをたて、熱された肉が固まってやや鍋の底にひっかかりを生じはじめる。バターや葱類の香りの中に、白粉のような甘い香りが混じる。
「……肉と違うにおいがするけれど、これが」
「これだこれ。カムイ様にお出ししたことはないが、どうするかな……」
「カミラ様のにおいに少し似ている」
「ああ、この種類とは違うが、暗夜では繁殖期の牡鹿のにおいを出す内臓が高級な化粧品に使われてることはあるな。しかしいまいち肉料理のにおいじゃねえだろ。……よし、そろそろ中身をいったん出す」
炒めたものをボウルにあけ、鍋に残った脂を軽くぬぐって捨てる。香味のたった脂はベルカの言う通り、肉料理らしい食欲をかきたてる香りのほかに貴婦人の脂粉のような場違いなにおいをさせていた。その組み合わせがなんとも生々しく、牡鹿であるのにばつが悪くなるような女っぽさ、夜伽的な気配を思わせた。
「どうなるのか不安だが、この鍋底についてるこの、バターと肉の焦げ。これがソースの重要な旨味になる。これを赤ワインで煮溶かしたのを、フォンに合わせる」
「焦げ……。本当に物好き……。貴族の料理の発展はわけがわからない……」
「しっかり溶かせよ。この手間でかなり味が違うからな」
ワインを注ぎ、ベルカは不器用ながら丁寧に鍋肌の焦げを洗いはじめた。鍋を見つめる目は、武器の手入れをしているときなどと比べると困惑していて、その困惑がベルカとしては、何か愛しむべきものを扱っているように見えた。
「まあ。ほらカムイ、いいにおいがしているのは本当だったわよ」
甘く歌うような声が流れて、先にベルカがそちらを向いた。カミラが厨房の戸口からのぞいていた。うす紫の豊かな髪がかしげた首の傾斜にあわせて空に揺れる。
「カミラ様。賓客が階下にいらしてはいけません。ましてお髪やお召し物に厨房のにおいがつきますよ」
「ごめんなさいジョーカー。私のベルカがエプロンをしているところを見たかったの。ソースはできそう?」
「ジョーカー、入るよ。これはなんのにおいだ?」
入ってきたカムイが不快ではなく好奇心の顔だったのでジョーカーはひとまず安堵した。ソースは、旨味を煮溶かしたワインと先ほど炒めた材料をフォンの中に入れて煮詰めているところだった。
「カミラ様ご所望の鹿の血のソースを作っています、カムイ様。いつものものとはにおいが違いますので、もしお好みでなさそうでしたら別のものをご用意いたします。そうされますか?」
「カムイ、変な注文をあなたのジョーカーにしてごめんなさいね。においが違うのはね、この時期の鹿は恋の季節だからなの」
「そうなんだ。ジョーカー、僕も食べてみたいな。血のソースは好きだし」
快活に笑って言った主の口に牙が光るように見えた。ひらいて見えた紅い舌に一瞬見とれてしまう。鹿のにおいに妙な感じに浮かされている、とすぐに反省して胸に掌を当てる。
「は……、かしこまりました。でもお口に合わなければそのときご遠慮なくおっしゃってくださいね」
「うふふ、お姉ちゃんの好きなものをカムイも食べてくれてとってもうれしいわ。楽しみね。……お行儀が悪いけれど、つまみ食い、しちゃおうかしら」
まだ肉は焼き上がっていませんよ、と言おうとした。しかしカミラはソースのほうに寄っていき、さっきから黙々とソースをかき混ぜている人間の首筋に噛みついた。
「はっ」
なぜかその場でジョーカーだけが声をあげてしまい羞恥が襲ってきた。噛みつかれた当のベルカはソースを混ぜながら主を片手で剥がした。
「うーん、すっごく美味しいわ。いい子ねベルカ」
「カミラ様、拭いただけで体を洗っていない」
人前だというのになんだその返しは、すごいなおまえとジョーカーは衝撃を受けて、隣のカムイの表情をちらりとうかがった。何事もなかったかのように上品なしぐさで部下から離れてくる姉と同じく、主は特に驚きあわてるでもなかった。むしろ微笑んでいて、ジョーカーはその微笑みを見ると習性として考える前に一瞬安心してうっとりしてしまう。
その隙を突くように、主は視線を捕えて、ふいににいっと鮮やかに笑んだ。
――息を呑んだ。
「さて、あとは午餐のお楽しみにしておきましょ。わくわくして待っているわ。ベルカをよろしくねジョーカー」
「……あ、カミラ様、その、体を洗うといえば、」
呼び止めた声がしどろもどろに裏返ってしまいジョーカーはそこで咳払いをした。
「? 何かしら」
「……ンンッ。カムイ様、お話しされましたか」
「あっ、そうだ。ありがとうジョーカー。カミラ姉さん、お風呂が好きだよね? こっちには温泉ともまた違ったお風呂の方法があって、最近城の設備を修繕して使えるようになったんだ。きれいにしたばかりだから姉さんに使ってみてほしくて」
カミラは花がほどけるようにうっとりと歓声をあげた。
「まあ、まあ、カムイ。驚いたわ。なんてうれしいおもてなしなのかしら。すっかり立派な大人の殿方になったのね」
「僕はけっこう好きなんだ。気に入ってもらえるといいんだけど」
「それじゃあ、私の好きな鹿料理とお気に入り交換っこね。そうしたら、ジョーカー」
「はっ」
準備は他の使用人に既に申し伝えてあります、と言うのに鷹揚にうなずいて、カミラがにこやかに言ったことに、ジョーカーはまた気まずい思いをすることになった。
「ソースができあがったら、そのお風呂にベルカをよこしてほしいのだけど」
カミラは風呂を気に入ったようだった。それはソース作り教室が終わってからたっぷり午餐までの時間カミラの相手をしていたらしい、ぐったりとした湯上りの様子のベルカとすれ違ってよくよく伝わってきた。血色のよい磨かれた肌はいつものように顔以外暗い色の服で覆われていたが、カミラの旺盛な食欲の痕が残っているに違いなかった。料理を運んでいるところだったので気遣ってやる暇はなかったが、あとで肉の残りと自分の使っているよく効く塗り薬を差し入れてやろうかとジョーカーは思った。
午餐では白い肌も輝くように機嫌のよいカミラがぺろりと根菜の前菜と南瓜のスープを平らげ、今か今かと肉料理を待っていた。
「お待たせいたしました。メインの鹿肉のローストでございます」
ワゴンの上の蓋を開けると、四角い大皿の上に鹿の腿肉が塊で焼かれたものがふたかたまり載っていた。客の目の前で切り分ける、カムイも好きなもてなし料理である。
「ソースには、カミラ様のご希望で珍味である繁殖期の牡鹿の血を使っております。アクア様は獣の血のソースは苦手でいらっしゃいますので、いつもの香草とショウユのソースをご用意してあります。手前の肉は牡鹿のものですが、奥のもうひとつには匂いに変わりない雌鹿も」
「あら、ありがとう。それにしてちょうだい。カミラには悪いけれど……」
「好みでないのなら仕方ないわよ。ジョーカー、私にもあとでそのショウユのソースをくれるかしら?」
「かしこまりました」
「白夜の香草なんだ。ぴりっとしておいしいんだよ」
まずアクアの皿にソースを敷く。干し魚の出汁に砂糖とショウユを軽く煮詰めた色も味もあっさりとしたベースに、白夜の清流で作られるワサビという香草の根を粗くすりおろしたものを最後に加えてある、肉とあわせてもさわやかな味のものだ。
ついでカムイとカミラの皿に、本題である血のソースを敷く。レードルですくい出したソースは黒いはずだが、白い皿の上に薄く敷いてもなおぷるりとした照りのせいもあって、血の赤色であるように感じられた。こちらもアクアのソースのワサビのように、赤い鮮血を最後の仕上げに加えてある。そこで一気にこの内側から発するような色になるのである。半分固体のようになった今は、独特の香りは凝縮されてみだりに周囲に飛んではいかないようになっている。
ジョーカーはまず肉の端を避け、脚の線がふっくりとしだしたところをナイフで切って断面を客に見せた。カミラが小さく歓声をあげる。まんべんなく花のような色に蒸し焼かれた肉は「血がしたたる」というふうではなかったが、生きた娘の肌と同じに、通った血と脂によってしっとりとしていた。
「素敵だわあ。暗夜の諸侯におもてなしを受けると、みんな熟成した燻製だとか、すごく血抜きをしたローストだとかを出してくれるのよね。血のソースも、狩りをしなきゃ食べられないわ。実は私こういうののほうが好きよ」
「僕も、北の城砦にいたときは肉料理ってそういうのしか知らなかったんだけど、白夜なんか生の魚をきれいに切って食べたりするからね。暗夜で鹿とか豚を食べようとすると、燻製したりよく血抜きをしたり、まずよく茹でたりしないと口に入るまでに腐っちゃう危険があるから、ああするしかないんだって外に出てはじめて気付いたよ」
「カミラ様、切り方はいかがなさいますか」
「一枚で厚切りにしてちょうだい。ぷりぷりが楽しみたいわ」
「かしこまりました。カムイ様、アクア様はいつもの薄切りでよろしいですか」
カミラのものは切りごたえと噛みごたえを楽しめる厚みに、カムイとアクアのものは羊皮紙のような薄さに数枚に切り分ける。そうして卓上にサーヴされた肉の広い断面はいずれもなめらかな布地のようであった。
「どうぞ。つけ合わせは今朝森で採れた栗と茸の網焼きでございます。カムイ様のお皿は付け合わせを挟んで左側に雌鹿、右側に牡鹿をお出しいたしました。比べてご賞味ください」
「あら、いい趣向ね。カムイ、お姉ちゃんに感想を教えてちょうだい」
「えーっ、美食家のカミラ姉さんにそんなの聞かれるのはなんだか恥ずかしいな。違いがわかるかなあ」
「何を言うのかしら。ジョーカーがついているんだもの、カムイほど食事の愉しみを享受してる人はそういないはずよ。確かに私もおいしいものはいつも食べてるけれど」
なにやら意味深に言ってカミラは優雅に厚切りのロースト肉を切り分け、小さな唇に運んだ。直視していなくても、その歯が肉を裂き潰す旨みを味わっているのがわかる。話に聞く南方の黒い毛並みの豹のような、肉食の大輪が今まさに食事をしているという迫力があった。確かに、この王女がもてなしで出された肉を優雅に食べている姿は、それだけで妙な畏怖と魅惑を諸侯に与えるだろう。
ジョーカーの仕える王と王女も姉に続いて肉に手をつけ始めた。カムイもアクアも王族の高貴な威容の方向性としては肉食獣ではなく、しなやかな魚か大鹿のような神秘の印象を与えるほうだ。アクアはその印象の通りに血の気の多い肉をもりもり食べたりしないのだが、カムイが姿の清らかさのわりに案外、肉に歯を立てるのが好きなことをジョーカーは知っている。
「まず、ふつうのほうを食べてみるよ。ソースはいつもと見た目は同じだけど」
カムイは左側の薄切り肉で皿のソースをなぞり、口に入れた。
「ん」
ソースは舌に載った瞬間に香りをはじけさせてきたらしく、一瞬で表情に変化が見えた。そのまま行儀よく噛み、のみこんで、カムイは感想を期待しているカミラとアクアとジョーカーの顔を順番に見ながら口を開いた。
「ソースが違うのはわかった……! ふわっと甘いようなにおいがくるね。いつもの血のソースも甘い香りだけど、ちょっと種類が違うっていうか……。これは……、濃くて……お香っぽい。大人の味だね」
「カムイはやっぱり苦手だったかしら?」
「いや。苦手ってほどじゃない。こういうのをなんていうんだっけ? うーん」
ソースを変えた皿をカムイに出そうとしているジョーカーを手で制して、カムイは少し思案した。
「……ああ、『好きな人にはたまらない』だ、まさにそういう味だってわかるよ。食べ慣れたら僕も癖になりそうかもって思う」
「オロチがお酒のつまみのことでそんなことを言ってたわ。臭みのあるものだとか、肉や魚の内臓や頭だとか、最初はまじないの道具なのかと思ったけれど。自分でも食べて一瞬少し嫌みたいな顔をするのよね、それでお酒を飲んで『たまらんのう』って笑うの。カゲロウがそれに付き合って『忍びの兵糧丸もこのような感じだ』とか真面目に言っていたけど……滋養のある苦い薬草を効くって思うときにも似てるのかしら?」
「ああ、アクア、それはたぶん正解よ! オロチとは話が合いそうだわぁ、だんだんそのクセのある感じが気持ちよくなってくるのよ。カムイ、牡鹿のほうは食べられそうかしら?」
「カムイ様、ご無理はなさらず……」
「もう。ジョーカー、過保護だよ。食べてみるね」
右の薄切り肉を口に運んでみたカムイは最初のように驚きはしなかった。しかし、噛むごとに徐々に不思議そうな表情になっていくのでジョーカーは不安になって食い入るように見つめた。既にカミラにはうまそうに食べられている肉なので調理失敗はしていないはずではあるが、なにせカミラの好みが好みだ、保証にはならない。
「カムイ様……! 大丈夫ですか?」
「…………えっ、おいしいんだけど……?」
咀嚼し終えてカムイは不思議の表情をまずジョーカーに向けた。カミラは嬉しそうに笑う。アクアはなぜか納得顔で小さく頷いた。
「カムイ、カムイ、おいしいならうれしいわ。どう違うかしら? ジョーカーも不安がっているわ」
「あっ、ごめん。おいしいのが変みたいな反応して。姉さんにもジョーカーにも失礼だよな」
「いえっ、私のことは、お気になさらずともよいのですが……!」
カムイは皿を見て、次いで食べながらも自分をゆるく気にしているアクアのほうを見た。
「アクアがオロチの話をしたから思い出したんだけど。あとこれは僕の個人的な好みの話だと思うんだけど……」
「あら、私が考えていることと同じかもしれないわ……」
「たぶん、牡鹿の肉と牡鹿の血だと、血のソースのにおいがいきなりどんと来る感じじゃなくて、自然なんだな。においがあることは変わっていないんだけど……。星界の城でオロチがさ、白夜のクセのあるおつまみににおいの強いチーズを合わせて食べてたんだよね。違う感じのものを合わせるより似たものとか、もとが同じものだとしっくりくるのかも。おいしいよ」
そのままカムイはカミラと一緒に牡鹿の肉をよく食べた。
ジョーカーはほっとして、カムイの舌は確かで、話もとても納得できる道理だと思った。酒も赤ワイン煮には赤ワイン、白夜の煮物には米の酒と決まっているし、同じ風土の産地の材料と調味料を合わせると料理の味はまとまりと安心感を持つようになる。旬のものをその季節の空気の中で食べる、というのも広く言えばそういう理をもった滋味なのかもしれなかった。
食糧事情の悪いかつての暗夜では食べるのに適したものを人の手で用意し、さらに限られた人のために加工していくしかなかったが、この国はそれよりずっと豊かだ。カムイももう、かなり前から、厳選したものをやわらかくして噛んで含めて食べさせるべき子供ではない。このような自然な雑味もお出ししてよいし、その中にはお好みのものも当然あるのだ、と目を開かされて、カミラの思い付きに学ばされる思いだった。
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