カミラが発ち、夕食時に夜は部屋に来て、と耳打ちされてジョーカーは夢心地で倍速に仕事を済ませた。愛される準備をするのはもちろん、節約した時間でたっぷりと体を磨く。給仕の前に軽く身は清めたが、今日は狩りもしたし、獣もさばいた。夜伽に侍るときのための心地良い花の香りの香油と石鹸をいつもより念入りにまぶし洗う。
部屋に入ると、カムイは扉の前で待っていてすぐにぎゅうと抱きしめてくれた。腰が抜けそうなのをこらえて、抱き返してえりあしの髪を撫でる。ちょうど、首筋のあたりにカムイの口元がきているのを意識する。昼間カミラがベルカを噛んだあたりだ――。
と、期待にうっとりとしているばかりではいられなかった。カムイがスンスンとにおいを嗅ぎだしたのだ。当然、臭いのだろうかとどきりとする。
「カムイ様? 申し訳ありません、臭いでしょうか……。流してきたつもりですが、今日は獣をさばきましたし、汗も」
「違うよ。逆だ」
そう言うとカムイは体を離した。違う、と言われて少しは安心したが、見えてきた表情が不満げなものだったのでジョーカーは主人の意向を探った。
「何か、不手際があったでしょうか。ご不快にさせてしまい申し訳ありません……」
「不手際とか、悪いことをしたんじゃないけど……」
「では」
ジョーカーの脳裏に悪い想像が浮かんだ。今朝も思ったことだ。自分は主に寵愛されるには男臭くなりすぎている。それに主がなんとなく感付いてしまう日がたまたま今日で、優しい主はそれを、言い淀んで目をそらす……。
心臓を掴む冷えに抗って理由を尋ねた。しかし、答えは意外なものだった。
「だって、ジョーカー、石鹸のにおいしかしないだろう。最近ずっと石鹸のにおいが強いと思ってたけど今日はほんとにそうだ」
「えっ?」
「僕はジョーカーのにおいが嗅ぎたいの!」
そう、赤い困り顔で見つめられて言われてジョーカーは止まった。
「はっ?」
手を引かれて部屋から出る。そのまま、いずこかに引っ張られていく。わからない様子のジョーカーを振り返ってカムイは言った。
「お風呂に行くよ!」
「ジョーカー、大丈夫? 熱すぎないかな。ジョーカーは肌が薄いから心配」
「あ、ええ。ちょうどいいです……。まだ少し肌寒いくらいで」
軽く体を流してきた主に隣に座られてジョーカーは所在なさげに答えた。近い間合いである。腰が引けてしまうのも無礼でできない。
昼にカミラとベルカを通した風呂であった。通常の、洗い場と浴槽のある浴室ではない。
今ふたりは大きな石造りの寝台のような段に厚手の布をかけ、裸で並んで腰かけていた。変わった方法の風呂とは、石の熱を使った蒸し風呂であった。浴室はごく小さく、石台は体重をかけた部分がじんわりと温かい。石が熱を溜めてゆっくりと放出する材質のもので、台の下のくぼみや部屋の四隅にあたためた炭の壺を置いてあるからだ。空気の湿り気も保たれ、秋というのに夏の雨季のようだ。じきに石の台にあたためられて、汗ばむくらいになるだろう。
――汗ばむくらいになってしまうだろう。
「あの……カムイ様。石鹸のにおいがお気にさわるのでしたら、流すだけでも……」
「だめ。そんなのじゃ落ちないよ。汗で全部出して」
「ですが……」
「僕も同じなんだから」
わけが違います、とジョーカーは心で叫んだ。せっかく汗を流して佳い香りをつけてきたというのに、どうやら主は自分とは考えが真逆らしかった。
「前から言っているけど、僕はジョーカーの体のにおいが好きなんだよ。ジョーカーも僕のにおいが好きだって言うよね」
「それはもう好きです! 自分のにおいは好きではありません。男なので当たり前ですが汗をかいたあとのシャツなど臭いですし。ご寵愛をいただくときには特に身だしなみよくしていたいのです」
カムイの肌のにおいは、誰にでもそう感じられるものなのかはわからないが、気分が落ち着き胸があたたかくなるようなものだ。汗をかくときも伽の中でもそれは変わらず、むしろせつないほどに強まる気がする。
知らず知らずに人をほだし、信頼を勝ち得やすいという才能の一端がこの香気にもあるとすれば、それを誰より近くで世話しているジョーカーはもはやそれに中毒していると言っていいだろう。シーツを替えるときもカムイのものは他と違っていてすぐわかる。自分の洗濯物は他の男性使用人のものとさして変わらなく思うジョーカーが、汗のにおいを消したいと思うのは当然の羞恥心だった。
胸を汗が流れる。小さくなっているジョーカーを、カムイは少し申し訳なさそうに覗きこんだ。
「ジョーカー、僕は、嫌なことをしている……?」
「嫌、では……。ただ……」
ジョーカーが言いかねている間に、カムイは片手をとって握り合うようにした。ジョーカーは少しためらってから、カムイの肩口にそっと額づくように顔を隠す。
「嫌われたくありません……」
そのまま、すがり合うように腕を回した。密着した肌から汗が流れ落ちていく。それを気持ちいいことだと思いながらも、まだ少しジョーカーは震えていた。その首筋を、かぷりとカムイは噛んだ。
「ひっ」
痛みではなく、やはり汗の羞恥でジョーカーは飛びあがった。うーん、とカムイは言い、ひとまず体を離してくれた。
「流そうか」
「! はい」
許しを得て、すぐ近くの小さな水槽まで連れ立ってゆく。今ので満足してくださっただろうか、そうしてくれ、と思いながらカムイの体に浮いた汗を洗い流す。ジョーカーも流すよ、と穏やかに申し出てくれるのには抗わなかった。ここから部屋に戻って恋人同士のような交歓の時間がはじまるのだ。
丁寧に流してくれたカムイは下を流したそのまま膝をついた。どうしたのだろう、と見ると、腿に水筆をすべらせるように親指でなぞられた。微笑んで、くすぐったいですと言おうとした。
「あぅっ、」
思わず一、二歩よろけた。腿を噛まれたのだ。見上げてくる主のうすく開いた唇を見て、噛まれるところを見てしまった図像と、感触の甘さが遅れて襲ってくる。
甘噛みだった。愛と賛美のこもった。のぼせるような暑さでもないのにくらくらしそうになり、石台に手をついて安定をはかるジョーカーに、カムイははっと声をかけた。
「あっ、ごめん、足場の悪いところで。危なかったな」
「そういうことでは、ないでしょう」
「今の汗を流したら、だいたいは石鹸のにおいがとれたかな」
うれしそうに言ってカムイはジョーカーを石台の上に改めて座らせ、最初からやり直しとばかりに正面からぎゅっと抱きついてきた。
「やっぱりジョーカーはいいにおいだ」
においを嗅いで幸せそうにするカムイの声は屈託がない。大きく息を吐いた。ここまでされると、さすがに、愛されている、といううぬぼれでいっぱいに溺れてしまう。
ジョーカーは少しやけくそのように笑って、あやすように背中を撫でた。
「もう、今日はどうしたのです。そんなに俺が食べたくなったんですか」
「食べたいなあ。昼に食べた肉とソースのせいかな。それにカミラ姉さんにちょっと人の体の噛み方を教わったんだ」
言いながら肌の上に唇を滑らせてカムイはジョーカーを味わいはじめた。首筋から肩、腕を押し戴くようにはむはむと甘噛みして、指先へ向かう。
「……仕方がないですね……。カムイ様は、カミラ様に負けない珍味好みなんですから……」
「うん。食べてもいい?」
手の甲、指の関節の筋張ったところを小指だけ、鳥の手羽のように噛みしゃぶってから目を開けて、今更にカムイは尋ねた。ジョーカーは体の力を抜いた。
「どうぞ。もとよりあなたのための皿です」
慈しみと安心で情欲が円やかにほどけ、煮溶けていくように、二人は目を合わせて微笑み合った。
カムイはまずそのまま手の指を愛した。末端にこんなに念入りにくちづけられるのは初めてのことだ。血を賜り、交わした夜に、お互いの血が混じった親指の傷を舐めたことを思い出す。
指は感覚が鋭く豊かだ。まさかそんな、とはじめは思ったが、指の腹や関節を包まれかじられ、指の又を舐め上げられると、驚くほど心地良かった。確かに極上の毛皮を触ったときなどは指からとろけるような快感がある。ただでさえ愛する人の体であるのに、口の中の粘膜は普段触る何よりもやわらかで、しかもあたたかく情熱的なのだ。
「ふっ……う、ふぅ……、カムイ様……、ごつごつして、ご不快ではないですか……」
「おいしいよ。筋も骨も、気持ちいい。僕のために働いてくれている手だ」
おいしい、という言葉を裏付けるように、舐める舌は骨付き肉をすするように常に唾液でぬるぬるに潤んでいた。黒鉄の手甲で擦れる皮の硬い一帯、帳簿をつけていてできた指のたこがほぐれて消えるのではないかと思うほど、噛んでは舐められる。
手首の脈のところも、きれいだと言われて強く弱く何度も噛まれた。本当に食い破られたらたくさん血が出て口元を汚してしまうようなところだ。そうされてもいいと思う。腕のやわらかいところの感触を噛まれはじめて、もどかしいような歯の震えが伝わる。カムイにも皮膚を噛み切ってしまいたい欲望があるのだろうことが、震動と息遣いで感じられて、たまらない。
「ああ、ジョーカー、ジョーカー……すごい……本当においしい」
「ッ……、ふ、ン、そん……なっ、ところ、おやめくださっ、ぅあ!」
台に横たえられて腕を挙げたままに押さえられ、胸筋の脇を大きく舐め上げられる。くすぐったくて体が逃げてしまうような場所のうえ、体臭が強いのではと心配になるが、動きを封じられてどうにもできない。どうにもできないのだと観念すると、押し当てられている温かい舌の狂おしいような感触が快感として襲ってくる。腰が跳ね、背中が波うった。上半身の過ぎた緊張に比べて弛緩した腰は痺れるようで、脈絡なく一瞬、いれてほしい、と思う。
「あ、あ、ああッ……! はぁっ、はぁうっ」
「きもち、いい? くすぐったい? 腰、動いてる……」
「あう、き、きもち、い……です。でも、くっ、!」
カムイは掴んだ腕を引いて体勢を横にさせ、脇から背中の筋肉と肩甲骨を噛んだ。やはり神経が集まっているところで、歯を立てられては跳ね、はむはむと甘噛みされては涙がにじむようなせつなさに酔う。ジョーカーは荒く息をしながら、拘束されていない腕をなんとかのばして主に触れようとする。
「ん……、ジョーカー、なに……?」
手は肩に触れただけで『恋しい』と雄弁に伝えてきた。くったりと首を寝せて言葉のないジョーカーの頭の下に籐編みの枕を入れてやり、カムイも隣に横になった。唇にかぶりつかれれば、うれしく応える。
「ん……、ん……ふ、ぅ……」
「んん……、っ、……ああ……ジョーカー、気持ちいい、あったかい……」
石風呂に温められ、さらさらとした汗に濡れた手足を絡めてジョーカーは自分から体を密着させた。表面がジョーカーより冷たかったカムイの体も、じきに内側から熱の境界がなくなっていく。
カムイは唇をゆっくりとつけて貴重なもののように目の前の鎖骨を味わった。骨が大きく露出しているだけあって、歯を立てて力をかけられると今までとは違う痛みがあったが、抱き合っている熱い安心の中では心地良い刺激でしかなかった。骨の上の皮膚をむにむにと唇や歯ではさんでもてあそばれている間、そわそわとした。先のとがった、いとおしい耳が目に入ったのだ。
――かわいい。
自分を貪っている頭の動きにあわせて、ちまちまと動く、血の色の透けた耳。そういえば、膝を枕にして寝てもらっているときなど、自分と違う猫のようなかたちが愛らしくて、口に含んでしまいたくなったことがあったのだった。舐め口づけられている音を聞くと、自分もしたいのだ、という気付きで頭に血がのぼる。
「……っ、失礼します、カムイ様」
「はわっ」
まずは尖って薄いようになっている先のほうを唇だけでぱくりと噛んでみた。唇よりひんやりとした繊細な軟骨の感触と、少し甘いような皮脂の香り。驚いた愛しい声。美味としてもぐもぐ噛みしめてしまいそうで怖くなり、あわてて口を離した。
「いい、よ。噛んで……」
「は……、申し訳ありません、お怪我はさせないようにいたしますから」
「僕も、そうしたいけど」
はあはあとカムイは興奮した呼吸をしている。おそらくもっと強く噛みたいのだ。満月も近い。一心に欲しがられるのは嬉しいばかりで、ジョーカーは耳元で囁いた。
「どうぞ、傷をつけてくださいませ。俺は丈夫ですし、すぐ治ります」
今までつけられた爪痕や噛み痕を思い出して、ジョーカーも興奮して息を荒くした。悩ましい声混じりの息を耳に浴びせかけられてカムイも吐息を熱くする。
「はぁ……、んっ……」
「カムイ様……、カムイ様……、とても……」
とても美味しいですよ、と途切れ途切れ伝えながら、舌のやわらかい面で耳の線をなぞり、かたちを味わう。愛おしさにまかせて何度も音をたてて短く吸うと、カムイもたまらないようにがじがじと鎖骨を噛み、肩を強く噛んできた。
「く、はぁっ、カムイ様っ……、ん、んっ」
「あう、ジョーカーっ、はぁ、は、あ……。気持ち、いい……。すごい……」
「う、もっ、と、ああ、カムイ様、」
もっともっと体じゅうで噛み合うことを求めて密着した体を擦りつけて、舌も性器のように耳に挿入する。カムイの体はびくびくと震えた。いつもカムイが陰茎で自分にしてくれるように、入れたまま愛を擦り込むようにねじりくねらせると、妙なる声があがり、ついで鋭い痛みが走った。
「あー……あぁ、っ、ううっ……!」
「ンッ、く……っ!」
肩に、鋭く変化した犬歯を刺されたのだ。それがわかると痛みはもう愛しい楔を賜っている快楽であった。深く刺さるわけではない、しかし牙を肉に沈めたまま止まって震えている体温と触れ合っていられるのは、ずぶずぶとひとつに繋がっていくときと同じ感動だった。
「あ……ああ……、カムイさま、ありがとう、ございます」
「……っ、ふっ……!」
カムイは言葉を発さずに、苦しげな声で謝った。いいのです、と言うとゆっくりと牙を抜き、カムイは起き上がった。
「起きて……」
座って背中を向けさせられる。すぐにれろりと舐め上げられた。どうやら血がつたってしまったようだ。傷口を包んで唇は止まって、ふうふうと鼻で興奮した息を吐いているのが肌に感じられた。俺に、俺の血に昂ってくださっている。後ろ手に探ると肉は硬くぱんぱんに張りつめていて、やわらかな舌に撫でられたときと同じように手がとろけそうだと思う。
「カムイ様……ッ」
「ん、んんぅ……!」
腰を浮かせて懇願した。手で支えて導く途中で先端が尻たぶの上をぷるりと滑り、カムイは切羽詰った高い声をあげる。ほぐした油と谷間を伝った汗が混じってずるずるの入り口にぴたりと合うと、二人ともが短い歓喜の声を漏らす。
「ぅうっ……! あ、……!」
「ん、くっ、ジョーカー、ジョーカー!」
「う、ふう、ふッ、くあぁあ……!」
必死な力で掻き抱かれて、それにまかせて力を抜くと楔が刺し込まれていく。ひとりでにそうなったような感覚に酔い、脚どうしを絡ませて不安定な体勢に耐える。
「ンッ、うぁ、……ッ、ふう……ッ」
「ジョーカー、ごめん。痛いよね」
「だいじょうぶです、もっと、もっと吸ってください」
とん、とん、と結合部を揺すりながらカムイは傷口と濡れた首筋を吸った。血が止まっても主から体の何か、生気のようなものをうまそうに吸われる痛みはひどく甘く、代わりに主のそれを注ぎ込まれる心地がする。体じゅうの血も体液も吸われて血の気が失せるときさえ気持ちいいのではないかと思う。きっと体温がなくなり意識が暗くなっていくそのときも、石風呂にしんから温められている今を思い出してあたたかくいられる気がした。
「カムイ、さま、おれが」
「ん……?」
「俺が死んで、食べてくださるとき、どんなになっていてもこうやって、抱きしめてくれますか」
問う前から答えを知っていて幸せで涙がこぼれた。後ろのカムイは一瞬はっとしてから、愛おしげに抱きしめなおした。
「うん、約束だ」
揺さぶる動きが狂おしげにくねる。ジョーカーは愛しい腕に絡め抱かれながら夢中で腰を振りたてはじめる。動きを自由にしてやろうというのか、カムイの腕が緩み、そのぶん背中に牙がかすめ新しい傷をつくった。
「ジョーカー、ほら」
「ふっ、う、んん、……えっ?」
ふとカムイの香りが一瞬強くなった気がして目を開けると、顔の前に腕を伸ばされている。赤い筋が目に入った。薄く裂かれた肌から薄暗い灯りにも鮮やかな血がにじみ流れていた。どうしろと言われる前に、ジョーカーは腕を支え持って傷口を舐める。反射的に今できる傷への対処としてしたことだったが、心はその目的より悦んでとろけていた。力が抜け、結合が深くなってしまう。
「ん、んん、はぁっ、カムイ様ぁ、」
「ジョーカー、おいしい? よかった……。吸って、いいよ……っ」
「あッ、はぅ、そんな、ああ……!」
「すごくおいしい、ジョーカー、っ、大好きっ……!」
「っあ! かむいさ、い、いっ、き、ま……、んぅ……ッ!」
肩の傷を強く吸われ、後ろがきゅうきゅうと断続的に締まる。快感に堪えかねてすがるように、言われた通り腕の血をすすった。血と汗の混じった甘い塩気と強い酒のような酔いが喉をなめる。
主の命の味に口からも下からも中身を溶かされていくようで、しばらく力が入れられず、全身が愛を味わうだけの感覚器になるのに甘んじた。
「ふう。満腹。ごちそうさまでした」
「私もです。たいへん美味しゅうございました」
再び寝転んで、おどけたカムイの食後のあいさつにジョーカーは苦笑して答えた。主へではなく自分への苦笑だ。カミラや主をもの好きのように思っておきながら、大層な楽しみようだったではないか……。
「お恥ずかしい。私にそんな趣味はないと思っていたのですが……。カムイ様のせいですよ」
「そんなって、噛んだりして美味しいっていうこと? 別に恥ずかしいことじゃないと思うけど。そんなこと言ったら僕だってジョーカーのせいだよ」
「覚えがありません。カミラ様ではなくてですか?」
「ジョーカーが、死んだら食べてくださいって言った。さっきも」
「は……」
恥ずかしいせりふの再生にジョーカーは顔を伏せた。
そう、自分の死の話だというのに、悲愴さでも恐怖でもなく、おもに過ぎた快楽への羞恥を感じているのだった。それをこの上なく熱く甘く安らいだ愛の儀式のように感じる。他の誰にも触れえない、究極の性交の予定のように感じる。
「ジョーカーの作る肉料理や血のソースはね、ジョーカーの肉や血みたいに思って。他の食べ物もそうかな。ジョーカーを食べてる、僕の肉や血にしてる、って思う。
ジョーカーは、そう思って作ってるんだろう?」
紅い目と舌をきらめかせて、カムイはにぃと笑った。おそろしい悦楽の図星を突かれ、しかもそれを生き生きとうれしいことのように言われるのだから、なんだかジョーカーは毒気が抜かれた。この人はもしも自分だけ変わらぬ少年のような姿のままで先に老い衰えていく執事を見たとしても、やはり変わらずきれいだとかおいしそうだとか言うのではないかという気がした。
「約束を覚えていてくださっただけでなく、そんなに常日頃考えてくださっていたとは、……息ができなくなりそうです」
「嫌だよ。まだ元気でいてよ。僕が先に死んじゃったらどうしよう? いや、どうしようじゃないか。そのほうが、ジョーカーがいるんだから、おいしく料理してくれるな」
「はっ、と、とんでもないことです! カムイ様を……カムイ様が……」
抑えることもない涙がぼろりとこぼれ、それを見たカムイはひどく驚いた。
「えっ、だめなのか? ごめん、僕もジョーカーに食べてもらえるなら、ものすごくうれしいと思ってたんだけれど」
「そんな、まず、カムイ様はしっかりと弔われなければなりませんし、い、え、そんな、俺は、そんなこと……」
狼狽して話している間にやっと自分が泣いていることに気付いたらしく、ジョーカーははっと気を取り直した。口元を隠し、赤くうるむ目元だけがのぞく。
「し、失礼……いたしました……。カムイ様のすべてのために生きるのが私です。そのようなこと万が一、億が一、ありましたら、そのときは立派にお見送りをしまして、済んだら際限なく悲しんで泣いて、干からびてそのままお供することになるでしょう」
「そう、なのか。ジョーカーはそれでいいの?」
「私にとってカムイ様は大地です。住まう土がすべて涸れて長く生きている生き物があるでしょうか」
そういうものなのだ、という自信と誇らしささえ感じさせるジョーカーの態度に、カムイは少しは納得したようだった。そうして、汗と肌を密着させて言った。
「じゃあ、生きてる間に、僕をいっぱい食べて。こうやったり、僕の淹れた紅茶を飲んだり、僕を一生懸命見つめたり、してくれ」
互いを食べてひとつになるとか、死んだらあとを追うことになるとか、いささか猟奇的な話のはずなのに、主の提案はしごく真っ当な愛情の行いだった。主は心優しく人が好いようにしか、外からは見えない。しかしその口の中が真紅であることをジョーカーは知っている。
「ずっと、そのようにしましょう。もとよりそれが私の糧なのです」
潤んだ肌を抱きしめ返してジョーカーは答えた。
この酒のようにあまい汗が、糧でも花でも薬でも毒でも。好きなものを食べて生き、好きなものを食べて死にたいと思うように、その愛しい命の香りを秘めやかに吸いこんだ。
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