どろどろになってしまった着衣とシーツを剥いで、きしむ体に鞭打ってジョーカーは主の体を清めた。僕がやる、とカムイは申し出たが、ジョーカーは私の仕事ですと譲らなかった。
「ジョーカー、あのさ……」
足を拭かれながらカムイは遠慮がちに問いかけた。
「みっともないけど、蒸し返してもいい? 僕に幻滅しない?」
「するわけがございません」
ジョーカーは顔を上げきっぱりと答えた。どぎまぎと視線を伏せて、自信なさそうにカムイは話し出した。
「ジョーカーは、満月のときにしか僕を欲しがってくれないよね。今日みたいに、他のときに竜の僕を受け入れてくれることはあるけど、満月のときのジョーカーはたくさんねだるような言葉をくれて、いつもより楽しそうに見える」
ジョーカーは口を開けて顔を真っ赤にした。
カムイの言葉の途中から、あえて記憶の表面から隠していた無礼が無限に思い出された。穴があったら身を投げて死にたいほどだったが、主を放って勝手に死ぬわけにはいかない。
「どうして、いつもはそうしてくれないの?」
この方はなんということを言うのだ? とジョーカーは困惑した。
「そ……れは……。満月の『あの』ときのあなたは、何やらいい匂いがして……私は気がおかしくなっていて……、多大なる失礼を……」
「匂いって、これ?」
「!」
ふっとあの満月の甘い香りが鼻先に押し付けられてジョーカーは跪いたまま半歩退いた。ただ、手首をかざされただけだった。なのに満月のあの、脳が溶け落ちるような快感が、鼻から頭蓋にしみて泣きそうになった。
「か、カムイ様、だめです。なんなのですかこれは。薬ですか。そのようなことなさらなくても私は……」
「汗……みたいな……。よくわからないけど、たぶんジョーカーとするときは満月じゃなくてもいつも出てる」
「えっ」
ジョーカーは絶句した。いつも……。
ということは、自分が満月の主の竜の体に甘ったるく酔いしれているのはこの誘引香がどうしようもないからではなく、それは言い訳にしていただけだというのか。そういえば、カムイと二人だけでいるときに似たにおいをうすく嗅いで、気にしないようにしたことも一度や二度ではない。変わらず主に仕えるためとはいえ、自分をごまかして暗示をかけるような精神構造に情けなくなった。
真っ赤になって苦しげに震えているジョーカーから手を引き上げ、カムイはきゅっと指を閉じた。
「もう止めた」
「……はい……」
「もしかしてジョーカー、恥ずかしいの?」
主の気遣わしげな声で図星を突かれると、じわりと涙がにじんだ。声がうわずる。
「あっ、当たり前です! いや恥ずかしいというか……許されることではありませんから。主……主にこのような……」
「許されないから理由をつけてたの?」
何の申し開きも残らなくなってジョーカーは拳を握りしめて震えた。
何が完璧な執事だ。あまりのていたらくを厳しく罰してほしかったが、優しい主にそれを期待していても仕方なかった。
ジョーカーは半歩ぶん主と距離をあけたまま、自分を手ひどく罰するために、直視してこなかった心のうちの懺悔をこころみた。ぽつり、ぽつりと、床に声を落とす。
「……お力を制御できないあなたに抱かれたとき……、
それはもう、……嬉しかったのです。
傷つけてくだされば、それだけわがままになれる気がしました。あなたが我を失うほど、受け入れられるのは自分だけだと……、あなたをお慰めする役目を、ひとり占(じ)めにできる、と……得意になっていました。
……満月のあのときの私が調子に乗っているのは……おそらくそのようなわけです。申し訳ございません。今後ないようにいたします。どうかおそばからは、遠ざけないでくださいませ……」
「どうしてそうなるの」
カムイは揺れをこらえた涙声を止めに入り、ジョーカーと目線を合わせる。
「僕はもっと好きなようにしてと言っているのに。調子に乗るってどういうこと? 僕がジョーカーを傷つけたから、ジョーカーは思う通りに振る舞って、おあいこってことなのか?」
「違います。主にそのような交換条件のようなこと。どうか罰してくださいませ」
頑ななジョーカーにカムイは涙をためて抱きついた。
ジョーカーはびくりと大きく震えて、声だけは平静を装おうとした。
「カムイ、様、もったいない」
「僕も、初めてジョーカーが受け入れてくれたとき、申し訳なくて死にそうだったけれど、本当は嬉しかった。すごく嬉しかったんだ。それで辛かった満月が今は好きになってしまった。ジョーカーには、苦しい思いをさせてるけど」
「苦しくなどありません」
「もっと調子に乗ってほしい。それがおまえの望みならうれしい。せめてジョーカーがしたいことを教えて」
「わたし、は……、カムイ様のおそばにお仕えできるなら、他に何も、望みなどあるはずがありません……。ただ、あなたがいつもお健やかで快適なようにと、ご奉仕しているのです。それが全てです……」
カムイは蒼白になっている顔を見つめた。ジョーカーはその裸の足の甲を一心に見ていた。
優しい主は悲しげに引き下がった。
何も言わずカムイは白い肩に自分の部屋着を羽織らせた。固辞しようとする手を封じて、むりやりに着せかけて立ち上がる。カムイが自分もシャツを着ようとするので、衣を返すより主の更衣を手伝う方が優先されジョーカーはすぐに立ち上がった。
「ごめんね、ジョーカー。僕は……おまえに無理ばかり言ってるね」
釦を留められながらカムイはつぶやいた。
「ジョーカーは完璧な執事だ。その仕事に一生懸命でいてくれてるだけなのに」
「当然のことです。お仕えできて幸せですよ」
「僕は何も持っていなくて、ジョーカーが捧げてくれるものを奪うばかりだ。
外に出られたら、おまえたちが誇れる主になって、僕がジョーカーを守るんだと思っていたのに。僕も、ジョーカーに僕をあげたい。僕のこともジョーカーの好きにしてほしい」
「その、ような……」
「ジョーカーは僕を裏切らないもの。知ってるんだ……。だから、何をしたっていいのに」
あまりに立場の倒錯した言葉にジョーカーは絶句した。今はやわらかな高貴さを漂わせる少年の赤い瞳は愛らしく、一心に自分の執事を見上げている。それは頼りない獣の赤子を思わせた。
この仔羊のような無垢を、自分がどうとでも導けてしまう、という恐ろしさと悦びに、しばしばジョーカーは震えた。
「僕は何も、ジョーカーにしてあげられてない。何か返したくて苦しいんだ。僕がおまえに何を与えた?」
「誇りを」
震えながらも合言葉のようにジョーカーは即答した。その自分の声の凛とした響きで、平静を守った。
「あなたをお守りして、ずっとおそばにいるという、夢をです。
それに私はいつも守られています。あなたの執事であれることに、守られています」
すっかり寝間着を整えられたカムイはジョーカーの紫色の目の奥を見つめた。晴れ渡った色をしていた。先程の、狼狽しきって罰を望む男とは別人のように。
じっと見上げてくる主の愛らしい頬に執事は別れの挨拶を触れた。
「少し……、……考えてまいります」
何を考えるべきなのかはまるでわからなかった。しかしこのまま主に不誠実ではいられないと思った。
「また、明日」
ジョーカーは散らばった着衣を拾い集めて退出した。体はもう鎮まっていたが、衣から薫る主の匂いが慕わしく、袖を嗅いで泣いた。自分のあさましさに触れるのが嫌で、マントのすそにかすかなくちづけを捧げるように、そうと唇を当ててから丁寧に脱いで、沈むように眠った。
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