明くる満月の夕べ。
ジョーカーは湯を使って、よく清めてきた体を整えていた。柔らかく火照った肌にカムイの好きな花の香油をうすく塗りこめ、儀礼を施すように丹念にカムイを迎える場所をほぐす。
簡素な鏡台に映る裸の体を値踏みするように眺めた。――見苦しくは、ない。昨日の傷はほとんどふさがっていた。あざやかに赤く鬱血している肩口の新しい痕を、ジョーカーは美しい文様の化粧のように愛でて指先でそっとなぞった。
満月の夜には、ジョーカーは常以上に体のすべてを主に捧げるモノとして見ていた。神が召し上がる、供犠になるのだ。綻びがあってはいけない。
綻びが、あっては……。
鏡の中の男の顔を見る。情けない目をしているように見えた。早くおそばに戻らなければと思うのに、思うほど、なんて顔をしているのだろうと途方に暮れた。なぜ、そんな顔をする。こんなことだから主にもの欲しげだと思われてしまう。主に不満などあるはずがない。思うたび涙ぐむほどに、幸せだ。もしそうでないのだとしたら、どうしたらいいのだろう?
「俺は……カムイ様の、ものだ……」
鏡の中に言い聞かせるようにつぶやいてジョーカーはシャツを着た。明かりを落とした部屋に逃れようなく皓々と月光が照っていた。
「失礼いたします、カムイ様。ジョーカーが参りました」
声をかけても返事はなかったが、あの甘いにおいが扉の内側からジョーカーを誘っていた。そっと扉を開くと足元にやさしく水の幻がうち寄せ、ジョーカーはぬのぐつを脱いで裸足をさらした。
「カムイ様」
寝台の上に獅子のように気高く、銀の竜は座っていた。ヒトの言葉を発さずにいる大きな獣は恐ろしいもののはずだったが、ジョーカーはこの部屋の中で自分にしか見せない静かな竜の姿が愛おしくて、柔らかく笑んだ。
足を浸す甘い香りのなか、カムイを正面に見つめながら服を落とし一糸まとわぬ姿になる。日常を残らず脱ぎ捨てるように、落ちた布から足を抜きとり、両腕を広げ、踏み出す。
「来てください」
歌うようにジョーカーは竜に語りかけた。
何が欲しい、もっと欲しがれと言われて考えてみても、それがジョーカーの精一杯の望みだった。
そばにありたい。この方から誰もが遠ざかるときも、また誰をも遠ざけるときも、自分だけは血を流してもそばにいたい。それだけしか思いつけなかった。主には自分でも見えない心のうちが透けて見えているのかもしれない。それでも執事である自分にはそれより先は目が眩んでどうしても見えなかった。今がもう、十分に幸せなのだから。
窓からさす月光に優美に前足を通し、ざぶ、ざぶ、と竜はゆっくりと近づいてきた。騎乗用の魔竜よりずっとほっそりとした、しかし鋭く威容である銀の頸がジョーカーの首筋にすり寄る。
獣の息遣いが頭蓋に響いて、ジョーカーはごく自然に主が体温を求めていることを察し、惜しげなく熱い血の脈うつ首元の急所を押し当てた。剣より鋭い牙が肌を押し切りそうになるのもかまわず甘く愛撫して、なめらかに丸い不完全な竜の頭部に口づけを捧げる。
何度も懸命に愛を伝えているうちに、また甘いにおいが体に入り込んできてジョーカーは頭が働かなくなっていくのを感じた。いや、思考や理性が弱るのではない。主と心がつながったようになり、ともにむき出しの感覚だけの生き物になっていくのだ。自分の息遣いが早くなるのを五感すべてで聴いた。
「カムイ……様……」
カムイからは唸るような呼吸だけが響いていた。獣欲で喋るような状態ではないのか、人の言葉が出ないほど竜化が深いのか、それとも単に黙っているだけなのかはわからなかった。
しかしジョーカーはふたり背中を合わせて戦うように、また踊るように、主の体が何を求めているのか考えずともわかるように思った。主のための、体の一部たる道具であれることをジョーカーは願った。
それは赤子が求める母のようになりたいというような切望だった。
カムイの頸がジョーカーの背に回り、そのまま背中を通って竜の体がすり回っていく。猫などそんなに愛らしいと思ったこともないが、大きな猫のようでたまらなくいとおしいと思う。尻尾が確かな力でウエストを押すのに追われ、従順に寝台へ連れられていく。自分からそこに手をついて誘うと、カムイは喉をきゅうと鳴らして頭を横に振った。
「カムイ様……、こうではなくて? ……こちらが、お好みですか……?」
ジョーカーは竜の口元に触れて体を反転させた。腹をすぐにも刺し貫ける牙が、すり寄ってくる頭の動きにあわせて柔らかい肌に当たる。これでシーツに花でも飾ったならば、自分はこの神のために心臓をさばき取られる供物に見えるだろう、と思ってジョーカーはうっとりとした。
香油のわずかな香りを嗅ぎつくすようにカムイの長い頸は頬ずりの動きをくり返す。角や牙に阻まれてぴったりとは触れられない一生懸命なその様子に、早く喰らってほしくてたまらなくなる。仰向けに脚を開き、竜の腰に絡めようと精一杯伸ばした。
「こちらに……。カムイ様、ジョーカーは……あなたのものです……」
カムイは吠え声をひとつあげた。――歓喜の声だ。嬉しくてジョーカーは涙をこぼしながら急いて腰を揺らす。
「カムイ様、早……く、ぁっ、あアァッ……ア! カムイ、さま!」
ぬるぬるに慣らして最初からとろけている孔に、それでも包みきれない凶器が押し入る。浅いところを先端が叩くように擦り、もっと強く来てください、と叫ぶように促すと一気に刺し貫かれた。衝撃なのか快感なのか感動なのかわからない強烈な何かで一瞬意識が飛びそうになる。がくがくと震える脚をうまく竜の体に巻きつけられず、打ち付けられている銀色の後脚を足でもって必死に愛撫しているようなかたちになる。
「あっ、あァッ、はーっ……! す、好きに……、カムイ様のお好きに……してください……! 加減は、いりません。カムイ様、カムイさまぁ、あ!」
もがく脚の片方を長い竜の尾がとらえてクンと引いた。その刺激よりも縛るように絡められたカムイの尾をジョーカーは涙を流して喜んだ。拘束されている。カムイ様のいいように動かされている。くいくいと微妙に動かされながら突かれると本当に主を喜ばせる手足になれたようで、熱い感動に包まれた。
「きっ、気持ちいい、ですか? カムイ様、俺はっ、はぁっ……! いいですかっ……?」
主が好きに動いても寝台から落ちぬように縁を掴んで、川面の木の葉のようにひたすら翻弄されながらジョーカーは尋ねた。獣の低く深い吐息が我に返ったようにひとつ吸われ、長い頸はきゅう、と丸まって甘えてきた。主が愛しくてかわいらしくて、溶けてしまいそうだった。
「よかっ、た、お役に……ア、あッぁ……、たてて……幸せですっ……。もっと俺を使ってください……!」
恍惚として言うとカムイは少し悲しげに、気遣うように動きをゆるくした。
ジョーカーは優しい主が何を言わんとしているのか、言葉を聞くようにわかった。おまえは道具ではない、と。
主に気遣いをさせず空気のように自然に在るのが執事の職分。ジョーカーは分を忘れた失言を恥じた。ゆるい抜き差しの中で息を整えながら、握り締めていた片手を寝台から離して伸ばす。
「いいえ……いい、の……です。お慕いしています。すべて、あなたのものです。もっともっと、あなたのものにしてくださいませ……。ひとつに……、ッ、!」
言葉の途中で唸り声とともに捻じるように貫かれ、ジョーカーは声のない叫びをあげた。激しい動きは中の悦いところをごりごりと擦り上げ、奥のつきあたりに何度も触れた。
「あ、アァ! あっあッ、あうぅっ、あー! カムイ様! かっ……、ひぃアあぁっ、いああァ!」
明らかに自分を激しく感じさせようとしている主に戸惑い、急な快感の洪水についていけずぎゅっと目をつむる。火花が散るような快に焦って位置をずらそうとしてもそのたびに追いつかれ、ジョーカーは頭が真っ白になったまま後ろだけで一度二度絶頂した。
「う……ふう、ぅん……っ! どうにか……なっ、て、しまいます……! か、カムイ、さま、んっ……、んんっ……!」
頂点を超えて弛緩してもまだ収まらない火にジョーカーは初めてひどく恐怖した。
これはなんだ。俺はご奉仕をしなければならないのに。体が熱くて勝手に震えてしまう。
痛みも傷も主のためのものならば恐ろしくはない。けれど、あまりの狂おしい熱情に、主の熱ではなく自分の魂が燃えている炎にまかれて、ジョーカーは、怖い、と思った。この方を残して狂い死にたくない。もっと生きていたい。いや、もっと、もっと、抱かれたい。
浮かんだその罪深い強欲の言葉にジョーカーは泣いた。鎧を、まとうことができない。何もかも裸にされて、自分をかたちづくっていた大切な忠義のかたちが剥がれていく。それは死ぬよりつらいことだった。
――ジョーカーがしたいことを教えて。
優しい声がなぜか蘇った。
「……怖い、です、カムイ様っ……、あっ、あっ、いやです、気が狂ってしまいます! あああ……! だめだ……っ!」
初めての拒絶の言葉にカムイはぴくりと律動を乱した。恐ろしいのに逃れようという考えは浮かばず、ジョーカーはカムイの前脚に必死にしがみつきながら首を振った。
「あぁ、ああー! カムイ様ぁ、だめ、だめですっ、申し訳っ……、こ……怖……い……!」
『ジョーカー……?』
うわごとのように、やっとカムイは人の言葉を発声し動きを止めた。
『ジョーカー、どうしたの? ごめん……ごめんね……!』
動きを止めている主が息と腰を震わせているのを感じた。泣きじゃくりながら、自分の都合で主に我慢を強いている不忠にジョーカーは目の前が真っ暗になった。
「も……し、わけ、ありません。どう、ぞ、私を、もう……もう……」
『どうしたの。やめ……たいっ……?』
「ちがいます、殺してくださいっ……。その、お手で、私を罰して、裂き殺してくださいませ。こんな、こんな……、もっと、痛く……ひどくして……どうか殺してください。おねがいです……どうか……、こん、な」
『……ジョーカー……』
錯乱しているジョーカーを見てカムイはせつなげにいなないた。幻の水が浮き上がり、熱い肌を包んで慰撫する。優しく揺らされる安心感に全身浮いたようになりながらジョーカーは涙と不安をぼろぼろとこぼした。
「あ……! あああ、カムイ、さまっ、怖いです。ひっ、あっ、お優しく、しないで……ください……おかしいですっ……!
ああいいっ……! いいです、ごめんなさい! い、あ、……ぁ!!」
『ジョーカー……っ』
ジョーカーに続いて出されたカムイの精が腹に胸にかかった。その熱さと、快感が急に拡散した燃えるような痛みとが、夜の空気に冷めていくのにまたジョーカーは泣いた。自分がしたいことを、欲しいものを知って泣いた。血を流しぽっかりと空いたうつろを埋めるように、息を乱したまま、発光しヒトの腕に戻っていく前脚を甘く噛んだ。やがてカムイはやわらかい少年の肌に戻り、震えるくちびるで自分の腕を必死に食んでいる愛しい人の頬にくちづけた。
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