机に着いているカムイの斜め前方でジョーカーは軍備の報告を読み上げていた。夜も更けてきた、カムイは少し疲れを目元に落として、書類と報告を照らし合わせて確認している。
今日もカムイはよく城を見回っていた。この、星竜の城に満ちあふれているという竜脈の力が安定しているのは、カムイとリリスの意思が行き渡っているからだ。
それに加えて軍を率いる責務もあるのだ、疲れるのは当然だろう。それに昨夜も……、
ジョーカーははっと我に返って主にわからぬ程度に唇を噛んだ。カムイが書類になにやら書き足しをしているのを待つ少しの間に、とんでもないところに思考が流れていた。何食わぬ顔でふたたび読み上げを始める。
しばらくしてまたカムイのペンが動き、きりのよいところで読み上げを一旦止める。北の城塞できょうだいたちに手紙を書くのを慰みにしていたカムイの字はとても生気があり、美麗ではないが愛嬌がある。字を書くカムイの腕のすらりとしたかっこうは竜になったときの長い頸と似ている。
ああ、昨夜もあの頸を擦りつけて甘えられた。変化のたびに少しずつ竜の度合いの違う、口なのかなんなのかわからない異形の顎にたくさん甘噛みされて食べられてしまうかと思った。食べられたかった。なのに逆に、僕を求めて、なんて言われてしまって、そうだ、もっとカムイ様のものにしてくださいと言ったのだった……。血も賜って、俺はもうすっかりカムイ様のものなのだ。もっともっとカムイ様のものだと刻み付けてほしいのだ……。
「ん、……ぅ」
「!」
カムイがこくりと舟をこいでジョーカーは現実に戻った。
おい卑しすぎるぞこの淫乱め、と自分を罵りながらあわててひそかに下半身を確認する。まあ、大丈夫な範囲だ。息をひとつついて、うとうととするカムイの椅子の後ろに回って優しく肩をゆすってやる。
「カムイ様」
「ん?」
「もう少しです。起きてください」
「うん……。ふう……、ああ、ジョーカーに触りたいなあ……」
温泉に入りたいなあ、と言うような解放を求める調子で言って、カムイは伸びをした。憩いとして風呂より先に求められていることにジョーカーは痺れるくらいきゅんとくる。抱きついてしまいそうなのを抑えて、眠気醒ましのために肩をぽんと叩く。
「いくらでも触ってください。……これが頑張れたら、すごいマッサージをしてさしあげますからね」
カムイは書類に向き直る横顔を耳までぱあっと赤くした。かわいい、なんて可愛らしい俺のカムイ様、と思いながら微笑んで元の定位置に戻る。
血を交わした夜、人に見せられぬ苦しいところを全部くださいと言ったジョーカーの望みを、カムイは叶えてくれていた。激しく抱かれたあとは主が和らいでいるのがわかる。星界でさかんに竜の力を使うと疲れるよりも良かれ悪しかれ刺激され、竜の姿を顕して性交すると何か発散されるものがあるのだろう。主のしている仕事の役に立てるのは嬉しいことだった。
カムイは仲間のためにこの城を整えられることを喜んでいる。優しい人だ。その優しさが自分や使用人仲間以外に与えられるのであっても、やはりたまらなく好きだと、一生懸命に書類と向き合うカムイを見ながらジョーカーは目を細めた。
「カムイ様。お背中をお流ししましょう」
『わっ』
軍務のあといったん別れ、浴場にカムイの服を確認したジョーカーは、声をかけた扉の向こうにばしゃんという水音を聞いて既視感に背筋が寒くなった。どうされました、と急いで飛び込むとそこには竜の姿があった。
「カムイ様……!」
『あっ、ち、違う。ごめんジョーカー。遊んでた……』
血相を変えた執事の様子に、竜の体のままカムイは脚をたたんですまなそうに縮こまった。今日の変化はそうすると人の目線より小さくなる。また何か我慢しがたいものを一人でこらえているのではと本気で思ったジョーカーは、遊んでた、という言葉を聞いてもしばらく緊迫していた。
「遊んで……」
『そう……です……。水遊びしてました……。ごめんなさい』
「水遊び、ですか?」
『うん』
カムイが頸を下げ尾を挙げると、少し向こうの浴槽に注ぎ落ちるはずの湯がふっと浮き上がり雨ほどの粒をなした。
それらは互いに合わさって大きな粒になったりはじけて散ったりし、やがて周りをとりまいた。夜の浴場のほの灯りを反射してきらきらと噴水のような光の粒を、ジョーカーはしばしぼんやりと見た。
『こんなかんじ。みんなのお風呂の水で遊んじゃいけないね。ごめん』
「……そのまま」
『え?』
「どうぞ、遊んでいらしてください。このまま、私が洗ってさしあげます」
ジョーカーは竜ににっこりと笑いかけた。
縮こまったカムイを立ち上がらせて石鹸を泡立てる。花の香りが広がった。泡と海綿でつるりとした銀の体を擦り洗うと、気持ちよさそうにのびのびと尾を動かして、そのたびに水がきらめいた。大きな竜の体を洗うのは、やっていることとしては騎馬の世話と似ていたが、とても幸せな気分になった。ときに背伸びをしたり頸や脚を曲げてもらったりしながら全身をくまなく洗う。
「カムイ様、翼を」
『うん』
広げた翼を撫で洗いながら、洗うところがたくさんあっていい、とジョーカーはにこにことした。竜の姿のカムイが衝動をぶつけられるのがジョーカーならば、主に奉仕したいジョーカーの気持ちをより満たすのも、緊張をほどいた竜のカムイなのかもしれなかった。
さあ、流しましょう、と声をかけると、カムイは頸を高くそらした。浮いてきらめていた湯が大粒の雨のように竜の上に注ぎ、雨が通り過ぎたあとカムイはぷるぷる頭を振った。
銀色をうつす無数のあたたかい雨粒に、ジョーカーは見とれていた。
「カムイ様の水はきれいですね」
『水は、もとからきれいなものだよ』
「私にはそういう感性がありません。……カムイ様は豊かな心をお持ちですから、おかしいと思われるかもしれませんが、私には手放しで美しいと思えるものなど、世界中であなた以外にはないんです。でも、なぜでしょうね、水はきれいなもののように、私にも思えてきました」
笑ったような気配のあと、また湯口から出ている水が浮いて飛沫をなした。ひとつひとつが紺色の薄闇の中に輝いている。暗夜に光量の強い陽はささなかったが、夜が晴天であることはあった。小さな光が無数に揺れているさまはそれに似ていた。
「星空のようです」
つぶやくと、星空の中心でカムイはまた頸をのばした。すると今度はジョーカーの上に雨が落ちジョーカーは頭からぬるま湯をかぶった。
「うわっ。カムイ様! びっくりするでしょう!」
『ふふふ』
楽しげに笑ってカムイは頸を寄せて甘えてきた。濡れた鱗と肌が触れ合い擦り合わされる。可愛らしい。気持ちがいい。――いけない。
ジョーカーは一瞬でじゃれ合う遊び相手から主人の生活を整える執事の顔になった。これは、求められている。最低限の抱かれるための準備はすでに済ませてきてあるが、ここではよろしくない。
頸に手のひらを当ててジョーカーはぴしゃりと言った。
「カムイ様。ここではだめです」
カムイは素直に、しかし名残惜しげに頸をひいた。
『……人が来るから?』
「そのようなこと、入り口に細工でもしてくればいいだけのことですが。こんなところではお風邪を召します。疲れていらっしゃるのですからよく温まってお部屋に帰りましょう、早く」
彼の師のように毅然として主を案じる口ぶりだった。そう思ってカムイは少年の姿に戻って微笑んだ。ジョーカーは何を笑われたのかわからなかったが、ともかく主に湯を使わせた。
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