行軍中の野営の夜にジョーカーは繕い物をしていた。焚火(たきび)の明るさで照らされた手元にあるのはもちろんカムイの服である。
『恋人』の座をジョーカーが拒んでからしばらく、カムイに伽の奉仕を求められていなかった。もともとそこまで頻繁に交わっていたわけではない。常に主にめちゃくちゃに蹂躙されたい欲望があるのは事実だが、自分たちは揺らぐことなく主従なのだから、それがあってもなくても不自然な状況ではない。そう思おうとしているのはジョーカーだけかもしれなかったが。
カムイはあの夜のことなどなかったようにいつも通り朗らかで屈託ない。一度後ろから腕をつかまれたときは、あの誘う香りに捕らえられて問い詰められてしまうのでは、と身構えたが、ただ笑顔で抱きついて甘えられただけだった。抱き返さないようにこらえて棒立ちになっているのを笑われた。笑えるのならば、よかった。そう思って少し安心した。
「ジョーカー?」
「はっ」
背後から声をかけられてジョーカーは猫背になっていた上半身をぴんと伸ばした。体が動いてから主の声を頭が理解する。振り返ると毛布をまきつけたカムイが焚火に近付いてきていて、そのまま隣に腰を下ろしてくるところだった。
ぴったりと寄り添うふたつの体。天幕から外に出ている者はほかにない。今日の月はわりに明るい。
状況を分析してジョーカーは針を危険のないところに引っ込めようとした。いつでもひそかに奉仕ができるようにと。
「あ、やめないで。そのまま」
カムイはジョーカーの袖の布をつかんで首を横に振った。そのままと言われても主を無視するように針仕事など続けることはできず、一瞬手の置きどころに困る。その手元をカムイは覗き込んだ。
「続けてよ。見ていていい?」
「は、はい……、かまいませんが。……失礼します」
促され、ジョーカーは先ほどより行儀(ぎょうぎ)の良い様子で作業を再開した。焚火に照らされた伏し目がやさしげに手の動きを見つめる。
ジョーカーは北の城塞に住まっていたときにもあった、よく似た情景を思い出した。
あれはギュンターの厳しい試験をなんとか通り、邪魔者も数人蹴落として、晴れて『カムイ王子の執事』という運命の肩書きをつかんだ、すぐあとのことだ。執事としての一人部屋を与えられ、暖炉の前でカムイの服を縫える幸せに浸っていたジョーカーを、カムイは嬉しそうに訪ねてきた。きっと、これからは自分の部屋だけでなくジョーカーの部屋でも夜のお喋りができると、それを楽しみに来たのだろう。その気持ちを感じて本当に執事になってよかったと思った。あのときも今のようにすぐ針を置こうとしたのを、カムイに続けてと言われたのだ。
本当は話がしたくて来たはずなのに、優しい主は気を散らさぬようにと思ったのか、ただにこにこと手元を見ていた。冬のことだった。隣で暖炉の火にあたりながら、椅子と椅子をくっつけて寄り添い合った。
『僕の執事になってくれてありがとう、ジョーカー』とカムイはむにゃむにゃ言ってくれた。
とても自然に、幸せな気分だった。
「カムイ様」
「ん?」
「先日の、……夜は、わからぬことを言って申し訳ありませんでした」
あの冬の日と同じようにあたたかに作業を見守っていたカムイは、えっという表情で横顔を見上げた。そして見るからに苦い顔をして、それでも首を振ってジョーカーの謝罪をゆるした。
「ううん……」
カムイは何か言いかけてやめた。語りかけるようにそっと唇を合わせられる。それだけでも、なんともいえず気持ちがよくジョーカーはうっとりとしてしまう。カムイ様が俺にくちづけをしてくださっているんだ、と頭で考えてしまうともう、意識が飛びそうになる。困って身を退いた。
「も、うしわけ、ございません、今は……。辛抱できなくなりますので」
「ごめん」
小さないたずらをとがめられたようにカムイは殊勝に謝った。ジョーカーが思ったよりもカムイは落ち着いているようだった。もうしばらくの間は距離を置かれるか、あるいは口説き詰められるかもしれないと思っていた。主の柔らかな心に包まれて、ジョーカーは安心した。
針を進めながらジョーカーはぽつぽつと話しだした。
「私は、その、実は、こういったことが得意ではありません」
こういったこと、という言い方をどうとったか、カムイはきょとんとした。
「……ジョーカーはとても上手だ。キスも裁縫も」
「そ、そういうことでは……。
……隠さずに申し上げます。私は閨房のことが好きではないのです」
はっきりと言い切ってから、すばやく針を置いて手をとる。
「カムイ様は別です! 誤解なさらないでください。ですから……ですから……」
ですから、あなたの恋人にふさわしくありません。
ですから、もっとあなたと抱き合いたいです。
ですから――、
口に出すべき言葉がまとまらず、ジョーカーは涙が出そうになった。カムイは黙って、続かない言葉を聴き噛みしめていてくれた。それに甘えて、ジョーカーは熱くなった目元を隠して下を向いた。
「……このようになる自分が、居心地が悪く……。戸惑ってしまいます……」
少しの沈黙が流れた。
そしてカムイは何を思ったか、ジョーカーの下げた頭を子供か猫でもにするように撫ではじめた。
「カ、カムイ様」
「これも嫌?」
「ですから、カムイ様は別です。カムイ様がしてくださることが嫌などありえません」
「それは僕のことを、主として愛してくれてるからってことだよね」
図星を指されてジョーカーはまた泣きそうになった。主の大きな愛がわがままな自分を許して、そして寂しくも感じているのがわかる気がしたからだった。
「知っていて。ジョーカーの好きが、僕は嬉しいんだよ。僕の気持ちと違ってもいい。だって、みんな心は違うものな。だから今みたいに正直でいてほしい。嘘は言わないで。ジョーカーの全部が好き」
ぽんぽんと励ます手は欲望を匂わせず、清らかで勇敢だった。
カムイのそんなところが、ジョーカーはたまらなく好きだった。
「だめ、です」
ジョーカーはやんわりと主を押し返した。
「えっ。今のの何がだめなの?」
「もったいないです。私はあなたをお慰めできるだけで満足で、身に余る光栄です。嘘はこれからも決して申しませんが、そのようなお言葉はどうかとっておいてください」
「いつ使えばいいんだ」
「未来の、お妃様などに」
突き放したことを言っているのはわかっていた。しかし、本当にとっておいてほしかった。愛している。毎日こうして強く確信する。だから主の運命のすべてがより幸せになるように、それを喜べるようになりたかった。
少し間があって、そう、とだけ言ってカムイは黙り、ふたたび繕い物をするジョーカーの手元を見た。
ふいに肩にこてん、と頭が載せられジョーカーは針を止めた。
「! カムイさま……」
「あ、ご、ごめん。あの……僕、邪魔だね。くっつきたくなってしまう……」
「いえ……いえ、……おいでください!」
子供のころと同じ愛らしさにたまらなくなり、ジョーカーは甘えるならいくらでもと仕事を置いて腕を広げた。
「……ふふ」
カムイはそれを見て幸せそうに微笑んだが、その腕には甘えずのびあがって竜の姿になった。ジョーカーはぎょっとした。
「えっ……と、カムイ様、ここでそのお姿では、他の者が……。人のお姿ならば隠れてお慰めすることが」
『ううん』
カムイは真っ赤になってしまったジョーカーにすり寄り、頸と体と尾でもってとりまくように座った。ちょうど背中に竜の胴が添った。
『こうしててもいい?』
「……はい」
ジョーカーは浮かせた腰をふたたび下ろした。
大きな竜の体で、夜の空気が遮られる中で、ジョーカーは針仕事の続きを終わらせた。体の周りすべてから竜の鼓動や、息遣いを感じた。大きなものに、穏やかにとりまかれている。少し寄りかかるとカムイはうれしそうに喉を鳴らした。ジョーカーはとろとろと裁縫道具を片付けた。
「カムイ様……ごめんなさい、眠いです……」
『うん。僕も。ちょっと寝よう。少ししたら、誰かが代わりにくるだろ』
毛布をカムイの尾が器用に引いてくる。ジョーカーはありがたくそれにくるまりながらも眉根を厳しくした。
「だめです……カムイ様は、天幕にお戻りください……。お体を冷やします……」
『大丈夫。竜だとね、寒い熱いって感じないんだ。周りにいつもちょうどいい空気があるみたい。不思議だね』
言われてみれば、焚火以上にカムイに取り囲まれているすべての方向が暖かかった。意思だけで水を操れるのだ、もはやこちらが本来の姿であるかのように慣れたこの偉大な生き物には、寒暖など問題にならないのだろう。ほんのりといつもの甘い匂いもした。
長い尾に引き寄せられ、ジョーカーは目を閉じた。
「カムイ様……大好きです……」
『うん。おやすみジョーカー』
「大好き……です……」
焚火のゆれる光に、水面のごとく銀の竜身はきらきら光った。あたたかい海の中でジョーカーは眠った。大きな銀色とそれにくるまれた人間はひとつのかたまりのように見えた。
「ジョーカーさん。カムイ様ならお部屋にはいらっしゃいませんよ」
月の満ちかけた日暮れ時。上がってきた報告の書類を主に渡そうと城の外回廊を歩いていたジョーカーは後ろから呼びかけられて止まった。たった今そこを通ってきたはずだったが、ちらりと振り向くと端正な男が隠れるでもなく廊下のわきの石階段に腰かけていた。
「……おまえか」
気配に気づけなかったことにむかついてジョーカーは顔をしかめた。スズカゼであった。
非友好的なジョーカーの様子を意に介さず、スズカゼは自分の座る隣に、懐から取り出した墨染の手ぬぐいを婦人にするように敷いて席をすすめた。つまらなそうにジョーカーはどっかりと座る。
「どちらにいらっしゃるかは聞かないのですか」
「いい、お部屋にいらっしゃらないなら、急ぎでもないしな。おまえがここにいるってことは、まあこの近くにいらっしゃるってことだろう。違うか」
「流石ですね」
「俺に世辞はいいんだよ、気色悪い」
スズカゼのほうをしっかり見もせず、傲然と顎を上げてジョーカーは脚を組んだ。スズカゼは最初からずっと微笑んでいるのか無表情なのかわからない慎み深い顔をしてジョーカーを見ている。
スズカゼの表情や所作は、白夜人らしい和と礼のありようなのだという。カムイに仕えたいと言い出した忍はジョーカーのように折あれば言葉を尽くして心を伝えたりはせず、忠誠心があるのかあやしいものだとはじめは思われた。ただ、どうやらその思いは本物であるようだと、ジョーカーにはわかってきた。何があったわけでもない。もしかすると自分はこの男に何か嫉妬をしていたのかもしれない、と過去形でふとジョーカーは思った。今もしているが、とも。
だしぬけにスズカゼが切り出した。
「今日の軍議は、ジョーカーさんのおかげでまとまりましたね。ありがとうございました」
「は? 俺は執事をしてただけで発言なんてしてないだろ。茶がうまかったって言いたいのか」
「カムイ様は、あなたが後ろに控えていると殊に自信を持った言葉をおっしゃいます。それで皆さんがよく納得されていたので」
ジョーカーはそこでやっとスズカゼを横目に睨み下ろした。
「てめぇ……、カムイ様のご意見が、俺の入れ知恵だとでも?」
「そうではありません。ただ、愚かな私見ですが、カムイ様はあなたがそばにいると、何をしてもあなたがなんとかしてくれるという信頼感で闊達でいらっしゃるのではないでしょうか? 主と臣として、そんなによいことはありません。ですから、ありがとうございます」
ジョーカーは憎々しげに顔を歪めてから、フンと鼻を鳴らし目をそらした。威嚇に対してもあくまで静かなスズカゼに毒気を抜かれてしまった。やはりこの忍は苦手だ。強い、と思う。スズカゼは人を平静に褒めるしかしていないというのに。
「おまえに礼を言われることじゃねえ」
「白夜にはあなたのような職分を果たす臣というのはあまりいないのです。学ばされます。主の私のお世話を務めて心身を近く知るのは近習……暗夜では侍女や召使いと呼ばれるようなものの役目ですし、臣下でなければ公のことにご注進をすることはありません。その両方をすることが執事には可能なのですね。それともあなたが特別そのように努力されているのでしょうか」
「執事といっても上等なのもそれなりなのもいる。カムイ様には上等な執事が、つまりこの俺がついてるだけだ。まあ努力はしてる。それはカムイ様が最高の主だからだがな」
そうですね、と言ってスズカゼは一瞬だけ目に見えて微笑んだ。それから目を伏せて何かもの思っているように指を組んだ。
スズカゼには、常にどこか悲しげでもの憂げな色が漂っているのだと、ジョーカーは気付いた。ジョーカーよりは年長で、美しい男だった。国の文化を隔てても明らかに伝わる、なるほどこれはもてるだろうという空気は分け隔てのない折り目正しさからだけではない。この憂いが、作為なく女を惹きつけるのだろう。それは少しカムイのもつ魅力とも似ていた。
スズカゼは静かに、しかしほんの少しもの憂げな声で言った。
「私はあなたのように目端が利くわけではありませんし、粗忽者で隠密と荒事以外は何をして差し上げることもできません。ただ、忍ですから、あの方の周りを可能な限り見ています。お姿を、見失わないように」
見失わないように、という言葉に、ジョーカーはスズカゼの憂いを覗き見た気がした。
スズカゼはカムイが父である白夜王を殺され攫われたその日、ほんの少年だったその日に、カムイの護衛に加わっていたらしいと、カムイから聞いたことがあった。スズカゼは事件を生き延びたが、その『護衛』の結果カムイがどうなったのかは、もちろんスズカゼよりジョーカーのほうがよく知っていた。
黙っているのも居心地が悪く、ジョーカーは知っていると言うだけ言うことにした。
「……おまえの、話は、カムイ様から聞いた」
「そうですか」
何の話とも言わないのにスズカゼは頷いた。
ジョーカーは苦い顔でふたたび黙った。陽が落ち、暗闇が訪れようとしていた。
「おまえがカムイ様を失って、俺がカムイ様を得たんだな」
スズカゼが微笑むのがわかった。
「あなたのようなすばらしい臣を得られて、カムイ様にはよいことだったのでしょう。私はずっと悔やんできましたが、その先であの方が不幸ではなく優しく育たれた……。
捕虜の身を逃がしてくださったあの日、命を拾われたこともですが、そのことに救われる思いがしたのです。あなたに、感謝しています」
ジョーカーは怒りのような気持ちで目元が熱くなった。
スズカゼの笑みがあまりにも、言葉通りのまっすぐな感謝のみに満たされていたからだった。
そのままでは苛立ちで真っ赤になってしまいそうだったので、揺れる声で吐き捨てた。
「どうして、おまえはそうおキレイなことを言えるんだ」
「えっ?」
「自分がおそばにいられなくて悔やんでも、カムイ様が幸せだからってそんなフワフワ笑って。おまえもサイラスも馬鹿なんじゃないのか? まああいつは馬鹿だが」
スズカゼやサイラスが、フェリシアが、カムイを守ると言いながらも自分のように必死でなく、屈託なく、いつもヤワにさえ見えることが、ジョーカーには理解できなかった。本当は羨ましくて、そのぶんだけどうしようもなく腹立たしかった。
スズカゼの穏やかな強さが欲しい。サイラスの揺らがぬ愚直さがほしい。フェリシアの根拠を必要としない信念がほしい。ジョーカーはいつも精一杯だった。もっと強い心が欲しかった。それが、主の愛に報いることだと。
「失礼ながら、ジョーカーさんも同じなように私には見えます。少なくともここのところは」
「はぁっ……? 一緒にするんじゃねえよ」
「お気に触ってすみません。しかし主を思って私を捨てられる情が真の忠心ではないでしょうか? そしてそれは身を捨てることではなくただ与えることなのだと、私はカムイ様に教えていただきました。いかに自分が変わっても怖れず、変わることなくあの方をお守りすること。私はジョーカーさんには及びません」
捨てることではなく、ただ与えること。変わっても、変わることなく。
スズカゼの言葉は矛盾して意味がわからないようで、いま一歩でわかりそうな気のする自分もいた。焼けつくようにカムイに会いたかった。これはおそらく私心だろう。私を捨てることなど自分にできるものだろうか。こんなにも欲しくてたまらないことを、自覚してしまったのだというのに。
「……わからねえ」
ジョーカーはスズカゼの方から視線をそらして爪先を動かした。すかさずスズカゼは腕をさし上げて、廊下の続く右側を示した。
「あちらにいらっしゃいます」
月がところどころ照っているとはいえ暗い夜の廊下の闇の向こうを、スズカゼと違ってジョーカーは感じ取ることができない。ただ同じ主を想うこの男の言葉を妬み疑う気持ちは失せていた。ジョーカーはぶっきらぼうにそうか、とだけ返事をして立ち上がり、主に向かって歩き出した。一心に走るように。
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