カムイは窓に手をついて星空を見上げていた。角と尻尾がひかえめに出ていて、尾の周りをきらきらと銀色の細かな光の粒が踊っていた。
荒ぶることなく、ゆったりと揺れているそれに、声をかけずにジョーカーは見惚れた。
俺がいなくてもカムイ様は大丈夫なのかもしれない。
思って少し目の前が涙でかすんだ。そんなのは耐えられない、と思ったからではない。そうなっていくのがいいことなのだ、と思った自分にとまどい、何か遠い旅路を振り返ってみるような感傷に襲われたからだった。カムイ様は大丈夫なんだ、そう思うと嬉しさでほろほろと涙が出た。
いつまでも、この腕の中だけにいてほしいと、願わなくても。
この世には、それを喜べることがあるんだと、ただ立ち尽くして不思議に思っていた。
「カムイ様、もうすぐ夕食ですよ」
落ちるにまかせていた涙をしっかりとふきとってから声をかけると、カムイは角と尻尾を気にせず振り返った。いることを知っていたというような笑みに気恥ずかしくなるが、表には出さずに微笑み返す。
竜は腕と尻尾で執事にじゃれつき、白いシャツの肩にぴとりと頬を寄せて、砂糖が湯に溶けるようにまったくの少年の姿に戻った。
「赤い」
目元に触れてカムイは案じた。
「泣いてたの?」
「カムイ様が美しく雄々しく成長されたことに感動していたのです」
ジョーカーらしい、冗談のように大仰な言葉にカムイは苦笑した。そして目を閉じて、ひとつ息をついて、穏やかに開いた。
紅玉の瞳の色の深さを、一滴残らず飲み干すように見つめてジョーカーはまぶしく目を細めた。
「僕はジョーカーにとても愛されてる」
ふいにはっきりと言われジョーカーははにかみ顔を赤らめた。
「はい。もちろんです。この世のすべてよりも」
「ジョーカーも、僕に愛されてるのをわかって」
ジョーカーは少し困ってごにょごにょ言った。
「……カムイ様、それは……」
「僕の思いなんて自分に比べたらたいしたことないと思ってる?」
明らかにすねた声に、無礼にも笑ってしまった。どうしてこんなにこの人はいとおしいのだろう。いつだって火が燃えているようだ。この宵闇の中でも、陽の差さぬ祖国でも。絶えない炎に心を焼かれ体を焼かれて、頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいのだ。それでいい。
「……申し訳ございません。私のような気持ちに、カムイ様はなる必要はありません。張り合ったりしないでください」
「どうして」
「お体に障るからです」
ジョーカーは悟りきったように晴れやかに笑った。主の眉が下がり、泣きそうな子供のような顔が色づくのを見て、ああ、俺は本当に愛されているんだな、と思った。
「ジョーカーは意地悪だ。わかってるよ。ジョーカーは僕よりずっとずっと深い愛を注いでくれているものね」
「おわかりいただけて恐縮です」
恐縮ですと言いながらも、ジョーカーは得意げに胸を張った。ジョーカーにいつもの調子が戻ったのに安堵してカムイも笑った。
満月の日暮れ時。ジョーカーはまた夕食前にカムイの様子をうかがいにきていた。部屋でくつろいでいたカムイはジョーカーが入ってくるのを見るとにこりとして、ともに夕食に向かった。
「ジョーカー、今夜は散歩をしたいな」
東に面している回廊は、灯りがなくとものぼりはじめた月明りで十分に明るい。ジョーカーは主の顔をうかがった。
「大丈夫なのですか? その……お体は」
「うん。最近はずいぶん制御がきくようになってきたと思うんだ。苦しくなってもジョーカーがいてくれると思えるから、落ち着いていられる。おまえのおかげだよ」
ジョーカーは感動にうち震え、うっとりと目を細めた。
「……身に余るお言葉です」
「竜の力が現れてから、満月の明かりをまともに見られてなかったなと思って。今日は晴れているしきっときれいだろう。ついてきてくれる?」
「もちろん、お供いたしますよ」
そうして夜、カムイはジョーカーを伴って城門の外の野に出でた。
ジョーカーは心配したが、カムイは楽しげに明るいと笑ったり月に手をかざしたりして散歩を満喫していた。カムイが狭い鳥籠から出て、駆けてきた野は戦場ばかりになってしまったが、カムイにとって本来ひらけた場所はそれだけで心躍るものなのだ。
対してジョーカーはといえば、外はあまり好きではなかった。それこそ子供のころは、生家にいたときの自分を知る誰かがいるかもしれないと気になるのが不快で、使いに出るのも渋々だったし、大好きな主と同じ鳥籠に入っているのはとても心地の良いことだった。主のそばに奉仕することと、主の閉じ込められている場所にともにいるのだと思いながら眠ることが、かつてジョーカーは何より好きだった。
それが今は、カムイも自分も籠の外に放している。
ジョーカーは細めた目に満ちた月を映した。視界の額縁にはカムイの歩く背中と、カムイが踏む草地と、そこに茂る木々、カムイが見つめ向かっていく月と紺色の空があった。
月は美しいものだな、とジョーカーは思った。
カムイは歩みをゆるめると振り返った。
「ジョーカー」
「はい」
「キスしたい」
かしこまりました、と親愛のキスが届く距離に一歩踏み出しかけると、それよりもすばやく下からかみつくように口を吸われた。
一瞬驚いて、そこからはカムイのしたいようにまかせる。はじめは不意を打つ勢いのあるものだったが、すぐに表面を触れ合わせるだけに変わり、そのまま長いこと月の下で、息を継ぎながらそうしていた。柔らかいところで柔らかいところを丹念に愛撫するように、角度を変え、甘く食み、ほんの少しずつ粘膜が合わさる。
「ん……、ぅ、……んん……」
「……ん……、ジョーカー……、んっ……」
「あ……」
名前を呼ぶ声が鼓膜から痺れるような快感を響かせて、焦った。ぞくぞくと体の中に泡がたつのが止まらない。はしたない、これでは主がそこまでのつもりではないのに昂ってしまっている淫蕩な犬ではないか。
やはり自分のほうがカムイ様を気持ちよくしてさしあげたい、と思ったが、もしそのまま高まって交わることになってしまったらあまり良い環境ではない。ここでは終わった後に体を清めてさしあげられない、など戸惑ってしまい、しかし満月に拒絶もしたくはなく、結局されるがままに口づけを受け続けた。
舌が入ってくるとつい当然のように応じて絡み合わせてしまう。まとわった唾液を味わうとざわざわと体じゅうで泡がはじけ、頭がぼうっとした。自分より小柄な愛する主の体に、抱きすがりたい、と思った。ついに膝が震えて立っていられずジョーカーはへたりこんだ。
「ジョーカー」
「も……申し訳、ありません……。すぐ、立ちます」
「いいよ。つかまって」
ありがたく手を借りて助け起こされると、そのまま両手を踊るように引かれた。草いきれの中の舞踏は木立につきあたって止まる。胸がどくどくと鳴っていた。社交のためのダンスを教えたときのように、そのまま組み合わさりたい、と衝動がさわぐジョーカーの腕を離して、頬に触れ、カムイは囁くように言った。
「ねえ、ここで……してもいい? ジョーカーがちょっとでも嫌ならしない」
「はい、ぜひ、今……ここで、お願いいたします……」
甘ったるい声で答えて、自分は一体何を口走っているのだろうと思った。お願い? 自分がしてほしいからするのではないのに。主のために良い条件を思うならば部屋に帰って交わるべきなのに。そう思いながら手は行為を急くように下衣を引き下げていた。
「どうぞ、おいでください」
白い臀部と太腿だけが燕尾のすきから覗く状態で、ジョーカーは木の幹に手をついた。カムイの手は燕尾をめくり上げると尻たぶの上を這い、もう一方の手がなぜか上半身をまさぐった。
一瞬で期待のような淫らな気持ちになってしまい、ジョーカーは慌てた。
「あッ……! か、カムイ様、何を。いけませんっ……」
「あった。これだよね」
カムイはジャケットの隠しから何やら取り出した。えっ、とジョーカーが振り返ろうとすると、カムイはたっぷり唾液をまとわせた指で入り口をなぞり割り入ってきた。
「う、っ……!」
「ジョーカーのポケットにはいつも僕が必要なものが何でも入ってるね」
盗まれたのは掌に隠れるほどの容器だった。一見してそれは単なる楕円盤の銀色の、ちょうど小さな手鏡のような飾りだったが、継ぎ目から開くとわずかに香油の薫りのする膏薬が入っていた。
満月や、その近くの抱かれるだろうという夜にはジョーカーはそれを使って自分で準備をしてからカムイに侍っていた。今日も散歩の供をするとはいってももう夜だ、ある程度はすでに解してきてある。ジョーカーは焦って主の過分の配慮を止めようとした。
「カ、カムイ様、けっこうです。お手が汚れます……!」
「僕がしたいの」
カムイが膏薬を指にとる間、後ろを濡らした唾液がひだに染み通って痺れていくような感覚をおぼえた。カムイの体液には特別な魔力がある。唾液にも精液にも汗にも、吐息にさえも。それが月が満ちると意識せずとも自然に強まっていく。他の者も、それを感じ取っているのだろうか?
「んっ……、ぅ、ふ……」
指を挿れてかき回されると、息がみっともなく湿って乱れるのを抑えられなかった。カムイに指を使われるのは初めてだった。和らいでいるはずの道が勝手にぎゅうと締まる。カムイ様の指が、と思うと申し訳なさと背徳感と嬉しさとでわけがわからなくなって、それを漏らさぬようにひたすら唇を噛んでふうふうと息を繰り返し吐いた。カムイ様の指、カムイ様の。後ろから首元に吐息をかけられると、また腰が溶け落ちそうだった。
「ふ、んっ、ん、んんっ、はぁっ、カムイ様、もう……、もう……」
『ジョーカー……』
背後で竜の声がした。指を丁寧に抜かれて、乱雑に服を脱ぐ衣擦れの音がする。ああ抱いていただける、とジョーカーは知らず期待に笑んだ。
次の瞬間美しい吠え声とともに爪で手を樹の幹に強く縫い止められる。崩れそうな体をそれでもって支えて、頬から肩口までを前脚に押し当て肌から愛を伝えようとする。熱いものが腿の内側に当たり、ひくひくと待ちかねているのが自分でわかった。しかしそれはずる、と、腿の間に通された。
「え……。え、あっ……!」
ジョーカーはあわてて脚を閉じた。カムイはその腿と腿の合わさったやわらかいところを行き来する。中に入ってくるときには夢中でよくわかっていなかったが、それにはささくれない細かな鱗のような凹凸が浮き出ていて、熱く会陰部と内腿を刺激した。精一杯腿を擦り合わせ、片手を自分の唾液で湿して、腿におさまらぬ先端を愛撫する。
「あっ、あっ、カムイ様ぁ……! 早く……そ、そこ。ああ……」
股を熱く硬いものでくり返し擦られ押し付けられていると、それをもう少し後ろに、そのまま、と、律動に頭が支配されていく。ジョーカーは必死で脚をきつく閉じようとしながら身悶えた。カムイの快感の気配が握りこんだものから伝わり、瞬間的に我慢ができなくなった。
「ふぁ……ほ、ほしい……欲しいですカムイ様っ……。そこに、カムイ様が欲しい……ほしいっ……、くださいぃ……!」
『んっ……、』
入れてもらえないのならば、せめて手を熱い精で濡らしたいとかまえていたのに、カムイは止まった。刺激が止まると頭にこもっていた熱は抜けていく。背後で、竜が少年の姿に戻る。
何度か深く長い呼吸をしてカムイはばさりと服を着直し、ジョーカーの着衣をそこそこにもとに戻させて手をつかんだ。
「ジョーカー、部屋に帰ろう」
「はいっ……」
ジョーカーの手をひいて足早に、カムイは自室に戻った。
さあ抱き合おう、とばかりに部屋の鍵をかけカムイは振り返った。しかしジョーカーはばっと頭を下げ、地面を向いたまま固まった。カムイはぽかんとして、そして眉をはねた。
「申し訳、ありませんでした」
消え入るような声のジョーカーにカムイはあわてて近寄った。手をひかれて戻るあいだに、我に返ったジョーカーは顔面蒼白になって、今や泣いていたのだった。
「ジョーカー、」
「あんなふうに、思い上がりませんと、ほ……欲しがりませんと、言ったばかりですのに。
私は、私はだめなのです。あなたを、真実愛そうと……貪ったりせず強くなろうと、思ったのに……、はしたなくねだり事をしてしまいました。もう……」
震える声でジョーカーは言いつのった。
早く、欲しい、などと言ってしまった。淫乱で愚かな男だ。やはり主のおそばから遠ざけなければ。
他人事のように冷静に判断する自分、その裁きにほっとしている自分もいた。水がきれいだと、月がきれいだと思うことができた、それだけでもう十分だ。もう、もう、自分だけを頼ってほしいと嫉妬に狂ったり、閉じ込めたいと思ったり、寵愛の期待に上の空になったり、それが変わることにおびえたりしなくてよくなるのだ。自分は変わらない愛を、何も求めない愛を手に入れるのだ。早くそうなりたい。強くなりたい。少しだけ遠くから、生涯をただこの方に与えたい。もう、それで何もかも大丈夫になった。これでいいのだ。
頭の中でくり返す言葉とうらはらに、融けるように熱い目からぽとぽとと涙が落ちた。
「もう、あなたのおそばに、いられ……」
ジョーカーはしゃくりあげて言葉をつまらせ、口元をおさえた。
そこからは、子供のように、涙をぬぐいながら声を出して泣いた。
「カムイ様、カムイ様、いやです……俺のカムイ様……ずっとおそばにいたい……。ずっと、っ……いっしょに、いたいっ……、大好き……大好きっ、です……っ、もう、もう俺は……」
「ずっとそばにいてよ」
何を言っているかわからなくなっているジョーカーの腕を、カムイは掴んで顔から離させた。いつもは主の意をくんで、従順以上に都合よく動いてしたいようにさせるジョーカーが、泣きうめきながら抵抗した。首を振って距離をとろうとするジョーカーとつかみあい、カムイはついに踏み込んでふたりの間をつめた。
「離さないよ!」
大きく開いた目が間近で合った。くちづけられジョーカーは二、三歩あとずさった。
壁に背が当たり、必死に喰らいつくカムイにぎゅっと包まれる。脚の力が抜けた。ずるずると壁をつたい下がりながら、言いようのないあたたかさで涙が止まらなかった。
子供のころにさえ見たことのないような、ジョーカーの思いきり泣く顔に、カムイは何も言わずに何度もキスをした。
ジョーカーはひとしきり幼な子のように弱く無軌道に抵抗し、やがて、あるがままに愛する人を抱きしめた。
→次ページへ続く

※コメントは最大500文字、3回まで送信できます