カムイが熱を出した。
本人は大丈夫だと言ったが、周りから見ると明らかに顔が赤いし、いつねじが切れた絡繰のようにぱったりと倒れていてもおかしくなさそうであったので、サクラに診てもらうことになった。
「風邪や、ほかの病気ではないみたいです、兄様」
「うん。大丈夫だよ」
「でも、お疲れが出たんです。こういうときは体が弱っているので、悪いものをよせつけるとたいへんなので熱が出るんです。熱で頭もぼうっとするはずですし、大事をとって安静にしなくてはダメです」
サクラの診断を聞いてタクミは心配して損をしたとため息をついた。まるで祭の前後に興奮が切れて熱を出す子供ではないか。戦の体勢を整えている間は外界から隔てられたこの城にいるからいいが、緊張感の管理ができていないのではないだろうか?
「まったく、兄さんは子供みたいなんだから……」
「安心なさったのでしょう」
「え?」
「……なんでも」
ジョーカーはふいと顔をそらして、サクラの前から戻ってくるカムイに歩み寄っていった。やはり口元が少しいやな感じのする笑み方をしていたので、タクミはどうにも気にかかった。
その日の夕食にはカムイとジョーカーは現れなかった。サクラの指示したとおりに、部屋にこもって寝ている、そしてその世話をしているのだろう。そうなのだろうが、夕食後弓の手入れをしている間ずっと気になってしまって、タクミは宵闇の中を兄の部屋の様子を見に行った。見舞いともいえるのだから堂々と行けばいいのかもしれないが、足音を殺して行く。あの執事に、怪しんでいることを悟られてはならない。
「ジョーカー」
兄の部屋のほうから苦しげな声が聞こえてきてタクミは足を止めてぎくりとした。懐の小刀の場所を確認した。そろりそろりとすり足で、扉の脇まで近付く。声が聞こえたのは熱がるカムイのために換気をしているのか、扉が半開きになっていたからだった。
「はい、カムイ様。おつらいですか?」
低く深いのに、女よりも優しく甘い声にタクミはぞくりとした。ジョーカーはかいがいしく水盆から手拭いを絞って、弓の稽古のときのように丁寧に顔や首を拭いてやっていた。首を締めようと思えば簡単だろうし、それとも今にも口を吸いそうな近さであった。
「眠れない……」
「昼間から眠っていらっしゃいましたからね。ずっと寝ているのも苦しいですね」
失礼いたします、と言ってなぜかジョーカーは寝台に乗り上げた。
小刀を構えねばならないのに、タクミはなぜかその背中から目をそらしてしまった。響いてしまいそうな心臓の音を押さえつけ、ただ耳だけをそばだてる。兄の不穏な声が聞こえたら、転がり込むつもりだった。しかし、聞こえてきた音は心地よいものだった。
――眠れ、眠れ、星の夜に 花も眠り 鳥も眠る
小さく、ゆっくりとした、笛の音のように流れる声は、聴いたことがないのになつかしいような歌だった。子守唄だ、暗夜の子守唄なのだとタクミは悟った。夜の中に溶かしこむような、歌声だった。そこで気味の悪さは振り切れて、ああ本当にこいつは兄のことをひたすらに思っているのだと、タクミまで泣きそうになった。気持ちが悪いようなこれは、嫉妬だった。そのように強く焦がれ、焦がれられることへの、怯えだった。
もう一度そっと部屋の中を覗き見ると、寝台の上でジョーカーは主の上体を起こして抱きかかえ、歌にあわせてゆっくりと揺らしてやっていた。兄はくったりとそれに体を預けきって微笑み、深く呼吸をする。子守唄を歌っているジョーカーのほうが、安らかで救われたような横顔をしていた。
それはいまだに恐ろしい淵のように見えた。いつか腹心の臣下に、ヒナタに、自分は心を投げ出してみせたり、また投げ出してもらえるときが来るのだろうか? そのとき、おまえの居場所はここなのだと、全身から受け止められる主の器であれるだろうか?
――眠れ、眠れ、わが袖に 金の夢を 守りなん
タクミは小刀をおさめ、音を立てず自室へと帰っていった。サイゾウもあれを見ているのだろうか。誰も、邪魔をしないでやれたらいい、と思った。
***
「ジョーカー、今日はこの本をよんで」
「わかりました。まずは朝げいこをして、朝食を食べてきてくださいね」
「はあい」
カムイ王子の話し相手、という「仕事」ができても、ジョーカーの下働きとしての雑用がなくなるわけではなかった。ジョーカーの一日はまず朝の厨房の使い走りに始まり、その後身支度を整えてカムイに朝のあいさつをしに行く。カムイがギュンターや時折訪れるようになった兄王子と朝の剣の稽古をして朝食をとっている間に、手早く階下で簡単な食事をして昼なお暗い城に灯りや炭を運ぶ。
カムイがおかしな子供なのは砦から外に出たことがないからで、王城に暮らしていた記憶もないらしかった。ジョーカーも生家の貴族の邸からたいして出ることもなかったし、捨てられてからはさらに周りに無関心になっていたので、世の中を知っているほうではなかったが、それにもましてものを知らずおっとりしている。本を読み聞かせると、教えてやるべきことがたくさんあった。カムイの向学心が強いのか、ジョーカーが伝えようと一生懸命だったからなのか、ジョーカーは結果的によい教師となってカムイを導いた。カムイ様に教えてさしあげたい、という思いが心地よく、自然と書庫の本をむさぼるように読んでいた。
「ジョーカーはなんでも知ってるんだね。すごいね」
「光栄です」
心から頼ってくる世間知らずなカムイの笑顔を見て、カムイ様はおれがお守りしなければ、と思って微笑み返す。そうしてまた階下の雑用に戻ると、みずぼらしい作業着も鈍くささを叱りつけてくる監督役の怒声も、全く恥と感じなくなったのが、ジョーカーの生活で一番変わったところだった。
他人から受ける屈辱など、胸を汚すことはないと思えた。自分の王子はなんとすごい力を持っているのだろう。守られている、と思った。すべての苦痛と恥辱をはねのける護符が、胸に宿っているのを感じた。「カムイ様はおれがお守りする」、その一言を浮かべれば。
依然要領はよくないにしろ、黙々と仕事を進め扱いづらくもなくなったジョーカーを使用人仲間は認め、次第に仕事場の一員として迎えられるようになっていったが、それもやはりどうでもよかった。ともあれ人が変わったようになったジョーカーを見て、ある日ギュンターはジョーカーを執事候補である従僕にすることを言いつけた。
「それは今よりカムイ様のおそばで仕事できるってことか?」
不遜なしゃべり方だけはカムイ相手以外には変わらなかった。ギュンターはその点については後で指導しようと思って話を進めた。
「そうだ。カムイ様の身の回りのお世話をすべて完璧にこなすことがおまえの仕事となる」
「じゃあ、やる」
「私は手は抜かんぞ。どこへ出てもカムイ様に恥をかかせぬ一級の執事にするよう指導する。私の代わりも務まるようにな。今までそうしようとした者は皆音を上げて逃げ出した。覚悟がないならコックにでも弟子入りするがいい」
「はぁ? 誰が。ぜっ、たい、に、逃げねえ」
ギュンターは断られるのを望んでいたように低く沈んだ声でそうかと言った。ジョーカーを見て、ふと遠い目をした。
「力をつけろ。手に誇りある仕事を。いつかおまえが今あるものを失っても、生きていけるようになれ。ここがこの世のすべてではないのだから」
「当たり前だ。カムイ様はいつかここを出ていきたいと言ってる。そのときもおれが守る」
ギュンターは口を閉じ、その中で何やらつぶやいたようだった。はっきり言え、とジョーカーはにらみ上げた。
「……王族の方々のご寵愛は竜の奇跡。いつなんどき、どのように気が変わられるか、ただ人にどうこうすることはできないのだ」
「おれはカムイ様に捨てられたらもうどこにも行かない」
見上げる瞳はすっきりとしていた。蒼にも見える澄んだ紫にギュンターは珍しく目を見開いた。
「カムイ様をお守りして死ぬ。それなら、怖くねえ」
「……何を、生意気な口を。まだてんで使えぬ小僧の分際で」
ギュンターは鞭を横薙ぎに振った。短いそれをすんでのところで避けてジョーカーは尻もちをついた。
「……った! 何しやがる!」
「このくらいは避けてもらわなくては困る。立て! カムイ様をおそばでお守りするには体術、そして隙を見せぬ従者の作法だ。分不相応な大口を叩いたのだから、これから毎日休んでいるひまはないと思え!」
「……不相応だ? やってやろうじゃねえかジジイ……!」
憎々しげに染まる紫の目を見て、ギュンターはきっとこの子供は自分を憎むのだろうな、と、わからぬ程度に少しだけ笑った。
***
ジョーカーは時折感じられるサイゾウであろう視線と、今度は隠すこともなく無遠慮にじろじろ見てくる女の視線に辟易していた。カムイの銀の剣を磨きながら、周りをちょろちょろする小柄な姿に声をかける。
「おい、カザハナとかいったかおまえ。白夜の女には相手にわかるほど他人を眺めまわさないって程度の慎みもねえのか? それともおまえは猪であって人間の女じゃないのか」
「あんたがジョーカー? 最近サイゾウがめちゃくちゃ見てるジョーカー」
「今はおまえに見られてるほうがうぜえ。今俺は繊細な仕事をしてんだよ。さっさと主君のとこに帰れ」
カザハナは立ち止まってジョーカーの手元をじっと見た。言った通り、ジョーカーは細かな意匠と鋭い刃を完璧に磨き上げている。
「ふーん」
「なんだ」
「あたしねえ、カムイ様のこと好きじゃなかったの」
「あん?」
聞いたとたんにあからさまに敵意をむき出しにしてにらみつけてくるジョーカーを見て、カザハナはサイゾウと違い納得するようになぜか軽くうなずき、ジョーカーの隣によいしょと座った。
「てめえ……カムイ様は素晴らしい方で」
「だってサクラ様が『兄様がおかわいそう、母様がおかわいそう』って泣くんだもん。ずっとだよ。覚えてもいないのに。
サクラ様はね、賢くて優しいんだ。昨日だってすごくカムイ様を心配してたんだよ。熱が長引いたらどうしよう、もっと気を付けてあげればよかったって。だからあたし、油断して熱なんか出してもうって腹が立っちゃってさ」
カザハナはひたむきな目とへの字口で、カムイではなくサクラのことを語った。ジョーカーは途中からにらむ目の鋭さを落として聞いていた。
「サクラは優しくてさ、強い子なんだよ。みんなをはげましていたわってあげなきゃって思ってる、ほんとにりっぱなお姫様なんだ。だからそれをあたしが守るんだ。サクラが泣くから、サクラの大事な人たちには元気安心ばっちりでいてもらわないと困るんだよね」
「それなら、心配事がひとつ減ったな。サクラ様には俺がカムイ様をしっかりお支えすると伝えろ」
カザハナはいつもの挑むような笑みでジョーカーの顔を覗きこんだ。ジョーカーはフンと鼻を鳴らして視線を剣に戻す。
「そう。それは助かる!」
「それだけか。あの忍者野郎になんか探ってこいとでも言われたんじゃないのか?」
「えー? じゃあね、あんた何が好き?」
「カムイ様。あとカムイ様のお世話と、カムイ様をお守りすること」
ふざけているような答えに何も突っ込まず、カザハナはにかっと笑って身軽に立ち上がった。
「あたしは桜が好き!」
くるりと回って腕を広げた方には、花は落ちて青々と葉を茂らせている並木があった。ジョーカーは桜という花の美しさを見たことがない。だがきっとこの女にとっては世界で一番、いや二番目にきれいで愛しい花なのだろうな、と理解できた。
「そうか」
「あんたにも花を見せてやりたいよ」
「俺には、カムイ様がいるからいい」
「そっか。それもそうね」
ジョーカーは銀の剣を持ち上げ日にかざして見た。カザハナはこんど訓練付き合ってよ、と別れのあいさつのように言って返事も聞かず走っていった。
***
「カムイ様、そろそろもう、お休みの時間ですよ」
その夜カムイはまだ寝たくないとぐずっていた。夕食後ジョーカーがあたためてきた牛乳を飲みながら、英雄物語を読みきかせられていたのだが、それで興奮したのと少し恐ろしい場面があったのとで、布団について一人にさせられるのが嫌なのだろう。
「ねなくても平気だもの」
「だめです。お体に悪いですよ」
「やだやだ」
だだをこねて、寝台へ手をひいていこうとするジョーカーにぶら下がって座り込もうとするカムイを、なんとか抱き上げて運ぶ。ぴとりと触れ合うと少しおとなしくなった。
「カムイ様、怖かったですか? 本がよくなかったですね。ごめんなさい」
「こわくないよ」
格好のいい抱き上げ方でなく袋に丸めたようになってしまっている中で、カムイはきゅっとジョーカーの服を握ってきた。
「ジョーカー、こわくないからね」
声の調子の優しさにジョーカーは驚いた。どうやら主は、年上の従者を安心させようとしてくれているらしかった。自分が怖がったらジョーカーまで怖がらせると気遣ってくれているのだろう。なにやら胸がいっぱいになってしまって、寝台に運び終えてからしばらく無言になってしまった。
「ジョーカー? ぼく、まだねない」
「……カムイ様」
「うん?」
「おれ、怖くなってしまったので。もう少しおそばにいてもいいですか?」
「……うん!」
カムイは嬉しそうに顔を輝かせ、ジョーカーも天蓋の中に入ってくるよう敷布の上をぱしぱしと叩いて促した。その肩に毛布を巻きかけ、ジョーカーは失礼しますと寝台に乗り上げて腕を広げてみせた。
「なに?」
「抱っこさせてください」
「だっこ」
「カミラ様がするやつです」
カムイはあっあれだな、という顔をした。カミラがたまに訪れて赤ん坊の人形をかわいがるように抱きしめてくる以外には、カムイを胸に抱くものはいない。だからカムイには、普通の子供のようには『抱っこ』の意味がわからない。
「それでこわいのはだいじょうぶになる?」
「はい」
返事を聞くとカムイは喜んで広げた腕の中におさまってきたが、怖がって神経がたかぶっているのとは別に、なにやらぎこちなく妙な力が入っていた。――抱かれ慣れないのだ。ジョーカーは痛ましく思って力を抜けるよう背中を撫でてやった。ジョーカーも抱っこ、という単語を声に出すのはもしかしたら初めてかもしれなかった。
覚えていないほど幼いころには乳母に抱かれていたのだろう、しかし、周りの大人や両親に自ら甘えて求めたことなどなかった。昔の自分も今のカムイと同じに体を少しこわばらせて、それが当然のように、何がおかしいのかわからないようすでいたのだろう。つらかった、寂しかったと、カムイを不憫だと思ってはじめて、今は遠い自分の過去にも思った。
抱いた体をよく支え、さすりながら揺り篭のようにゆっくりとゆらす。少しずつ力が抜けてやわらかくぽかぽかとしてくるカムイに、ジョーカーは歌を歌った。
――眠れ、眠れ、星の夜に 花も眠り 鳥も眠る
カムイは最初だけぴくりと身じろいだが、そのあとは心地よさそうに静かに歌を聴いていた。歌に意識がいき、腕の中の呼吸が落ち着いていくのがわかった。愛らしい主が素直に寝かしつけられていくのを、よしやったぞ、カムイ様のお世話ができていると得意になるのと同時に、まるで自分が抱かれて愛されて子守唄を歌ってもらっているように気持ちよく思った。こんなふうに、されたことはない。うまくできるか不安だったが、カムイはどんどんあたたかく眠たげになっていった。
――眠れ、眠れ わが袖に 金の夢を 守りなん
母に歌われた歌などではなく、カムイのためだけに覚えた歌だった。愛情を受けられなかった自分でもこんなふうに愛情をかけて、それが腕の中の小さくあたたかな、卵のような主に、美しい紅い目の中にだんだんとたまって何かすばらしいものに熟していくことができる。
おれは、こんなふうにしてもらいたかったのだ。
悲しくはなかった。たぶん自分はいまさら、こんなふうに優しくされてもきっとうまく受け取ることができない。なのに、永遠に受け取れないものを自分が与えることができて、素直に受け止めてもらえることが、奇跡のように思えた。嬉しかった。
→次ページへ続く

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