カムイとアクアは二枚の地図と文献を広げて話し合っていた。透魔の国土は、竜の力の暴発によってもとあった地図とずいぶんと変わってしまっている。それを視察調査し、地図を書き変え、必要があれば発見を同盟国に報告することが、ただふたりの王族の今の主な仕事であった。
「……でね、この間天馬に乗ってこのあたりを見てきたのだけど、それらしい川がないの」
「ここも竜脈がおかしくなっているのかな」
「わからないわ。でもこれはたぶん大事な川よ。だって、見て……」
古いほうの地図の、件の川沿いには文字が集まっていた。街に、森、耕地を表す記載。
「おそらく、その川は豊かな水と土壌と……水運ももたらしていたのでしょうね。この地図の街の位置が正確なら増水時にはかなり川幅があります。アクア様のおっしゃる通り、重要な地理だったでしょうね」
脇の小卓にティーカップを置いてジョーカーも地図を覗いた。カムイとアクアは同時にふむふむと頷いた。二人は聡明で直感と器量に優れていたが、基本的にはあまり政治に関することを知らず純朴だった。
「そう、この街と……この農園地帯の間、これが川なら……かなり大きな川ね。何が原因ですっかり消えてしまったのかしら」
「この川、水源はどこかな。そこに何か……」
「……恐れながら、この山が主かと」
ジョーカーは手甲の指先でとんと自分から近い新しいほうの地図を指した。カムイとアクアはまた二人で古い地図の中のその山を見た。周辺の山々からの細い流れを集め、ひとつの川が成っていた。
「しっかりつかまって、ジョーカー」
「もうつかまっておりますよ」
カムイはアクアから借りた天馬に荷物とジョーカーを乗せて翔けていた。例の山には二人で視察に行くことになった。
「もっとつかまってよ。ぎゅうってして」
甘えた声に、ジョーカーはめろめろになって背中に頬ずりをした。
アクアの天馬は主に似て力強いが、さすがに男二人を乗せてはまめに休まねばならない。山沿いの野に降り立つとうっすらと雪が積もっていた。
この国のまだ朽ちて復興していない多くの土地はみな、豊かな竜の力の気配とぞっとするようなもの寂しさに呑み込まれるような情景だったが、雪に覆われるとその力はひめやかになり、その代わり狂気を隠しているようでもあった。
「ジョーカー、こっちを向いて」
雪原を見て少しぼんやりとしていたジョーカーは無防備な唇を奪われた。真昼間の外でついばまれて驚きあわてるのと同時に、ほっとしたような感覚もあった。
「あ……カムイ様、カムイ様……こんなところで……」
「大丈夫、誰もいないよ」
本当に誰もいないのだ、と今更にジョーカーは気付いた。広大な白い廃墟の中に二人きり。誰も見ていないし、誰にも聞こえない。寝室よりも二人きりなのだと思って欲情してしまった。ぴったりとくっついて冷たい空を翔けては、二匹の狐の子のようにじゃれ合うのに夢中になった。確かに寒いはずなのに、ぽかぽかした。カムイの青狐の長い毛皮と、同種の襟のついた灰色の外套は冬空の色の下で本当に「おそろい」のように見え、ジョーカーは本当に作ってよかったとヒノカとカミラに感謝した。
問題の山に着くと、なだらかな中腹に突然小さな館があった。貴族の別荘のような規模に見えたが、辺りの木々が残らず枯れ干からびているのが異様だった。とりあえず不審なその邸に降り立ってみると、なんと地表が妙に熱いのだった。ちょうど白夜の初夏のような気温になっていた。
「あ、竜脈だ」
カムイはジョーカーに外套の袖を抜き取られながら、ジョーカーには見えない土の一点に向かってほてほてと歩き出した。ジョーカーも外套とマフラーを脱ぎはらった。
「何の竜脈かわかりますか?」
「水の竜脈……だと思うよ。でもなんだか不安定だ」
「水ですか。水の竜脈は冷気も司りますから、それがおかしいせいで熱いのかもしれませんね。……このような土の熱気がもともとの状態とは考えづらいです」
「この常緑樹が生えてたから?」
ジョーカーは満足げに微笑んでみせた。
「ご名答です、カムイ様。この邸も、それなりの寒冷に耐えるためのつくりのようですね。ふむ……、おかしいのは地面の温度だけですか。十分に使えそうです。
……ふう、暑いですね……、とりあえず……」
「あー! ジョーカー、来て!」
竜脈を調べる前にカムイはまた何かを見つけ、開け放しの門の中へ駆けていった。透魔風の唐草を描く邸の囲いに適当に天馬を繋いであとを追うと、煙のようなものがふわと見え、ジョーカーはまさか火でも出ているかと急いだ。
「カムイ様、お気をつけ……」
「わあ、あっ、熱い! 微妙に入れないかも!」
館の裏手の、本来なら生垣に囲まれていたのだろうその場所には湯が湧き出て――いや、むしろ、立派に『張られて』いた。というほどに、そこはほぼ天然の岩に固められた、風呂、温泉だった。
「ん~、ジョーカー、入りたい~……!」
お待ちください、とひとまずカムイを湯から離して、ジョーカーは湯を指にすくった。確かに浸かるには熱すぎるようだが、無色無臭で舐めるとほんの少しだけ塩気のある、安全な温泉の水であった。この妙な場所の別荘はこの温泉を利用するための立地だったのだろう。
「確かに、温泉です。……人が使っていたものでしょうし、今地表がこうですから、もとはもっと低い湯温だったのではないですか? 地中に水があることはわかったのです。これは……」
カムイはすっと立った。
「やっぱり、あの竜脈が水源の問題みたいだね」
がぜんやる気が増した様子でカムイはしなやかな竜の姿に変化した。正体不明の竜脈をより感じ取るのには、竜の姿の方がより鋭敏なのだという。竜脈の場所に戻っていくカムイに寄り添い歩いてジョーカーは息をついた。水を操る竜身の近くは暑くも乾燥してもおらず快適なのだった。
『ええと、あそこが、水の竜脈で』
てし、と蹄で近付いていくと、地響きが聞こえた気がした。
「カムイ様、何か聞こえませんでしたか?地響きのような」
『え?まだここじゃないよ。でもなんだかこれ、範囲が広いのかな……、……あれっ……』
「また聞こえました。温泉のほうでは」
『あれ、あれ、ほんとだ、もう動いてる……!』
「カムイ様、お戻りください!」
とっさに竜脈の方向から飛び退いても何かが変わっていく気配にあまり変わりはない。ジョーカーが腕を広げ、そこにすぽりとおさまってカムイは少年の姿に戻った。細かな雨のようなものが、抱きとられた背中を湿らせた。
「な、なにが起こったの、結局?まだあの竜脈は動くみたいだけど」
「これ以上刺激しないほうがよいでしょう、竜のお姿はひとまずだめです。……あれをご覧ください。わりあい目的達成のようですよ」
ジョーカーの指さす先、温泉より少し上の斜面からは水が、いや霧が噴き出していた。地表の温度も落ち着いていく。
冷えて霧をなす蒸気の中で、二人はちょうどよい温度になった湯に浸かった。天馬の手綱を握っていたカムイの背中から腕をちゃぷちゃぷとマッサージしながら、ジョーカーはゆったりと講義をした。誰に邪魔をされるおそれもなく二人で風呂に浸かるなどそういえば初めてのことだった。
「あれは、じきに雲になるのですよ、カムイ様」
「雲に……?」
「ええ、この湿気はあたたかいですが、今あなたがもとの温度に戻した地表を山の高みへと上っていき、冷えて、そこで雲に。その雲が雨や雪になって注ぎます」
「それが川になるの?」
「いいえ、すぐには。ここが川の水源になるには、先ほどの干からびた森が緑の森に戻る必要があると思います。その礎をカムイ様は復元なさったのですよ」
ほかの山と同じに、ちらちらと雪が降ってきたので二人で寄り添って眺めてから風呂から上がった。髪を拭かれながら、ここに泊まっていきたいな、とカムイは言った。拠点としてよい環境である、ジョーカーも賛成した。もう少しカムイとふたりきりの胸のあたたかさを感じていたかった。
小さな館は人が住まなくなったなりには荒れていたが、ジョーカーは残されている道具をすかさず見つけ出して機敏に掃除をしてのけた。見つけたいくらかの薪も先程までの状況を考えれば当然乾いており、奥の暖炉のある部屋に寝床を整えた。
「寝台があってようございました。ゆっくりお休みくださいませ」
みるまに、もとから別荘としてあつらえたのではないかという部屋で夕食の前に座らされており、カムイは自分の執事の腕に改めて感心した。
「ジョーカーはすごいね。僕ほとんど何もできなかったな……」
「何をおっしゃいますか。カムイ様に天馬の手綱も任せ温泉も使えるようにしていただいて、このくらいしなければ私がついてきた意味がありませんよ」
カムイにぜひにとすすめられてジョーカーは同じ食卓についた。そして暖炉の火を見ていたがるカムイに寄り添い、館の中で見つけた暗夜のものと似たカードで遊んだ。お互いの大好きな声だけが響き、子供のころに戻ったようだった。何も、聞こえない。世界に二人だけのように静かだった。
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